ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

アルバニア

アルバニアのティラナ大司教の「話」

 バチカンニュースは10日付でアルバニアの首都ティラナのカトリック教会のアルジャン・ドダージ大司教(Arjan Dodaj)の証を大きく掲載した。アルバニアはバルカン半島の南西部に位置し、人口300万人弱の小国だ。アルバニアのエンヴェル・ホッジャ労働党政権(共産党政権)が1967年、世界で初めて「無神論国家宣言」を表明したことから、同国の名前は世界の近代史に刻印されることになった。

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▲アルバニアのローマ・カトリック教会ティラナ大司教区のドダージ大司教(バチカンニュース、2023年5月10日から)

 ソ連・東欧共産圏はいずれも無神論国家だったが、正式に「無神論国家宣言」を表明したのはアルバニアが最初だった。冷戦が終焉し、アルバニアが1990年に入り、民主化に乗り出した直後、当方は世界初の「無神論国家」の現状を自分の目で見るためにティラナに飛んだ。直接の契機はアルバニアの民主化後の初代大統領サリ・べリシャ大統領と単独会見の約束があったからだが、出来ればティラナで会いたい人物がいたのだ。ホッジャ政権下で25年間、収容所に監禁されていたローマ・カトリック教会のゼフ・プルミー神父と会見し、「無神論国家」下の宗教事情について聞きたいと思っていた。

 神父は当時、ティラナの他の住居がそうであるように小屋のような家に住んでいた。神父は小柄で痩せていた。眼光だけはしっかりと当方に向けられていたが、声は小さかったことを思い出す。当時の取材ノートを見ると、同神父は、「わが国の民主化は宗教の自由を求めることから始まった。シュコダルで初めて正式に礼拝が行われた時、警察当局はもはや武力で礼拝を中止できなくなっていた。ティラナで学生たちの民主化運動が本格的に開始する前に、神について自由に語る権利を要求する運動が始まっていた。当時の共産政権指導者は恐れを感じていた」と話してくれた。プルミー神父との話はおよそ30年前だ。

 ドダージ大司教は同神父が収容所に拘束されていた時に生れた。同大司教は16歳の時、スターリン主義崩壊後の祖国アルバニアからイタリアに移住し、溶接工として労働していた当時、17歳で洗礼を受け、その後、聖職者の道を歩みだし、アルバニアに戻り、牧会活動を展開している。そのドダージ大司教の話がバチカンニュースでトップで報じられていた。移住者、労働者、神父、司教の道を歩んできたドダージ大司教の「証」だ。

 アルバニアでは多くの若者が西側に移住する。公式統計によると、2021年だけで4万2000人が外国に移住した。出国するのは主に若者で、その多くはイタリアやドイツに移住する。自身が移住を体験しているドダージ大司教は今日、アルバニアの若者たちが祖国に留まることが出来るように運動している。

 ドダージ大司教の移住体験談を少し紹介する。

 「私たちが独裁政権から抜け出したとき、私たちは皆同じ服を着ていて、同じようにやせ細っていた。共産主義が崩壊した時、私は14歳だった。当時、私の友人や仲間たちは皆、アルバニアを出て海外へ行きたがっていた。私たちは極度の貧困の中で暮らしていたため、ここを去りたかったのだ。私もタグボート付きモーターボートでアドリア海を渡って不法入国した。他のアルバニア人が既に働いていた北イタリアに行き、そこで溶接工として働いた。私は当時16歳でイタリアでは未成年だったが、背が高かったので、18歳のふりをした。そうでなければ、誰も私を連れて行ってくれなかっただろう。その後、160万リラの借金を返済するために働かなければならなかった」

 「イタリアに移住した時は神をまったく知らなかった。神についてアルバニアで教育を受けたことがなかったからだ。アルバニアは野外強制収容所だった。私たちはそこで地獄のような暮らしをしていた。逃亡は危険を伴うが、絶望的な状況からの逃亡だった。今日の北朝鮮で見られることは、当時私たちが経験したこととまったく同じだ。恐怖と恐怖の文化だ。アルバニア人の反応を理解するには、そのことを知っておく必要がある」

 「残忍な独裁政権の記憶は今でも鮮明に残っている。宗教、神、信仰の話をするだけでも命がけだった。誰もそれについて話さないし、誰も祈らない。勇敢な信者たちは聖人の像を壁に埋め込み、その場所をメモし、長年にわたってその前に立って秘密の祈りを捧げていた。私自身、同世代の他の若いアルバニア人たちと同様、神なしで育った。家族の中で神について話したことが一度もなかった。私たちは神の存在など考えたこともなかった。三日月がイスラム教、十字架がキリスト教を象徴しているとは知らなかった。首に十字架を掛けた人は誰もいなかった」

 「私はイタリアで初めて信仰を知った。私は教会の近くの『青少年の家』に住んでいた。ホームの責任者が定期的に祈りのために集まる青少年グループの所へ来るよう勧めた。教会の若者たちが祈っていたので、私も祈り始めた。それは私の潜在意識から出てきたものだった。突然、神の生きた臨在の感覚があった。私たちの場合、全てとても物質主義的だったが、教会で祈っている間、神に囲まれていると感じた。私たちの神は具体的で、言葉は事実だった」

 「私は1994年にバプテスマ(洗礼)を受け、1996年まで建設現場で働き続けた。97年にローマの神学校に入学した。2003年5月11日、ヨハネ・パウロ2世によって神父に叙階され、20年にフランシスコ教皇は私をティラナ大司教に任命した」

 同大司教の証を読んでいると、30年前にティラナで会ったプルミー神父の事をどうしても思い出してしまう。同神父の人生はほとんど共産主義政権下の収容所生活に終始したが、アルバニアの1人の若者が外国に移住し、労働者として働いていた時、神に出会い、アルバニアに戻り、プルミー神父が多分そうしたかったように、若者たちに神を伝える日々を送っているわけだ。

 一つの聖句を思い出す。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」という有名な「ヨハネによる福音書」第12章24節の聖句だ。

 歴史が前進するためには、責任を担う者の「受難」がなければならないという「受難思想」だ。世界で初めて「無神論国家」を宣言したアルバニアでその後、多くの若者が宗教に目覚めてきているというニュースを聞くたびに、プルミー神父とその聖句が思い出されるのだ。

「アルバニア教」の神髄語った大統領

 アルバニアで先月25日、議会(下院、定数140議席)選挙が実施され、ラマ首相が率いる与党社会党が過半数を超える74議席を獲得して、ラマ政権の続投が決まったばかりだ。3期目のラマ政権の最大の課題はやはり欧州連合(EU)加盟だろう。同国は2009年4月、北大西洋条約機構(NATO)に正式に加盟している。

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▲筆者のインタビューに応じるアルバニアのモイシウ大統領(2003年5月、ウィーンで)

 当方がバルカンの小国アルバニアに関心を持ち出した契機はコソボ自治州の独立運動だったが、それ以上に、同国が1967年、世界最初の「無神論国家宣言」を発表したことだった。冷戦時代、旧ソ連・東欧共産党政権はいずれも無神論的唯物思想に基づいた国体を誇っていたが、「無神論国家宣言」をしたのはアルバニアだけだったからだ。

 アルバニアが1990年に入り、民主化に乗り出し、宗教の自由を公認した直後、当方はティラナに飛び、同国の宗教事情などを取材した。最初の取材先は、エンヴェル・ホッジャ労働党政権(共産党政権)時代、25年間収容所に監禁されたローマ・カトリック教会のゼフ・プルミー神父との会見だ。

 同神父のティラナの自宅で会見した。小柄な神父は抑えた声でアルバニアの民主化について語ってくれた。神父は、「わが国の民主化は宗教の自由を求めることから始まった。シュコダルで初めて正式に礼拝が行われた時、警察当局はもはや武力で礼拝を中止できなくなっていた。ティラナで学生たちの民主化運動が本格的に開始する前に、神について自由に語る権利を要求する運動が始まっていたのだ。当時の共産政権指導者は恐れを感じていた」と説明してくれた。

 当方はその後、アルバニア初代民主選出のサリ・べリシャ大統領(1995年5月)やイリル・メタ首相(2000年9月)、パスカル・ミロ外相(2001年3月))らアルバニアの要人たちとインタビューし、アルバニアの民主化、特に宗教の動向について追ってきた。

 バルカン半島は「民族の火薬庫」と呼ばれ、民族紛争の絶えない地域として恐れられてきた。その半島の南に位置するアルバニアでは、イスラム教を中心にアルバニア正教、キリスト旧教、新教、伝統的民族宗教などが存在する。注目すべき点はこれらの宗派が対立するのではなく、共存していることだ。ボスニア・へルツェゴビナ紛争を思い出すまでもなく、バルカン半島では宗派間の対立が原因で民族衝突を繰り返してきた歴史がある。その意味で、アルバニアの宗教事情は特殊なケースだ。

 ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は2014年9月21日、イタリア国内以外では初の欧州訪問地としてアルバニアの首都ティラナを選び、訪問したが、これは決して偶然ではない。フランシスコ教皇は、「アルバニアは多数の宗派が対立せず、共存している」と評価し、アルバニアは超教派和合のモデルと高く評価したほどだ(「アルバニアは21世紀の『モデル国』」2014年11月12日参考)。

 アルバニア人は、「われわれは宗派の違いは問題としない。われわれは同じアルバニア民族だからだ」という。“アルバニア教”と呼ばれている内容だ。バルカンでは大セルビア主義が一時期、席巻したように、アルバニアの歴史では大アルバニア主義が標榜された時代があった。そして大アルバニア主義を支えてきたのがアルバニア教という民族のアイデンティティだったわけだ。

 アルバニア教にについて当方に分かりやすく説明してくれたのは当時第4代大統領だったアルフレド・モイシウ大統領だった。当方は2003年5月、ウィーン公式訪問中のアルフレド・モイシウ大統領(在任2002年7月〜2007年7月)と単独会見したが、その時、大統領は、「オスマン・トルコ支配時代から、わが国では宗教は共存してきた。通称アルバニア教と言われるものだ。例えば、私の妹はイスラム教徒であり、私は正教徒だ。そして私の二女はイスラム教徒だ。私の孫がどの宗派に属するのか知らない。これがアルバニアの宗教事情だ」と笑顔を見せながら説明した。宗教間の対立など考えられない、といったふうに語るバルカンの大統領の笑顔に驚かされた。

 イスラム教はシーア派とスン二派が対立し、キリスト教はカトリック教会、プロテスタント教会、そして正教会などに分かれ、互いに真理の独占を主張することで対立を繰り返してきた。しかし、アルバニアでは宗派間の対立はなく、共存しているということは奇跡に近いことだ。1967年「無神論国家」宣言、1990年の民主化後の「宗教の自由」公認、そして「宗教の共存」へとつながるアルバニアの宗教事情はユニークだ。

 アルバニアはEU加盟を実現するためには政治家の腐敗対策、司法改革などをクリアしなければならないが、宗派間の共存は大きな武器だ。バルカンで宗派間の調和、共存を実現するためにアルバニアが積極的に貢献できる余地があるからだ。あえて問題点を挙げるならば、宗派に拘らないアルバニア人には強い民族愛が潜んでいることだ。大アルバニア主義の復活は現時点では非現実的なシナリオだが、コソボ問題でもその一端が垣間見られたからだ。

 ちなみに、モイシウ氏が2018年、元大統領という立場でウィーンを再訪した時、当方は同氏と15年ぶりに再会した。偶然だが、初めて会った時と同じ「5月」の月だった。
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