ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

バルカン

30年目迎えた「デイトン和平協定」の危機

 ボスニア・ヘルツェゴビナは1995年のデイトン和平合意後、ボシュニャク系とクロアチア系両民族から構成された「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系の「スルプスカ共和国」(RS)の2つの主体から構成された国家だ。和平履行は、民生面を上級代表事務所(OHR)が、軍事面はNATO中心の多国籍部隊(SFOR)が担当した後、欧州部隊が継続、3民族間の共存を促進してきた。ところで、和平協定から今年12月で30年を迎えるが、ここにきてスルプスカ共和国のボスニア離脱の動きが出てきたのだ。

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▲シュミット上級代表、OHR公式サイトから、2025年2月25日 
 
 ボスニア連邦裁判所は26日、スルプスカ共和国のミロラド・ドディク大統領に対して、ボスニア上級代表事務所(OHR)を無視して独自の法令を施行したとして、1年の禁固刑を言い渡し、6年間の政治活動の禁止を命じた。ドディク氏は判決を拒否し、控訴する見込みだ。ドディク氏とボスニア・セルビアの官報の責任者ミロシュ・ルキッチ氏は、2023年7月、クリスティアン・シュミット上級代表(OHR)の決定を無視した罪で裁判にかけられていたが、ルキッチ氏は無罪判決を受けた。

 ドディク氏は当時、ボスニア憲法裁判所の決定がボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人主体の構成体であるスルプスカ共和国内では適応されないこと、シュミット上級代表の決定も無視できることを明記した2つの法律を署名し、公布した。
 ロシアのプーチン大統領の友人としても知られるドディク氏は、判決が下される前から、「もし有罪となれば、スルプスカ共和国は中央政府の司法機関や軍などの多くの機関から撤退する」と強調している。

 ドディク氏は「スルプスカ共和国議会は中央政府の司法機関、警察、情報機関の活動をスルプスカ共和国で禁止する法案を提出する」と発表している。

 一方、シュミット上級代表は25日、サラエボで「国際社会は引き続き平和と安定に向けた断固たる姿勢を貫く」と述べ、「ボスニア・ヘルツェゴビナの領土一体性は交渉の余地がない」と明言し、RSのボスニアからの離脱の動きに警告を発している。
 なお、シュミット代表はボスニア・ヘルツェゴビナにおけるロシアの影響力の拡大を警戒する発言をしており、ドディク氏の「反欧州的な態度とプーチン氏との密接な関係」を非難してきた。

 3年半以上にわたって3民族(セルビア系、クロアチア系、ボシュニャク系)間の紛争を続け、戦後欧州最悪の民族紛争となったボスニア紛争では20万人の犠牲者、200万人の難民・避難民を出した。1995年、パリでデイトン和平協定が締結されて一応終戦を迎えた。

 ボスニアの複雑な政治システム、選挙システムは1995年のデイトン和平協定から生まれたものだ。国連安全保障理事会は、和平合意の実施を監督する上級代表を任命し、ボスニアの統治を監督してきた。現在、ドイツ人のクリスチャン・シュミット氏は2021年以降、そのポストを務めている。上級代表は、法律の制定や廃止、選挙で選ばれた政治家の解任などの権限があり、和平合意の履行を監視している。
 シュミット上級代表は選挙法を改正し、ボスニアの政治停滞を打破し、連邦機能を改善し、3民族間の政治的、経済的共存メカニズムを促進させたいところだが、選挙法の改正には強い反対がある。

 今回の裁判は、スルプスカ共和国の政治にも大きな影響を与えている。年末年始には、同地域の議会が「政治的動機に基づく裁判」が終わるまで、ボスニアのEU統合に必要な法改正を阻止する決議を採択した。シュミット氏はこの決定を違法とし、「すべての人が法律の下にあることを理解しなければならない」と強調した(オーストリア国営放送のヴェブサイドから)。

 デイトン和平協定後、民族間に境界線が引かれ、分断は固定化された。ボスニアは2022年12月に欧州連合(EU)加盟候補の地位を得、24年3月に加盟交渉が開始されたが、ブリュッセルとの間で加盟交渉はまったく進展していない。
 デイトン和平協定は3民族間の紛争を停止させたが、民族間の和解の道は依然見えず、RSのデイトン和平協定から離脱する動きが出てきているのだ。

コソボは米ロの代理紛争地に

 「民族の火薬庫」と恐れられてきたバルカンで再び、不穏な動きが見え出した。セルビアと同国から2008年2月に離脱して独立したコソボとの間で民族紛争の再発の動きが出てきた。オーストリア国営放送は「コソボとセルビアの間の状況は日に日に悪化してきた」と報じている。

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▲コソボ北部のセルビア系住民地域の道路封鎖(オーストリア国営放送のスクリーンショットから)

 セルビアのヴチッチ大統領は軍に厳戒態勢を敷くように命令する一方、コソボ国境近くのラシュカの町にある軍の兵舎を訪問した。そして訪問に関するInstagramの投稿で、同大統領は、「コソボのセルビア人を保護するためにセルビア軍はできる限りのことをする」と書いている。今月初めには、セルビアのアナ・ブルナビッチ首相は、コソボのアルビン・クルティ首相がコソボのセルビア人を危険にさらし、この地域の武力紛争を危機に陥れたと非難し、公然と警告している。一方、コソボ側はセルビアへの最大の国境検問所を閉鎖するなど、セルビア人少数民族の本拠地であるコソボ北部の緊張は12月以来、夜間の警察官への発砲、多数の道路封鎖などで懸念が高まってきた。

 セルビアとコソボ間の紛争がエスカレートしたきっかけは、車のナンバープレートをめぐる争いだ。コソボ政府は、国の領土内の交通を完全に制御するために、国の北部に住むセルビア人の少数派のメンバーに、セルビア人のナンバープレートをコソボのものに交換するよう強制した。欧州連合(EU)の調停を受け、コソボ政府が11月、EUへの加盟申請も視野に入れて、ナンバープレートの改革を断念し、延期したことで一応幕を閉じたかのようみえた。

 しかし、北部地域の何百人ものセルビア人の警察官、裁判官、その他の役人が、プリシュティナの政府に抗議し、セルビアの主要政党は、12月18日にコソボ北部のセルビア人が多数を占める地域で予定されていた地方選挙のボイコットを発表した。約2週間前から、セルビア人はコソボ北部の重要な田舎道にバリケードを築いた。これまで銃撃事件が3件発生している。ヴチッチ大統領はその直後、セルビア人の少数派に対する故意の差別についてクルティ政権を非難した。一方、コソボ政府は、ブチッチ大統領がコソボのセルビア人を扇動し、状況を不安定化させようとしていると反論した、といった具合だ。

 ただ、セルビアのヴチッチ大統領は29日、コソボとの紛争の契機となったコソボ北部でのセルビア系住民による道路封鎖を解除することでセルビア系住民との間で合意し、解除作業が同日にも開始するという。実行されるかは現時点では不明だ。

 セルビアとコソボの両政府は2013年、EUの仲介により正常化協定に合意したが、それ以来、これほど対立が激化したことはない。ベオグラードとプリシュティナの間の通信経路は現在、明らかにブロックされている。ただ、バルカンウオッチャーは、「プリシュティナの政府もベオグラードの政府も、状況が軍事的にエスカレートする危険を冒すことはないだろうが、現在の展開を非常に注意深く観察する必要がある」と受け取っている。北大西洋条約機構(NATO)の管轄下のコソボ治安維持部隊(Kfor)は現在、3400人の兵士がコソボに駐留し、紛争の防止に当たっている。

 コソボは90%以上がアルバニア系住民だが、同国北部には約5万人のセルビア人が住んでいる。セルビアは2008年に独立を宣言したコソボを認知せず、コソボを離脱領土と見なし、その領土の権利を主張してきた。

 EUはセルビアとコソボ両国に対し、関係の正常化をEU加盟の最大の条件としてヴチッチ大統領とコソボのアルビン・クルティ首相に圧力をかけてきた。具体的には、セルビアに対してはコソボの独立の認知、その見返りにEUからの財政支援だ。参考までに、コソボの主権認知をしている国は目下110カ国余りだ。ロシアや中国は拒否し、EU加盟国でも国内の少数問題もあって認知を拒否している国がある。

 米国はバルカン半島ではコソボを重視し、昨年からコソボ問題に通じた外交官、クリストファー・ヒル氏をベオグラードの米国大使に送っている。ヒル氏は1999年のコソボ交渉のコンタクト・グループのメンバーだった。

 一方、ロシアはセルビアとは伝統的な友好関係を維持してきている。クレムリンのドミトリー・ペスコフ報道官は、「われわれは歴史的にも精神的にも、セルビアと同盟国として非常に緊密な関係を築いている。わが国はベオグラードがとる全ての措置を支持する」と述べている。それに対し、コソボ政府は「ロシアはセルビアに影響を与え、コソボの不安定化を図っている」と受け取っている。

 ヴチッチ大統領は12月初旬の西バルカン首脳会議で、ウクライナ戦争でロシアの味方だったという事実をきっぱりと否定し、「私たちはEUに対する義務を認識している。セルビアは独立国であり、国益を重視する。コソボ問題では、ロシアはセルビアにとって特に重要だ。拒否権を持つロシアは、コソボの国連加盟を阻止することができるからだ」と述べ、欧米とロシアの両陣営に対して国益重視の外交を強調している。

 セルビアは最大の貿易相手であるEUへの加盟を目指しているが、NATO加盟は望んでいない。NATO軍が1999年、コソボ戦争の時、ベオグラードなどを空爆した際に多くの被害を受けたトラウマが払しょくできないこともあって、セルビアはNATOに強い反発を有している。ただし、NATOの「平和のためのパートナーシップ」(PfP)プログラムには参加している。

 旧ソ連共産党時代からバルカンはロシアの勢力圏と受け取られてきた。ウクライナ戦争下のロシアはバルカンの盟主セルビアをロシア支持に留めておくためにプロパガンダ工作を増強し、コソボ問題では故意に火に油を注いでいる面がある。プーチン大統領は、EUとNATOによる西バルカン半島のさらなる統合を阻止するために緊張を高く保ちた狙いがある。その最前線がセルビアとコソボ間の紛争だ。ロシアは万一に備えてセルビアへの支援を既に約束している。

 セルビアとコソボ間の問題は米国とロシアの小さな代理紛争のような様相がある。そして米ロ間の狭間にあって、EUはセルビアとコソボに欧州統合というカードを駆使して両国関係の正常化を推し進めるために圧力を行使している、といった構図だろう。

加速する西バルカンの欧州統合

 欧州連合(EU)27カ国の加盟国首脳は15日から始まるサミット会談でボスニア・ヘルツェゴビナのEU加盟候補国入りを正式に決定する。同時に、コソボとジョージアの2カ国に「潜在的な候補国」のステイタスを付与する予定だ。

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▲ボスニアのファディル・ノヴァリッチ連邦首相(ボスニア・ヘルツエゴビナ連邦政府公式サイトから)

 欧州委員会は10月、ボスニアの加盟候補国入りを推奨していた。欧州委員会のウルスラ・フォン・デア・ライエン委員長は今月6日、アルバニアの首都ティラナで開催されたEU・西バルカン諸国サミット会議で、「加盟プロセスがここにきて再び勢いを増している」と述べ、西バルカン6カ国、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、コソボ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビアの国家元首と政府元首に対し欧州統合への希望を提示したばかりだ。EUは6月の首脳会談でウクライナとモルドバ2カ国を加盟候補国に引き上げた。

 EU加盟の新規拡大に対してはこれまでフランスなどは慎重な姿勢を崩してこなかった。フランスのマクロン大統領は、「先ずEU27カ国内の結束の強化を優先すべきで、新規拡大はその後だ」と主張してきた。

 一方、ドイツやオーストリアは西バルカン諸国の欧州統合推進派だ。オーストリアのカール・ネハンマー首相は、「西バルカン諸国のEU加盟国促進は歴史的な一歩」と称賛し、旧ユーゴスラビア共和国のEU加盟候補国の地位を支持してきた。その理由として、「欧州の入口の西バルカンの地域安全と安定は極めて重要であり、それを構築するのは欧州の責任だ」と説明している。

 ちなみに、オーストリアのファスルアーベント元国防相は11月11日、当方とのインタビューで、「ロシアのウクライナ侵攻で軍事力を行使して国境線を変更する軍事的試みは失敗した。そして将来も成功することはあり得ないことを教えている。欧州は統合と多様性のあるシステムを構築し、各民族の特徴を維持する政治、社会体制を築いていくことが大切だ。その観点から、EUは西バルカン諸国の安定問題では大きな役割を担っている」と述べている。

 西バルカンを含むバルカン全域は過去、「民族の火薬庫」と呼ばれ、民族間の紛争が絶えなかった。ボスニア紛争(1992年3月〜95年12月)やコソボ戦争(1998年2月〜99年6月)が勃発し、多数の犠牲者を出してきた。その西バルカン諸国の安定は欧州にとって死活的問題であり重要な意味がある。

 ところで、フォン・デア・ライエン委員長の「新規加盟プロセスがここにきて勢いを増してきた」とは具体的に何を意味するのか。ズバリ、ロシアが2月24日、ウクライナに軍事侵攻したことだ。同委員長にはロシアのウクライナ侵攻を前に、西バルカンの欧州統合を急ぐ必要が出てきた、という戦略的な判断が働いていることは間違いない。同時に、西バルカンでの中国の経済的影響力の拡大が大きな懸念材料として浮かび上がっていることだ。

 フォン・デア・ライエン委員長は、「ウクライナ戦争は独裁政治が勝つのか、民主主義と法の支配が勝つのかの問題を提示している。どちらの側にいるかを決定する必要がある。後者はEU加盟だ」と述べ、西バルカン諸国のリーダーに欧州統合への意欲を促している。

 EU加盟候補国は現在、8カ国だ。トルコ(2005年以来、EUとの加盟交渉は現在凍結中)、モンテネグロ(2012年)、セルビア(2014年)、北マケドニアとアルバニア(2022年)の5カ国にウクライナとモルドバ(2022年6月)、そして今回のボスニアを入れて8カ国だ。2008年にセルビアから独立宣言したコソボはジョージアと共に「潜在的な候補国」の立場だ。

 ただ、加盟候補国にとってEUへの道のりは決して平坦ではない。ボスニアの場合、デイトン和平協定は3民族間の紛争を停止させたが、民族間の和解の道は依然、見えてこない。ただ、10月2日に実施されたボスニアの国政選挙で親欧州派の候補者が民族主義派の候補者を破った。コソボの場合、“バルカンの盟主”セルビアから2008年独立したが、コソボ北部に住むセルビア系住民(約5%)とコソボの多数派アルバニア系住民(約90%)との間で小競り合いが絶えない。ベオグラードは今なお、コソボを独立国として認知していない。コソボを主権国家と承認した国は100カ国を超えた程度だ。EU加盟国の中でもスペインばコソボの独立を認めていない。

 西バルカン諸国にとってハードルの一つは、EUの対ロシア制裁だ。旧ユーゴスラビア連邦の盟主セルビアは歴史的に親ロシア派だ。セルビア正教会はロシア正教会と密接な関係を有している。ブリュッセル(EU本部)はまた、西バルカン諸国に対し、EUに渡航する第3国国民のビザの円滑化を終了するよう要求している。西バルカン・ルートを介した不法な移民の入国問題が深刻だ。

 セルビアの首都ベオグラードで11月16日、オーストリア、ハンガリー、セルビア3カ国の首脳会談が開催された。目的は、不法移民との戦いで強力な軸を形成し、国境保護のための措置を共同で講じることだった。10月の欧州国境沿岸警備機関(Frontex)によると、年初以来、10万人を超える人々がEUに不法入国しており、その数は2016年以降で最も多い。

不法移民対策の強化に乗り出す3国

 本題に入る前に「モーセの話」をする。モーセはエジプトで奴隷生活を強いられていた同胞イスラエル民族を解放するためにパロ宮廷生活を捨て神が約束したカナンに向かって60万人の同胞を引き連れて出エジプトする話は旧約聖書の「出エジプト記」に記述されている。モーセの「出エジプト」の話は名優チャールトン・ヘストンが出演した映画「十戒」(1956年公開)になっているから良く知られている。

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▲ベオグラードで開催された移民問題の3国首脳会談(2022年11月16日、オーストリア国営放送のスクリーンショットから)

 モーセの「出エジプト」はひょっとしたら人類最初の移民の話だったのかもしれない。ただ、考古学的にはモーセの出エジプトは実証されていない。60万人のイスラエル民族を率いた移民がエジプトを出発してカナンに向かったという話が実話だったら、そのルートには必ずそれを裏付けるなんらかの物証、痕跡が見つかっていなければならないが、考古学者の努力にもかかわらず現在まで発見されていない。

 2015年に中東・北アフリカから100万人以上の移民が欧州に殺到したが、彼らの足跡はバルカン・ルートのいたる所に残されている。60万人という当時では考えられない多くのイスラエル人がエジプトの地から紅海を渡ってカナンに入ったことが実際にあった物語だとすれば、何らかの証拠が残っていなければならない。モーセの出エジプトは後世の学者が創作した話ではないか、と解釈する聖書学者もいるほどだ。曰く「イスラエル民族はもともとパレスチナ地域に住んでいた民族だが、神の選民として異教の地エジプトから逃げてきたという話が必要だったから、出エジプトという話が生まれてきた」というのだ。

 本題に入る。セルビアの首都ベオグラードで16日、オーストリア、ハンガリー、セルビア3カ国の首脳会談が開催された。3国首脳サミットの目的は、不法移民との戦いで強力な軸を形成し、国境保護のための措置を共同で講じることだった。

 カール・ネハンマー首相、セルビアのアレクサンダー・ヴチッチ大統領、ハンガリーのヴィクトル・オルバン首相の3首脳は3国間の移民対策で協力を強化することを目的とした「了解覚書」に署名した。その目的は、不法移民、テロ、組織犯罪と戦うことだ。また、難民と移民の明確な区別だ。

 ネハンマー首相は「欧州連合(EU)の移民対策は失敗した」として、難民旅行者を拒否すべきであり、経済難民はジュネーブの難民条約に合致しないと主張。ハンガリーのオルバン首相も、「移民は管理すべきではなく、防止すべきだ。我々はセルビアと運命を共にしている」と指摘、「不法移民の阻止はわれわれが生き残るための問題のため、3国は協力が不可欠だ」と述べている。

 ちなみに、「難民条約」は1951年に採択された条約で、「難民の地位に関する1951年の条約」の第1条で、難民とは「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分な理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられない者またはそのような恐怖があるために国籍国の保護を受けることを望まない者」と定義されている。

 そして同条約には、「難民を彼らの生命や自由が脅威にさらされるおそれのある国へ強制的に追放したり、帰還させてはならない(難民条約第33条、「ノン・ルフールマン原則」)。庇護申請国へ不法入国しまた不法にいることを理由として、難民を罰してはいけない(難民条約第31条)等が明記されている。

 よりよい生活を求めて欧州に殺到する移民は経済難民と呼ばれ、難民申請をしても認知される率は少ない。最近では、「環境難民」と呼ばれる移民も増えてきた。同時に、多くの移民を欧州に不法に送る人身売買業者が暗躍している。

 冷戦時代、東西両欧州の間に位置するオーストリアにはソ連・東欧共産圏から200万人以上の政治亡命者が殺到し、オーストリアは「難民収容国」と呼ばれた。冷戦後も同国には政治亡命者ではなく、経済難民が流入。今年既に9万人の難民申請者がいるという。
 ネハンマー首相は、「難民の殺到は収容できる限界を超えている」と述べている。難民を収容所で収容出来ないため、テントで収容する地域も出てきたが、難民の人権擁護団体やテントが立てられた地域住民から強い反対の声が聞かれる。

 ネハンマー首相は「欧州人権条約(EMRK)は暗礁に乗りあげている」として、難民問題の解決には適していないと発言したため、与野党で議論を呼んでいる。与党「国民党」出身の欧州議会議員カラス議員は「EMRKの人権擁護の内容の修正を求めるという意見は容認できない」とネハンマー首相の発言を批判するなど、保守派政党の国民党内で意見の相違が浮かび上がってきている。

 難民がいったん欧州内に入った場合、難民申請が却下されるまで強制送還もできないし、その間他の国に移動させることもできない。そこで国境警備を強化して、難民の流入を防ぐことを最優先すべきだというわけだ。

 モーセと60万人のイスラエル人はジュネーブの難民条約から見た場合、エジプトに戻れば奴隷生活を強いられ、悪くすれば殺される危険性があることから、政治難民というカテゴリーに入るかもしれない。

「元」大統領・首相経験者が集合した

 政治の世界では選挙に落選すれば“タダの人”と受け取られる。だから“タダの人”にならないために政治家は選挙の度に有権者の前に頭を下げ、必死になって票集めに腐心する。欧州では選挙システムの違いもあって、政治家は日本のような過酷な試練は少ない。大統領や首相を一期でも経験すれば、もう立派な「元大統領」であり、「元首相」として一定の尊敬を受ける。

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▲ウィーンで開催された「西バルカン諸国の安全と欧州統合」に関する国際会議風景(2022年11月11日、ウィーンで撮影)

 その元大統領、元首相がウィーン市4区にある「外交アカデミー」に結集するというので取材に出かけた。同アカデミーは1754年、国際的な指導者を育成する目的で創設された由緒あるアカデミーだ。
 
 音楽の都ウィーンで11日、国連経済社会理事会における総合協議資格を有する非政府機関(NGO)、天宙平和連合(UPF)と西バルカン諸国(アルバニア、ボスニアヘルツェゴビナ、コソボ、北マケドニア、スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ)の大統領経験者が集まった「Podgoricaクラブ」が共催し、「西バルカンと欧州連合(EU)との関係、挑戦と展望」を主題として西バルカンの安全問題に関する国際会議が外交アカデミーで開催された。

 まず、元大統領としては、アルバニアのモイシ元大統領、クロアチアのメシッチ元大統領、ボスニアのイバニッチ元大統領、モンテネグロのヴヤノヴィッチ元大統領らだ。そのほか、クロアチアのコソル元首相、ボスニアのラグムジヤ元首相、セルビアのシヴィラノビッチ元外相、コソボのホジャイ元副首相、それにオーストリアからファスルアーベント元国防相ら閣僚経験者だ。これだけの「元」をこの時に結集させることは容易なことではないだろう。

 それらの「元」大統領、首相、外相らが結集したのは「西バルカン諸国の欧州統合の展望」について話し合うためだ。ポドゴリチャ・クラブの創始者、モンテネグロのヴヤノヴィッチ元大統領は、「西バルカンの安定と繁栄なくして欧州の安定・繁栄もあり得ない」と強調し、西バルカン諸国が結束して明確なメッセージを発信すべきだ」と述べ、西バルカン諸国から元大統領、首相経験者が結集したウィーン会議に期待を表明した。また、大塚克己UPF欧州会長は、「ウクライナの戦争で欧州の平和が破壊されていることに遺憾」を表明し、平和を実現するためには紛争間の対話と相互尊重の精神が重要であると強調した。

 会議は3部から構成され、第1部ではオーストリアのファスルアーベント元国防相、アルバニアのモイシウ元大統領、クロアチアのメシッチ元大統領、ボスニアのイバニッチ元大統領、セルビアのシヴィラノビッチ元外相、コソボのホジャイ元副首相ら大統領や閣僚経験者が参加し、ロシアのウクライナ侵攻後のEUと北大西洋条約機構(NATO)の欧州の安全保障体制と西バルカン諸国の立場について意見を交換した。

 ボスニアのイバニッチ元大統領は、「西バルカン諸国は民主主義を体験していない」と指摘し、バルカン諸国間の平和的共存の道が容易ではないという。コソボのホジャイ元副首相は、「ウクライナ戦争は欧州のリバイバルをもたらしている。バルカン諸国も変化の時を迎えているが、現実は過去の未解決の民族紛争が再び蘇っている」と語り、コソボでの少数派セルビア系住民との紛争を示唆した。

 午後の第2部では西バルカン諸国のEU加盟への展望、現状についてモンテネグロの ヴヤノヴィッチ元大統領やアルバニアのメイダニ元大統領、クロアチアのコソル元首相とボスニアの ラグムジヤ元首相らのほか、マンドル欧州議会議員らが参加して話し合った。

 第3部では、西バルカンの次の世代の代表たち、北マケドニアの国会議員、アルバニアから民族青年代表らがバルカンを取り巻く情勢についてそれぞれ意見を述べた。

 バルカン半島では昔から多民族が交差する地域として民族紛争が絶えなかった。冷戦後もボスニア紛争、コソボ紛争が勃発し、多くの犠牲者がでた。同時に、西バルカン諸国は欧州統合に乗り出す一方、NATOに加盟するなど、バルカンの安定構築の動きもみられる。アルバニアのモイシウ元大統領は当方の質問に答え、「アルバニアにとってEU加盟が最大の課題だ。加盟することで過去の様々な問題も解決する道が開かれると信じている」と答えた。

 バルカン諸国では、例えばセルビアはロシア寄りの姿勢を見せる一方、EU加盟を模索するダブル戦略を取っている。またモンテネグロのように中国の新シルクロード構想(一帯一路)に接近し、中国側の投資に期待する国もあるなど、西バルカン諸国ではまだ統合された政治的戦略は見当たらない。ちなみに、正教(セルビア)、カトリック(クロアチアなど)、イスラム(アルバニア、ボスニアなど)といった宗教の相違がバルカン諸国の統合を一層難しくしている面は否定できない。

 元大統領、元首相らの意見を聞いて感じたことは、彼らが現職ならば、さまざまな思惑や駆け引きがあって自由に自身の意見を言うことが出来ないが、「元」であるゆえに、自由に自身の信念、考えを吐露できるメリットがある、ということを改めて知った。

 ウクライナ戦争、エネルギー危機、物価の高騰から地球温暖化など、世界は現在大きな挑戦を受けている。それゆえに、元大統領、元首相ら政治経験者の知恵は貴重だ。

ボスニア「冷たい和平」と「政治停滞」

 欧州では1日にラトビア議会選、2日はブルガリアの総選挙が実施された。ところで、バルカンのボスニア・ヘルツゴビアでも2日、選挙が行われたが、メディアの関心が余り注がれなかった。もちろん、それなりの理由は考えられる。ボシュニャク(イスラム)系、クロアチア系、セルビア系の3民族から構成されたボスニアでは過去、選挙は行われたが、大きな変化はなく、各民族の分断がより強固になっただけだ。すなわち、選挙前と後ではボスニアの政情に変化は生じなかった。その結果、メディアの関心は次第に遠ざかっていったわけだ。

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▲クロアチア系住民とボシュニャク系住民間を結ぶボスニアの「スタリ・モスト橋」(2005年11月、ボスニアのモスタル市で撮影)

 ボスニアといえば、3年半以上にわたって3民族(セルビア系、クロアチア系、ボシュニャク系)間の紛争を続け、戦後欧州最悪の民族紛争となったボスニア紛争(1992〜95年)を思い出す読者が多いだろう。20万人の犠牲者、200万人の難民・避難民を出したボスニア紛争は1995年、パリでデイトン和平協定が締結されて一応終戦を迎えた。今年12月で和平協定27年目を迎える。

 ボスニアは1995年のデイトン和平合意後、ボシュニャク系とクロアチア系両民族から構成された「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系の「スルプスカ共和国」の2つの主体から構成された国家となって今日まで続いている。和平履行は、民生面を上級代表事務所(OHR)が、軍事面はNATO中心の多国籍部隊(SFOR)が担当した後、欧州部隊が継続、3民族間の共存を促進してきたが、実際は各民族間の和解は遅々としたもので、「冷たい和平」と呼ばれる状況が続いてきた。

 ボスニアでは、「ボスニア連邦」と「スルプスカ共和国」の2国から連邦政府を構成し、3民族代表で選ばれた大統領評議会メンバーは8カ月ごとに同評議会議長、すなわち国家元首のポストを担当する。例えば、ボシュニャク系・クロアチア系のボスニア連邦では、二院制議会の選挙が行われ、その後、大統領と2人の副大統領が任命される。有権者は、連邦を構成する10のカントン州(県)の議会のメンバーも選ぶ。一方、中央政府は、軍事、司法制度、税制、対外貿易、外交に責任を負う。州には独自の警察、教育、医療システムがある、といった具合だ。人口 330万人のボスニアには連邦、共和国で約 180人の閣僚がいる。

 選挙システムは複雑なうえ、民族主義者が有権者の支持を主に獲得するから、選挙後の他民族との共存促進といったことは望み薄となり、大きなサプライズはこれまで期待できなかった。その結果、政治停滞、民族的利益に基づく腐敗と縁故主義が、何年にもわたってボスニアの政治を支配した。クロアチア代表は「ボスニア連邦でボシュニャク系に比べ不利な立場にある」と苦情し、スルプスカ共和国は分離主義政策を追及する、といった具合だ。

 ボスニアの複雑な政治システム、選挙システムは1995年のデイトン和平協定から生まれたものだ。国連安全保障理事会は、和平合意の実施を監督する上級代表を任命し、ボスニアの統治を監督してきた。現在、ドイツ人のクリスチャン・シュミット氏がそのポストを務めている。シュミット上級代表は選挙法を改正し、ボスニアの政治停滞を打破し、連邦機能を改善し、3民族間の政治的、経済的共存メカニズムを促進させたいところだが、選挙法の改正には強い反対がある。

 ボスニア紛争後の過去27年はサクセス・ストーリーではなかった。多くの国民は国外に逃げていった。昨年だけで約17万人が国を去った。失業率は今年16・8%と予測。ボスニアに流れ込んだ資金は海外出稼ぎ組の送金と国際社会からの経済支援だ。「ウィーン国際比較経済研究所」(WIIW)の上級エコノミスト、ウラジミール・グリゴロフ氏は、「ボスニアがうまくいかない最大の原因はデイトン和平協定だ」と断言、和平協定がその後の国の発展を妨げる最大の障害となっていると主張していた。

 ボスニアでは久しく、3民族が共存し、同じ言語(セルボ・クロアチア語)を使用して意思疎通できたが、デイトン和平協定後、民族間に境界線が引かれ、分断は固定化された。ボスニアは2016年以来、欧州連合(EU)加盟候補の地位を得ているが、ブリュッセルとの間で加盟交渉はまったく進展していない。

 参考までに、WIIWのボスニアの経済予測は、今年のインフレ率は平均10%、経済成長率は1.5%にとどまると予想されており、春の予測から0.3ポイント下方修正された。物価の上昇もあって個人消費は落ち込んでいる。さらに、公共投資と民間投資は国内および外国の政治的リスクの高まりを受け減速が予想され、それが新しい公共投資を抑制しているという。

 デイトン和平協定は3民族間の紛争を停止させたが、民族間の和解の道は依然、見えてこない。なお、サラエボからの情報では、ボスニア連邦の大統領評議会選で親欧州派の候補者が民族主義派の候補者を破ったという。投票の最終的結果は3日以降になる見込みだ。

コソボ北部で民族紛争の「火の粉」

 欧州では灼熱と旱魃で悩まされている地域が広がっている。イタリア北部では久しく雨が降らないので農作物ばかりか、地域住民も大変だ。

 ところで、欧州南側に位置するバルカン半島では昔から多民族が交差する地域として民族間の紛争が絶えなかった。冷戦後もボスニア・ヘルツェゴビナ戦争からコソボ紛争まで起きた。バルカンが「民族紛争の火薬庫」と呼ばれるのは決して大袈裟な表現ではない。ちょっとした火の粉で民族紛争が再発する危険性が常にあるのだ。

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▲EU・西バルカン諸国首脳会談(2022年6月23日、ブリュッセル、EU公式サイトから)

 “バルカンの盟主”セルビアから2008年、独立したコソボでは、コソボ北部に住むセルビア系住民(約5%)とコソボの多数派アルバニア系住民(約90%)との間で小競り合いが絶えない。ベオグラードは今なお、コソボを独立国として認知していないし、セルビアの友邦国ロシアや中国はセルビア側の立場を支持している。コソボを主権国家と認知した国は100カ国を超えた程度だ。日本は2008年3月18日にコソボを国家承認した。コソボの安定は西バルカン地域のみならず、欧州全域の安定及び繁栄につながるという理由からだ。

 そのコソボで1日、セルビアからコソボに入国する車両にはコソボのナンバープレートを義務づけた交通規則が施行された。コソボ側が新しい交通ルール、ナンバープレートを導入する前にセルビア側が既にコソボからセルビアに入国する車両に対してセルビアのナンバープレートを義務づけていたから、コソボ側の今回の対応は一種の対抗処置といえる。コソボ側にとって入国規則や車両のナンバープレートは主権国家として象徴的な意味合いがある。

 現地からの情報によると、セルビア系とアルバニア系住民の間で緊迫感が高まっている。コソボ北部に住むセルビア系住民は新しい入国規則やナンバープレートの変更には反対している。7月31日夜、コソボとセルビアの国境でバリケードが作られ、発砲があったというニュースが流れてきた。

 コソボの国境検問所ではセルビアが発行した身分証明書を公認せず、セルビアのナンバー プレートを持つコソボのセルビア人は、2カ月以内にコソボのナンバープレートに交換する必要があるという(抗議の結果、プリシュティナ(コソボの首都)はこの決定を30日間保留にした)。

 セルビアはコソボを主権国家と認識していないから、セルビアに入国する際に非セルビア出身のコソボ人はコソボのナンバープレートをセルビアのものに交換しなければならないと要求してきた。そこでプリシュティナは1年前、主権国家間の相互主義の原則に基づいて同じ処置をセルビア側に導入したわけだ。

 南東欧専門家のグラーツ大学のダビッド・フローリアン・ビーバー氏はオーストリア国営放送とのインタビューの中で、「コソボは自国の主権国家としての地位を強化しようとする一方、セルビアは常にそれを弱体化させようとする。その繰り返しだ。ナンバープレートは主権国家の象徴であり、非常にデリケートな問題だ。コソボ北部のセルビア出身の多くの市民は、コソボ政府が講じたあらゆる措置を脅威と受け取っている。ベオグラードも彼らの感情を意図的に加熱させている。言い換えれば、最終的にはナンバープレート自体の問題ではなく、セルビアとコソボの間で解決されていないコソボの地位の問題だ」と述べている。

 新しい国境規制に反対するチラシがコソボ北部のミトロビツァ、レポサビッチ、ズベカン、ズビン・ポトクのセルビア・コミュニティに配布され、1日には4つのセルビア人コミュニティに「セルビア人コミュニティへようこそ」と書かれたポスターが配布されたという。コソボ北部のセルビア系住民の民族感情は沸騰している。

 セルビアとコソボは2013年、コソボ北部の少数派セルビア人にさらなる自治を与えることに合意したが、コソボ憲法裁判所はその2年後、「セルビアのコミュニティがコソボ憲法に準拠していない」と指摘。プリシュティナは「合意内容は国を不安定にするリスク」と見なしている、といった具合だ。実際、ベオグラードはコソボのセルビア系コミュニティを管理している。セルビアのブチッチ大統領は、セルビアでは「放火魔と消防士」の役割を演じている。危機を作りだす一方、その危機を解決できる唯一の人物と誇示しているわけだ。

 いずれにしても、ウクライナ戦争でロシアと欧米諸国の関係が緊迫している時だ。セルビアを支持するロシアのクレムリンのスポークスマン、ドミトリー・ペスコフ氏は、「わが国は絶対にセルビアを支持する」と述べ、コソボ側の新しい旅行規則に対しては「不当な要求だ」と説明、セルビア側にエールを送っている。欧州の一層の不安定化を狙うロシアがコソボとセルビアの対立を利用する可能性があると一部で懸念されている。ただ、ロシアや米国・欧州連合(EU)は、セルビアとコソボの国境問題で軍事衝突が起きることを願っていない。北大西洋条約機構(NATO)指揮下のコソボ治安維持部隊が駐留している限り、セルビアとコソボの軍事衝突の可能性は低いが、火の粉を適時に払わないと、それが山火事になる危険性は常に付きまとうのだ。

なぜ「旧ユーゴ連邦」は解体したか

 旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(6共和国から構成)のスロベニア共和国とクロアチア共和国が1991年6月に連邦を離脱し、独立国家を宣言して今年で30年を迎えた。スロベニア・クロアチアと旧ユーゴ連邦軍間の「十日間戦争」後、翌年4共和国が正式に独立したため、連邦は解体していった。ここでは「なぜ旧ユーゴ連邦は解体したか」を共に考えたい。

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▲旧ユーゴ連邦の実態を暴露したミロヴァン・ジラス(1986年12月15日、ベオグラードのジラス氏宅で撮影)

 1948年、ユーゴ連邦の指導者ヨシップ・ブロズ・チトーはソ連共産党スターリンによって共産主義国のコミンフォルムから追放されたことを受け、スターリンに対抗する社会主義国を建築する独自路線を歩み出した。連邦は6共和国(セルビア、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ)と2自治州(セルビア共和国に所属するヴォイヴォディナとコソボ)から構成されていた。経済システムはユーゴ連邦独自の「自主管理経済」システムだ。労働者が会社を経営し、労働者から責任者を選び、管理運営を実施するシステムでソ連東欧共産諸国の計画経済システムとは異なっていた。一部の学者は「市場社会主義」と呼んでいた。

 外交面では「非同盟外交」を宣言し、アジアやアフリカなどから多数の国が参加した非同盟諸国会議をまとめて結束させた。チトーのユーゴ連邦は当時、インドやエジプトと共に非同盟運動の中心的な立場を享受していた。しかし、ソ連が崩壊し、共和国が次々と独立宣言した影響もあって、チトーの死後(1980年5月)、共和国指導者による集団主導体制を敷いてきた。旧ユーゴ連邦で最北部のスロべニアとクロアチアが1991年、その後、ボスニア、マケドニアの共和国が連邦から独立。連邦の盟主・セルビアは連邦維持のために多民族共和国のボスニアで武力攻撃を展開した。セルビアとモンテネグロは連邦を維持したが、2006年にモンテネグロが独立したことを受け、1943年に建国されたユーゴ連邦は完全に解体した。

 スターリンとチトーはライバルだったが、その両者が主導したソ連とユーゴ連邦は奇しくもほぼ同時期に解体し、世界地図から姿を消していったわけだ。ちなみに、連邦時代の「ソビエト人」や「ユーゴスラビア人」といったの名称の人種は存在しない。民族のルーツとは繋がりのない人工的名称だった。

 旧ユーゴ連邦の最大共和国セルビアのミロセビッチ大統領は連邦から独立宣言したスロベニアやクロアチアに対し、武力攻勢を実施し、何とか連邦解体を回避しようとしたが、欧米諸国の支援を受けたスロベニアやクロアチアの独立を防ぐことは出来なかった。民族のるつぼといわれ、数多くの民族が共存してきたバルカンではミロセビッチやクロアチアのトゥジマン大統領といった民族主義的傾向の強い政治家が出てきた。その後、バルカンではボスニア紛争、コソボ戦争といった民族紛争が勃発していったわけだ。

 連邦解体時に戻る。旧ユーゴ連邦時代、特に1960年から70年にかけ、チトーが主導するユーゴの国民経済は繁栄し、外交でもチトー主義と呼ばれ、欧米諸国にも接近し、国際政治の舞台では一定の影響力を誇っていた。例えば、連邦離脱、独立宣言をしたスロベニア共和国は欧州諸国との経済関係を深め、ユーゴ連邦の最優秀共和国とみられていた。

 そのスロべニアのミラン・クーチャン共和国幹部会議長(大統領)は1991年1月、当方との会見の中で、「バルカンで台頭してきた民族主義は、欧州統合プロセスと真っ向から対立する問題であり、統合プロセスを破壊しかねない危険性すら内包している。民族主義問題を解決できる唯一の道は、政治、経済、軍事的に他国を支配する民族主義的国家形態から決別し、欧州統合のように、多民族国家連合を拡大する以外に方法はない」と強調していた。スロベニアは現在、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国だ(「スロベニア産ワインと独立30年」2021年7月3日参考)。

 チトーが主導する旧ユーゴ連邦は最終的には共産主義独裁政治の変形に過ぎなかったことは、チトーの最側近であったミロヴァン・ジラスが証言している。ジラスはチトーとともにユーゴ共産化のために戦い、副首相の地位に就きながら、共産主義の実態を批判し、共産主義からいち早く決別した人物だ。ジラスは1950年代に出版した著書「新しい階級」の中で「共産党は赤い貴族だ」と喝破し、共産政権下で特権をむさぼる共産主義者(赤い貴族)の実態を告発した。同著書は欧米諸国で話題を呼び、旧ソ連・東欧諸国の民主改革にも大きな影響を与えた。

 当方は1986年12月、ベオグラードでジラスと会見した。ジラスは「共産主義は本来、世界運動として明確な世界観、歴史観をもっていたが、今日の共産主義は民族主義に陥っている。ポーランド、チェコ、ハンガリー、中国、いずれの共産国も、固有の困難と課題を抱えている。共通する点は、共産党の一党独裁と官僚主義だ。ユーゴ共産党は階級のない社会をつくる段階で民族問題も同時に解決できるという幻想にとらわれていた。しかし現実には民族問題は未解決のまま残っているし、共産主義者は政権の座につくと、新しい支配階級に変身していった」と述べた(「『赤い貴族』とスカーフの思い出」2015年2月9日参考)。

 旧ユーゴ連邦はソ連共産党政権とは経済システムこそ異なっていたが、共産党一党独裁政治であり、その政権下で腐敗と汚職が蔓延していた。人権と自由を求める国民の声が高まっていく中で、ソ連は倒れ、ユーゴ連邦も民族主義の高まりに抗することは出来ずに解体していった。「共産主義は民族の壁を越えた国際主義だ」と言いふらしてきたが、ソ連・ユーゴ連邦の解体は共産主義が独裁政治であり、民族の壁を超えることができない政治形態であることを実証したわけだ。

スロベニア産ワインと独立30年の話

 スロべニア産ワインはいかかですか。ミラン・クーチャン共和国幹部会議長(大統領)から言われた時は驚いた。大統領や首相らとの会見時にインタビュー相手からプレゼントをもらったことなどなかったから、クーチャン大統領が笑顔を見せながらスロベニア産ワインの1本を当方に手渡した時はやはりビックリした。

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▲インタビューに応じるミラン・クーチャン大統領(1991年1月、リュブリャナで)

 なぜ、突然スロベニアの話をするのかといえば、同国がユーゴスラビア連邦共和国から独立して今年6月で30年を迎えたこと、7月1日から欧州連合(EU)下半期の議長国に就任したからだ。そしてスロベニアと言えば、当方は1991年1月、同国の首都リュブリャナの大統領府で会見したクーチャン氏との出会い、具体的にはスロベニア産のワインを頂いた話をどうしても思い出してしまうからだ。

 旧ユーゴ連邦共和国は6共和国、2自治州から構成されていた。その中でスロベニア共和国は最北部に位置し、最も経済発展していた共和国だった。人口は全体の10%にも満たなかったが、国内総生産は全体の20%、外国貿易では30%を占める文字通り旧ユーゴ連邦の国民経済を支える共和国だった。自主管理社会主義システムを積極的に推進し、経済は潤っていた。他共和国からは“優等生”として羨まれていたほどだ。同時に、東欧諸国の民主化もあって、国内には民主化、連邦から離脱して独立する機運が漂っていた時だった。だから、ユーゴ連邦からスロベニアとクロアチア両共和国が独立を宣言したのは偶然ではなかった。

 クーチャン氏は旧ユーゴ連邦時代の最後の共和国最高指導者、幹部会議長(共和国大統領)であり、1990年最初の民主的選挙で大統領に当選。共産党離党、一党独裁制を放棄し、複数政党制を導入した。1991年6月の独立後、初代大統領に選出され、2002年12月まで大統領職を務めた。当方がクーチャン氏と会見したのは共和国が独立宣言する直前の波乱の時だった。

 クーチャン氏は会見の中で、「われわれの主要目的は、国際的に国家として認知されたスロベニア国家を建設することだ。国家は単に自国の利益だけに関心あるものではなく、他国の利害をも尊重しなければならない。相互平等の権利と責任を有し、自国の主権のために他国や国際情勢を不安定に陥れるような事は容認されない」と述べている。

 そして欧州やバルカンで台頭してきた民族主義については、「民族主義は、欧州統合プロセスと真っ向から対立する問題であり、統合プロセスを破壊しかねない危険性すら内包している。民族主義問題を解決できる唯一の道は、政治、経済、軍事的に他国を支配する民族主義的国家形態から決別し、欧州統合のように、多民族国家連合を拡大する以外に方法がない事を認識することだ」と強調していた。

 そのスロベニアは独立後、2004年3月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟、同年5月にEUメンバーとなった。2007年1月にはユーロに参加。そして今年独立30年を迎え、7月1日からEU理事会(閣僚理事会)の議長国に就任したわけだ(同国は2008年上半期に議長国を体験済み)。

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▲EU下半期の議長国スロベニアのヤンシャ首相(スロベニア首相府公式サイトから)

 スロベニアでは2020年3月、ヤンシャ首相が率いる民主党(SDS)、現代中央党(SMC)、新スロベニア(NSi)、年金者党(DeSUS)の4党が連立に合意し、第3次ヤンシャ政権が発足した。ヤネス・ヤンシャ首相にとって3度目の首相就任だ。ただし、年金者党は同年12月、連立政権から離脱。右派政治家のヤンシャ氏はトランプ前米大統領を尊敬し、ハンガリーのオルバン首相と同様、ブリュッセルとは様々な分野で激しい議論を交わしてきた政治家だ。ヤンシャ首相はEUが東西欧州に分裂する危険性があることについて、「われわれは分裂を十分味わってきた。スロベニアがEUに加盟したのは分裂ではなく、統合するためだ」(ロイター通信)と答えている。

 スロベニアが議長国を務める今年下半期の課題としては、復興レジリエンス・ファシリティ(RRF)を含めた復興基金の実施、RRFの予算執行の条件となる各加盟国の復興レジリエンス計画のEU理事会での早期承認、新型コロナウイルス対策としてワクチンを含む医療品の安全確保などもテーマとなる。ポスト・コロナ時代の課題としてグリーン、デジタル両分野での重要法案の成立などが議題に上がっている。対外的には、米国との関係改善、インド太平洋地域に関する戦略的協議のほか、西バルカン諸国のEU加盟を視野に入れた西バルカン諸国の復興支援などだ。

 蛇足だが、スロベニア産ワインの話に戻る。当方はアルコールを飲まないので、思い出のある貴重なワインだったが、ウイーンに戻った後、知り合いの外交官にプレゼントした。

ボスニアの聖母マリア再臨40周年

 ボスニア・ヘルツェゴビナのメジュゴリエで聖母マリアが再臨し、様々な奇跡を行ってきた。今月24日で40年目を迎えた。ボスニアの首都サラエボから西約50kmのメジュゴリエでは1981年6月、6人の子供たちに聖母マリアが再臨し、3歳の不具の幼児が完全に癒されるなど、数多くの奇跡がその後も起きた。毎年多くの巡礼者が世界各地から同地を訪れている。

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▲メジュゴリエの聖母マリア再臨地を巡礼する信者たち(2021年6月26日、バチカンニュースから)

 現地からの情報によると、25日、信者たちや巡礼者がフマッチから聖母マリア再臨地メジュゴリエまで行進した後、夜には記念礼拝が行われた。40周年記念イベントには358人の神父たち、国内外から数千人の信者たちが集まった。ポーランドから50台、ウクライナから30台のバスが信者たちを巡礼地に運んできたという。巡礼者がブラジル、クロアチア、韓国、フランス、ルーマニア、スペイン、オーストリアの国旗を掲げながら行進する姿が報じられている。バチカンニュースは26日、メジュゴリエ聖母マリア再臨40周年の記事を大きく報じた。

 カトリック信者にとって聖母マリア再臨の巡礼地といえば、ポルトガルの「ファティマの預言」(1917年)やフランス南部の小村ルルド(1858年)が良く知られてきた。メジュゴリエの聖母マリア再臨地でも過去、数多くの奇跡が伝えられてきたが、バチカンは巡礼地として公式に認知することを久しく避けてきた。カトリック教会では「神の啓示」は使徒時代で終わり、それ以降の啓示や予言は「個人的啓示」とし、その個人的啓示を信じるかどうかはあくまでも信者個人の問題と受け取られてきたからだ。

 例えば、バチカンは奇跡や霊現象には慎重な姿勢を維持してきた。イタリア中部の港町で聖母マリア像から血の涙が流れたり、同国南部のサレルノ市でカプチン会の修道増、故ピオ神父を描いた像から同じように血の涙が流れるという現象が起きているが、バチカン側は一様に消極的な対応で終始している。スロバキアのリトマノハーでも聖母マリアが2人の少女に現れ、数多くの啓示を行っている。

 しかし、メジュゴリエの聖母マリア再臨地で巡礼者が後を絶たないこと、奇跡の調査を求める声が高まったこともあって、サラエボ大司教区のヴィンコ・プルジッチ枢機卿は2008年、「バチカンはメジュゴリエの聖母マリア再臨とそれに伴う奇跡の是非を初めて調査することになった」と述べ、巡礼者を喜ばした。

 前教皇ベネディクト16世は2008年7月、「メジュゴリエ聖母マリア再臨真偽調査委員会」を設置。枢機卿、司教、専門家13人で構成された同委員会が2010年に調査を開始した。メジュゴリエ公認問題が難しい背景には、バチカンの姿勢もそうだが、巡礼者へのケア問題で現地のフランシスコ会修道院と司教たちの間で当時、権限争いがあったからだといわれた。なお、バチカンは2019年5月、メジュゴリエへの巡礼を承認したが、聖母マリア再臨現象の真偽については依然、結論を下していない。

 バチカンからメジュゴリエ特使として派遣された ヘンリック・ホーザー大司教は「メジュゴリエ40年」を3つの期間に分けている。第1はユーゴスラビア連邦が共産主義政権時代だった時代だ。聖母マリアの再臨に出会った少女たちや神父たちは当局から「嘘を言っている」と非難され、公共の安全を脅かすとして聖職者は拘留された時代だ。第2はボスニア紛争が始まった1991年からだ。3年半以上にわたって3民族(セルビア系、クロアチア系、ムスリム系)間で戦後欧州最悪の民族戦争が展開された。そして1995年のデイトン和平合意後、イスラム系とクロアチア系両民族から構成された「ボスニア・ヘルツエゴビナ連邦」とセルビア系の「スルプスカ共和国」の2つの主体から構成された国家が成立して今日に至る。そして第3は国民の共存と平和を求める聖母マリアのメッセージが前面に重要視されてきた時代という。

 同大司教は、「メジュゴリエの聖母マリアは“平和の女王”と呼ばれてきた。メジュゴリエは時代と共に成熟し、成長してきた巡礼地だ」と指摘し、「メジュゴリエはファティマやルルドとは性格が異なった聖母マリア再臨巡礼地だ」という。

 メジュゴリエには毎年、200万人余りの巡礼者が世界各地から訪れてきた。新型コロナウイルスが欧州、バルカン地域で感染拡大して以来、外国から訪れる巡礼者は途絶えたが、その間も近隣に住む人々が定期的に再臨地を訪れている。

 どのような時代にも、信者たちだけではなく、多くの人々が自身の救い、家族・親族の病の癒しの為に巡礼地を訪れ、奇跡を願い祈りを捧げる。最近は、巡礼地には若い世代の姿が増えてきたという。日常生活では期待できない奇跡を体験したい、目撃したい、と考える若者たちが増えているという(「『聖人』と奇跡を願う人々」2013年10月2日参考)。
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