部屋から明かりが漏れてこない。3人の婦人たちが中庭を竹箒で掃除する音が微かに外に響いてくるだけだ。

▲半旗を掲げる北大使館=2011年12月19日、撮影
金正日労働党総書記が17日、特別列車で現地視察のため移動中、心臓発作で亡くなった。駐オーストリアの北朝鮮大使館(金光燮大使、金正日労働党総書記の義弟)は国家指導者の死去を受け、半旗を掲げていた。雨がいつ降り出してもおかしくない曇り空の中、風がないので半旗は力なく俯いていた。
海外の北公館でも弔問客を迎える準備があるはずだが、ウィーン14区の大使館の正面玄関はまだ閉ざされていた。
当地のテレビ局でも19日早朝から「金総書記の死去」をトップで報道していた。金総書記後の後継者・金正恩氏を紹介する一方、日韓が国家安全保障会議を招集し、韓国軍が非常体制を敷いている、といったニュースを繰り返し流していた。
大使館前の写真掲示板には金総書記の過去視察の様子を伝える写真20枚が貼ってあった。「国民の生活向上のため」というタイトルのもと、金総書記が国民の生活水準の向上にのため努力している、という説明文がそれに付いていた。
金総書記は2008年、脳卒中で倒れたが、最近は現地視察を後継者の正恩氏を連れて積極的にこなしていた矢先だ。
69歳の死は“父王”金日成主席より13歳も若い年齢だ。同国国営放送によると、金総書記は「『強盛国家建設』のための強行軍の中でたまった精神的・肉体的過労で急性心筋梗塞を引き起こし、ひどい心臓ショックを併発した」という。金総書記は疲れ切って、最後は心臓発作で亡くなったわけだ。
ちなみに、金総書記の「死」から「死去報道」まで1日半の時間があったことから、北指導部には緊急会議を招集し、今後の対策を少しは検討する時間があったはずだ。
主人を失った北大使館は不気味なほど静かだった。嵐の前の静けさか、それとも、当惑と絶望で無気力感に覆われているからだろうか。
金総書記後の北の動向を予測するためには、「喪明け」まで待たなければならないだろう。

▲半旗を掲げる北大使館=2011年12月19日、撮影
金正日労働党総書記が17日、特別列車で現地視察のため移動中、心臓発作で亡くなった。駐オーストリアの北朝鮮大使館(金光燮大使、金正日労働党総書記の義弟)は国家指導者の死去を受け、半旗を掲げていた。雨がいつ降り出してもおかしくない曇り空の中、風がないので半旗は力なく俯いていた。
海外の北公館でも弔問客を迎える準備があるはずだが、ウィーン14区の大使館の正面玄関はまだ閉ざされていた。
当地のテレビ局でも19日早朝から「金総書記の死去」をトップで報道していた。金総書記後の後継者・金正恩氏を紹介する一方、日韓が国家安全保障会議を招集し、韓国軍が非常体制を敷いている、といったニュースを繰り返し流していた。
大使館前の写真掲示板には金総書記の過去視察の様子を伝える写真20枚が貼ってあった。「国民の生活向上のため」というタイトルのもと、金総書記が国民の生活水準の向上にのため努力している、という説明文がそれに付いていた。
金総書記は2008年、脳卒中で倒れたが、最近は現地視察を後継者の正恩氏を連れて積極的にこなしていた矢先だ。
69歳の死は“父王”金日成主席より13歳も若い年齢だ。同国国営放送によると、金総書記は「『強盛国家建設』のための強行軍の中でたまった精神的・肉体的過労で急性心筋梗塞を引き起こし、ひどい心臓ショックを併発した」という。金総書記は疲れ切って、最後は心臓発作で亡くなったわけだ。
ちなみに、金総書記の「死」から「死去報道」まで1日半の時間があったことから、北指導部には緊急会議を招集し、今後の対策を少しは検討する時間があったはずだ。
主人を失った北大使館は不気味なほど静かだった。嵐の前の静けさか、それとも、当惑と絶望で無気力感に覆われているからだろうか。
金総書記後の北の動向を予測するためには、「喪明け」まで待たなければならないだろう。