11月はローマ・カトリック教会では「終末の月」と呼ぶ。1日は「聖人たちの日」(Allerheiligen)であり、翌日の2日は「死者の日」(Allerseelen)だ。教会では死者を祭り、信者達は墓参りに行く。
人間の「死」は、愛する夫、妻との別れを意味し、遣り残したこの世の仕事から完全に断絶される瞬間と久しく受け取られてきた。
独修道院のブルーノ・プラター館長は、「現代人は死に対してあらゆる医学的手段を駆使して戦いを挑み、戦いの末、多くは病院で死を迎える。死は人目の届かないところに追いやられた。しかし、肉体の死は本来、自然のことであり、決してネガティブな出来事ではないはずだ」と述べている。
近頃では、100歳以上の高齢者が増えたが、200歳まで生きた人間がいたとは聞かない。最高でも120歳ぐらいだろう。すなわち、「人間は死ぬ存在」だというわけだ。
だから、神を信じる人もそうではない人(無神論者)も「死」は重要なテーマだ。死をどのように捉え、どのように迎えるかは人生の大きな課題といって間違いないだろう。
通常、葬式の場合、男性なら黒色のスーツ、女性なら黒色の喪服を着て参席する。それを白色の服で葬式を行うキリスト教団がある。世界基督教統一神霊協会(通称・統一教会)だ。その創設者・文鮮明師によると、人は10カ月余りの「胎内生活」を経て、「地上生活」、そして肉体生活を終えると霊界へ行って、そこで永存するという。肉体の死は霊界の世界へ入る門出と考え、参加者は白色の服を着て、祝う。「葬式」という言葉は使わず、「昇華式」という新語を使う。喜びを持って死者を霊界へ送り出すセレモニーだからだ。
統一教会の信者ではない人が、昇華式に参席した。彼は後に「葬式といった暗い雰囲気はまったくなかった。参加者も明るい。同時に、霊界へ死者を送るわけだから厳粛さもあった」と感想を述べている。
「昇華式」はまったく新しい死生観だろう。人間を苦しめ、悲しめてきた「死」の恐怖から解放され、「死」は新しい世界(霊界)への出発式となったのだ。
文師は「昇華式」を提示し、わたしたちの「死生観」を180度、変えたわけだ。「昇華式」という新しい死生観は、いずれは死を迎える全ての人々にとって福音といえるだろう。
人間の「死」は、愛する夫、妻との別れを意味し、遣り残したこの世の仕事から完全に断絶される瞬間と久しく受け取られてきた。
独修道院のブルーノ・プラター館長は、「現代人は死に対してあらゆる医学的手段を駆使して戦いを挑み、戦いの末、多くは病院で死を迎える。死は人目の届かないところに追いやられた。しかし、肉体の死は本来、自然のことであり、決してネガティブな出来事ではないはずだ」と述べている。
近頃では、100歳以上の高齢者が増えたが、200歳まで生きた人間がいたとは聞かない。最高でも120歳ぐらいだろう。すなわち、「人間は死ぬ存在」だというわけだ。
だから、神を信じる人もそうではない人(無神論者)も「死」は重要なテーマだ。死をどのように捉え、どのように迎えるかは人生の大きな課題といって間違いないだろう。
通常、葬式の場合、男性なら黒色のスーツ、女性なら黒色の喪服を着て参席する。それを白色の服で葬式を行うキリスト教団がある。世界基督教統一神霊協会(通称・統一教会)だ。その創設者・文鮮明師によると、人は10カ月余りの「胎内生活」を経て、「地上生活」、そして肉体生活を終えると霊界へ行って、そこで永存するという。肉体の死は霊界の世界へ入る門出と考え、参加者は白色の服を着て、祝う。「葬式」という言葉は使わず、「昇華式」という新語を使う。喜びを持って死者を霊界へ送り出すセレモニーだからだ。
統一教会の信者ではない人が、昇華式に参席した。彼は後に「葬式といった暗い雰囲気はまったくなかった。参加者も明るい。同時に、霊界へ死者を送るわけだから厳粛さもあった」と感想を述べている。
「昇華式」はまったく新しい死生観だろう。人間を苦しめ、悲しめてきた「死」の恐怖から解放され、「死」は新しい世界(霊界)への出発式となったのだ。
文師は「昇華式」を提示し、わたしたちの「死生観」を180度、変えたわけだ。「昇華式」という新しい死生観は、いずれは死を迎える全ての人々にとって福音といえるだろう。