ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

リビア

リビアのカダフィ大佐の息子、殺害される

 北アフリカに位置するリビアで約42年間、独裁政権を維持してきたムアンマル・アル=カダフィ大佐の次男セイフ・アル=イスラム・カダフィ氏(53 )が殺害された。 同氏の顧問アブドラ・オスマン・アブドゥルラヒム氏は3日、リビアのアル=アフラール・ラジオに対し、「4人の覆面をした武装集団が自宅を襲撃し、監視カメラを無効化した上で彼を射殺した」と語った。また、セイフ・アル=イスラム氏の従弟ハミド・カダフィ氏は、アル=アフラール・ラジオ局に対し、「彼は殉教した。これ以上の情報はない」と電話で語っている。複数のメディアによると、セイフ・アル=イスラム氏はリビア北西部のジンタン市にある自宅の庭で射殺された。リビア検察当局は4日、検視の結果、死因は銃弾による傷であったと確認した。

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▲セイフ・アル=イスラム氏(2004年10月、ウィーンで撮影)

 父親カダフィ大佐は2011年殺害され、アル=イスラム・カダフィ氏は同年11月、リビア南部で反体制派武装勢力に拘束され、拷問で指を切られ、2015年には銃殺刑の判決を受けたが、17年6月、恩赦を受けて釈放された。その後の行方は不明だった。ただ、同氏は2021年11月14日、大統領選に出馬届けをしたことで健在であることが判明していた。

 セイフ・アル=イスラム氏は長らく父の後継者と目され、2011年のアラブの春以前は穏健で改革志向のイメージがあった。しかし、北アフリカ諸国の抗議運動(アラブの春)では残忍な弾圧を支持した。2011年11月、彼は国際刑事裁判所(ICC)が発行した逮捕状に基づき、リビア南部で逮捕された。 2015年、彼は反乱中に犯した罪により、トリポリの裁判所で欠席裁判で死刑判決を受けた。後にリビア東部の敵対政権によって恩赦を受けた。そして2021年、長らく姿を現さなかったセイフ・アル=イスラム氏は、突如として姿を現し、リビアで予定されていた大統領選挙に立候補した。しかし、憲法上の根拠と候補者をめぐる対立により、選挙は実現しなかった。

 2011年のカダフィ政権崩壊後、リビアは東西分裂と民兵組織の割拠による深刻な内戦・混乱状態が続いてきた。現在は国際社会が承認する西部トリポリのドベイバ政権と、東部ベンガジを拠点とするハリファ・ハフタル陸軍元帥が率いるハマーダ政権に分断された状況だ。石油利権を巡る外国の介入で情勢は複雑化し、治安は不安定だ。

 セイフ・アル=イスラム氏の殺害について、トリポリのドベイバ政権とつながりのある民兵が殺害に関与したのではないかとの憶測が流れている。トリポリ国防省とつながりのある民兵は、殺害への関与を否定した。セイフ・アル=イスラム氏は政界復帰の準備を進めていたと報じられており、ドベイバ首相とその支持者たちにとって潜在的な脅威となる可能性があった。

 セイフ・アル=イスラム氏はオーストリアとは縁が深かった。そのこともあって、当方は同氏とウィーンで単独会見する機会があった。セイフ・アル=イスラム氏は1998年から2000年の間、ウィーン大学で経済学を学ぶために留学していた。その後も頻繁にウィーンとトリポリの間を行き来していた。オーストリア訪問時に同氏を世話したのは在オーストリアのリビア大使だったが、オーストリア側の世話人は当時の極右政党「自由党」党首イェルク・ハイダー氏だった。当方がセイフ・イスラム氏に初めて会ったのはハイダー氏が開いたイベントでだ。

 カダフィ大佐は2003年12月、米国の提案を受け入れて、大量破壊兵器(WMD)全廃宣言をし、その代りにリビア側は国家の体制保持を得た。カダフィ大佐は当時、北朝鮮の故金日成主席と交流があった。そこで当方は、北朝鮮の核問題に対するリビアの見解を聞くことが狙いでセイフ・アル=イスラム氏に会見した。同氏はインタビューの中で、「父に随伴して北朝鮮を訪問し、金日成主席と会見したことがある。わが国と北朝鮮は久しく良好関係を堅持してきた。その意味で、北朝鮮の核問題については懸念している」と述べ、米国が北側の体制の安全を保障すれば、平壌側も核問題でもう少し柔軟に対応してくるだろうと語ったことを覚えている。

 セイフ・アル=イスラム氏のウィーンの私邸で若い女性が窓から落ちて死ぬという事故が起きたことがあった。メディアは当時、さまざまな憶測情報を流した。その同氏を援護したのがハイダー氏だ。ハイダー氏は当時、欧州の極右派指導者として勢いがあった。同氏はリビアを訪問し、カダフィ大佐とも会い、政治資金を得ていたという噂があった。ハイダー氏はリビアを含む中東諸国と深い人脈を有していた。

 ウィーン滞在時にセイフ・アル=イスラム氏を世話した人物はハイダー氏のほか、もう1人いた。リビアのカダフィ政権下で首相や石油相を務めたシュクリ・ガネム氏だ。同氏がウィーンの石油輸出国機構(OPEC)の副事務局長(調査局長)だった時、当方は数回、会見した。ガネム氏はOPEC時代、セイフ・アル=イスラム氏のアドバイザーのような立場だった。彼が留学中、ガネム氏はセイフ・アル=イスラム氏のためにさまざまな雑務をこなしていた。

 カダフィ大佐ファミリーから信頼を得た同氏はリビアに戻った後、03年から06年まで首相を務め、06年後は国営石油会社NOCのトップに就任した。同氏はカダフィ大佐の腹心として石油ビジネスで稼いだ富をウィーンやスイスの銀行で管理していた。ガネム氏はウィーン市20区にペントハウスを持ち、会社を経営していた。

 カダフィ家の世話人でもあったガネム氏はリビアでカダフィ政権打倒の民主化運動が始まった時、「カダフィ政権と袂を分かつ潮時を迎えた」(中東問題専門家アミール・ベアティ氏)と判断を下したのだろう。11年5月、ウィーンで亡命生活を始めた。その同氏は12年4月29日、ドナウ川で遺体となって発見された。死因は不明だ。

 ハイダー氏は2008年10月、交通事故で急死し、ガネム氏は原因不明の死を遂げた。そしてセイフ・アル=イスラム氏が今回、リビアで射殺された。リビアを42年間君臨した独裁者カダフィ大佐と関わった家族関係者、忠臣、友人はいずれも不幸な終わりを迎えたわけだ。

 ちなみに、セイフ・アル=イスラム氏の殺害は、リビア国内で依然として彼を支持していた旧体制派や部族勢力の反発を招く恐れがあり、不安定なリビア情勢はさらに混迷する可能性が出てきた。

カダフィ大佐の次男、大統領選出馬

 リビアで42年間君臨したカダフィ大佐の次男、セイフ・イスラム氏(49)が14日、同国南部セブハの選挙管理委員会を訪ね、来月24日に実施される大統領選挙への立候補を届け出たというニュースが入ってきた。父親カダフィ大佐は2011年殺害され、同氏は同年11月、リビア南部で反体制派武装勢力に拘束され、拷問では指を切られ、2015年には銃殺刑の判決を受けたが、17年6月、恩赦を受け釈放された。その後の行方は不明だった。同氏が14日、大統領選に出馬届けをしたことで健在であることが判明した。

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▲セイフ・イスラム氏(2004年10月、ウィーンで撮影)

 このコラム欄でも書いたが、セイフ・イスラム氏とは過去、ウィーンで会見した。今回はセイフ・イスラム氏とウィーンの関係を少し説明する。

 セイフ・イスラム氏は1998年から2000年の間、ウィーン大学で経済学を学ぶために留学していた。その後も頻繁にウィーンとトリポリの間を行き来していた。オーストリア訪問時に同氏を世話したのは在オーストリアのリビア大使(後日、駐独大使に就任)だったが、オーストリア側の世話人は当時の極右政党「自由党」党首イェルク・ハイダー氏だった。当方がセイフ・イスラム氏に初めて会ったのはハイダー氏が開いたイベントでだ。

 カダフィ大佐は2003年12月、米国の提案を受け入れて、大量破壊兵器(WMD)全廃宣言をし、その代りにリビア側は国家の体制保持を得た。カダフィ大佐は当時、北朝鮮の故金日成主席と交流があった。そこで当方はリビアの北朝鮮の核問題に対する見解を聞くことが狙いでセイフ・イスラム氏に会見した。同氏はインタビューの中で、「父に随伴して北朝鮮を訪問し、金日成主席と会見したことがある。わが国と北朝鮮は久しく良好関係を堅持してきた。その意味で、北朝鮮の核問題については懸念している」と述べ、米国が北側の体制の安全を保障すれば、平壌側も核問題でもう少し柔軟に対応してくるだろうと語ったことを覚えている。

 セイフ・イスラム氏のウィーンの私邸で若い女性が窓から落ちて死ぬという事故が起きたことがある。メディアは当時、さまざまな憶測情報を流した。その同氏を援護したのがハイダー氏だ。ハイダー氏は当時、欧州の極右派指導者として勢いがあった。ハイダー氏はリビアを訪問し、カダフィ大佐とも会い、政治資金を得ていたという噂もあった。ハイダー氏は当時、リビアを含む中東諸国と深い人脈を有していた。

 そのハイダー氏は08年10月11日、クラーゲンフルト南部に住む母親の誕生日を祝うため車で走っていた時、交通事故で亡くなった。58歳だった。ハイダー氏の葬儀は国葬ではなかったが、参列者数と規模では、04年7月に急死したトーマス・クレスティル大統領の国葬を大きく上回った。

 ウィーン滞在時にセイフ・イスラム氏を世話した人物はハイダー氏のほか、もう1人いた。リビアのカダフィ政権下で首相や石油相を務めたシュクリ・ガネム氏だ。同氏がウィーンの石油輸出国機構(OPEC)の副事務局長(調査局長)だった時、当方は数回、会見した。ガネム氏はOPEC時代、セイフ・イスラム氏のアドバイザーのような立場だった。セイム・イスラム氏が留学中、ガネム氏はセイフ・イスラム氏のためにさまざまな雑務をこなしてきたはずだ。

 カダフィ大佐ファミリーから信頼を得た同氏はリビアに戻った後、03年から06年まで首相を務め、06年後は国営石油会社NOCのトップに就任した。同氏はカダフィ大佐の腹心として石油ビジネスで稼いだ富をウィーンやスイスの銀行で管理していたはずだ。ガネム氏がウィーン市20区にペントハウスを持ち、会社を経営していた。

 リビアでカダフィ政権打倒の民主化運動が始まった時、ガネム氏は、「カダフィ政権と袂を分かつ潮時を迎えた」(中東問題専門家アミール・ベアティ氏)と判断を下したのだろう。11年5月、ウィーンで亡命生活を始めた。その同氏は12年4月29日、ドナウ川で遺体となって発見された。死因は不明だ(「ウィーン市とガネム石油相の関係」2011年5月21日、「リビアの知人の急死と『石油』」2012年5月1日参考)。

 セイフ・イスラム氏のウィーン留学時や訪問時に同氏を世話していた2人、ハイダー氏は交通事故死、ガネム氏はドナウ川で遺体となって発見されたわけだ。両者とも通常の死因ではなかったのは単なる偶然かもしれない。いずれにしても、セイフ・イスラム氏が12月の大統領選に出馬する。父親カダフィ大佐のような民族服で現れ、登録をした同氏は国民の一部では依然、根強い人気を有しているという。

 リビアでは今年3月、暫定国民統一政府(GNU)が代表議会の承認を得て成立したことから、14年の内戦開始以降、初めて政府が統一された。パリでは今月12日、フランスのマクロン大統領の呼びかけでリビア情勢に関する国際会議が開催された。12月の大統領選と議会選が同時に実施されることから、内戦と停戦を繰り返してきたリビア情勢はいよいよ正念場を迎える。セイフ・イスラム氏の大統領選出馬がどのような影響を与えるかは現時点では予測できない。

リビアの知人の急死と「石油」

 オーストリア国営放送の夜のニュース番組を見ていたら、「ドナウ川で、リビアのカダフィ政権下で首相や石油相を務めたシュクリ・ガネム氏(Shokri Ghanem)の遺体が発見された」という。最初はピンとこなかったが、その写真を見てビックリした。あのガネム氏(69)ではないか。

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▲不審な死を遂げたリビアのガネム元首相・石油相(アメール・ベアティ氏提供)

 ウィーン警察が29日発表したところによると、遺体は同日午前に発見され、暴行の形跡はないという。 どうしてガネム氏の遺体がドナウ川で見つかったのか。警察側は30日にも司法解剖する予定だ。


 当方は同氏とはウィーンの石油輸出国機構(OPEC)の副事務局長(調査局長)時代から知り合いだ。数回、インタビューにも応じてもらったことがある。気さくな性格で太っ腹なところがあるアラブの紳士というイメージがあった。


 カダフィ大佐の要請でリビアに戻った後、2003年から06年まで首相を務め、06年後は国営石油会社NOCのトップに就任したが、民主改革が勃発後、昨年5月、カダフィ政権から離脱してウィーンに政治亡命した、という憶測情報が流れていた。なぜならば、ウィーン市内に家族が住んでいるからだ。


 当方は昨年、「ウィーン市とガネム石油相の関係」11年5月21日)というコラムを書いた。ぜひ、再読をお願いする、ガネム氏の今回の死を考える上で参考になるはずだからだ。同氏はカダフィ大佐の腹心として石油ビジネスで稼いだ富をウィーンやスイスの銀行に管理していたはずだ。ガネム氏がウィーン市20区にペントハウスを持ち、会社を経営していたことも分かっている。

 同氏はOPEC時代、カダフィ大佐の息子、セイフ・アル・イスラム・カダフィ氏のアドバイサーのような立場だった。セイム・イスラム氏が留学中(1998年から2000年までウィーン大学で経済学)、ガネム氏はセイフ・イスラム氏のためにさまざまな雑務をこなしてきたはずだ。同時に、「ウィーンのカジノで30万ドルを賭けるなど、その豪遊ぶりはマフィアのボスのようだった」という噂もあった。リビアでカダフィ政権打倒の民主化運動が始まった時、ガネム氏は「カダフィ政権と袂を分かつ潮時を迎えた」(中東問題専門家アミール・ベアティ氏)と判断を下したのだろう。ベアティ氏によると、ガネム氏の死について、�/澗“�作、�⊆�殺、��殺害の3つのシナリオが考えられるという。


 ガネム氏の人生は終始、リビアの石油ビジネスと深くかかわってきた。その富を巡ってさまざまな紛争、闘争があったはずだ。スーダンと南スーダンの紛争をみていても痛感することだが、石油の利権争いが人間を富の追求に駆りたたせ、民族・国家を紛争に誘う。ガネム氏の冥福を祈る。

ウィーン市とガネム石油相の関係

 リビア最高指導者カダフィ大佐の腹心の一人、ショクリ・ガネム(Shokri Ghanem)石油相がカダフィ政権に決別し、リビアを出国してチュニジアに逃亡したという情報が入った。その直後(19日)、「同氏がウィーンに向かっている」(オーストリア日刊紙クローネ20日付)との情報が流れた。
 オーストリア内務省は20日段階で同氏(68)がウィーン市に亡命してきたことを確認していないが、ガネム氏がウィーンに亡命してきても不思議ではない。音楽の都・ウィーン市と同氏の間にはそれだけの長い付き合いがあるからだ。
 ガネム氏のことを少し読者に紹介しよう。中東アラブ諸国の指導者たちが音楽の都ウィーン市を愛する一方、その地勢的利点を巧みに利用して富を蓄積してきたことが分るかもしれない。
 石油輸出国機構(OPEC)事務所がまだドナウ水路沿いにあった時代、ガネム氏はOPEC副事務局長(調査局長)を務めてきた。同時に、カダフィ大佐の息子、セイフ・アル・イスラム・カダフィ氏(Saif al-Islam Qadh?f?)のアドバイサーのような立場だった。セイム・イスラム氏が留学中(1998年から2000年までウィーン大学で経済学)、ガネム氏はセイフ・イスラム氏のためにさまざまな雑務をこなしてきたはずだ。
 当方は過去2度、ガネム氏と会見したことがある。一度目は2001年11月、ウィーンのOPEC事務所で会見した。同氏はそこで「非OPEC諸国(ロシアやメキシコなど)の協力が価格安定には不可欠だ」と強調した。同氏は会見中、終始、柔和な表情で、語り口も欧米政治家を思わせるほど洗練していたことを思い出す。当方は当時、同氏から「アラブの紳士」のような印象を受けたものだ。
 しかし、当方の初印象が間違っていたことは後で分った。アラブ人記者たちから「彼はウィーン市1区のカジノで30万ドルを賭けていた」「その豪遊ぶりはマフィアのボスのようだ」と聞いたからだ。ガネム氏がウィーン市20区にペントハウスを持ち、会社を経営していることも後で判明した。
 カダフィ大佐からトリポリに呼び戻された時(同氏はその後、首相にも一時就任)、同氏は「本当はウィーンに留まりたいよ」と吐露するほど、ハプスブルク王朝の香りを残すウィーン市をすっかり気に入っていた(ただし、同氏はオーストリアの銀行ではなく、スイスの銀行に隠し口座を持っている)。2人の娘は当時、ウィーンに留まり、ガネム氏はその後、暫くトリポリとウィーンの間を頻繁に行き来していたほどだ。
 リビアでも独裁者カダフィ政権打倒の民主化運動が始まった。ガネム氏は「カダフィ政権と袂を分かつ潮時を迎えた」と判断を下したのだろう。
 ガネム氏を良く知る友人記者は「彼は今後の人生を楽しく過ごしていくのに十分な蓄えを既に稼いだはずだ」という。
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