ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

ユダヤ人

神の全能性、善性に疑問呈したユダヤ人

 600万人以上のユダヤ人がナチス・ドイツ軍の蛮行の犠牲となった後、「なぜ神はユダヤ人虐殺を黙認されたか」「神はどこにいたのか」といったテーマが1960年から80年代にかけ神学界で話題となった。神学界ではそれを「アウシュヴィッツ以降の神学」と呼んでいる。例えば、ドイツの実存主義哲学者のハンス・ヨナス(1903〜93年)は「アウシュビッツ以後の神」という著書を出し、ナチス・ドイツの絶対悪に対してなぜ神は沈黙していたのか、暴力の神学的意味などを追求した一人だ。同時に、「神の死」の神学が1960年代に登場してきた。アウシュヴィッツ以降、神の全能性、善性に疑問が呈されていった。

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▲ユダヤ人作家エリ・ヴィーゼル(2012年)、ウィキぺディアから

 ユダヤ人は「なぜ正しい人が理不尽に苦しまなければならないのか」という深い苦悶に満ちた問いを神に投げかけてきた。その際、ヘブライ語で「なぜ」という意味のラーマ(どうして)を発した。旧約聖書(ヘブライ語)には約180回の「ラーマ」が記述されている。その中でも「ヨブ記」には約20回の「ラーマ」という言葉が出てくる。ヨブは神に向かって「なぜ(ラーマ)私を標的とされるのですか(ヨブ記7:20)」「なぜ(ラーマ)御顔を隠されるのですか(13:24)」と、痛切な問いを何度も投げかけている。その意味で、「ヨブ記」は「ラーマ物語」だ。

 「ヨブ記」の筋を簡単に紹介する。
「主人公のヨブは、神を敬い、悪を遠ざけて生きる極めて誠実な大富豪だった。ある日、サタン(悪魔)が神に『ヨブが信心深いのは、神から富や健康を与えられているからだ。それらを奪えば神を呪うはずだ』と挑発する。神はサタンの言い分を退けるため、ヨブの命を取らない条件で試練を許可する。ヨブは一瞬にしてすべての財産、最愛の子供たち、そして自身の健康(全身のひどい皮膚病)を失ってしまう。お見舞いに来た3人の友人たちは、『神が理由もなく人を罰するはずがない。お前が何か悪いことをしたからだ(因果応報)』とヨブを責め立てる。しかし、ヨブは自らの無実を訴え、理不尽な現実に対して神に問いかけ続ける」

 興味深い点は、ヨブはユダヤ人ではなく、「ウツの地」出身の男だということだ。「ヨブ記」は、「ユダヤ人ではない異邦人のヨブ」を主人公に選び、「なぜ正しい人が理不尽な試練を受けるのか」というユダヤ人の葛藤を人類共通のテーマに止揚して追求していったわけだ。

 一方、聖書の新約聖書にも有名な「ラーマ」が出てくる箇所がある。十字架にかかる直前、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」(「(「マルコによる福音書)と叫ばれた。その中の「レマ」はヨブ記に登場するヘブライ語の「ラーマ」と同意語のアラム語でイエスが当時使用していた言語だ。

 イエスが十字架で叫んだこの言葉は、実は旧約聖書の「詩編22編1節」の引用だ。詩編22編はヘブライ語で書かれているため、本来の聖書テキストには「ヨブ記」と全く同じ「ラーマ」という文字が刻まれている。イエスは、「ヨブ記」のヨブと同じように「正しい人がなぜ理不尽に苦しまなければならないのか」という深い苦悶が満ちた旧約聖書の言葉(ラーマ)を、自分の苦しみの中でアラム語の響き(レマ)に変えて叫んだというわけだ。

 イエスは神の召命を受け、神のみ言葉を弟子たちや貧しい人たちに述べ伝えていったが、全ての人に裏切られ、十字架の上で神に「なぜ(レマ)」と問いかけた。ただし、イエスはその直後、「父よ、私の霊をみ手に委ねます」と言って、息を引き取られている(「ルカによる福音書」第23章)。

 ユダヤ人作家で1986年のノーベル平和賞受賞者エリ・ヴィーゼル氏(1928〜2016年)は自身のホロコースト体験を書いた著書「夜」の中で、「神はアウシュヴィッツで裁判にかけられた。その判決は有罪だった」と述べている。

 ヴィーゼル氏の証によると、アウシュヴィッツの収容所の冬の夜、伝統的な信仰を持つユダヤ人(ラビたち)によって、「神を被告人とする裁判」(即席の宗教法廷)が開かれた。裁判は単なる感情的な怒りのぶつかり合いではなく、ユダヤ教の聖法(タルムード)に則って極めて厳格かつ理性的に進められた。罪状は「契約不履行」および「人類(選民)への虐殺の黙認」だ。神はかつてユダヤの民を「守護する」という契約を結んだはずである。それにもかかわらず、罪のない子供たちや何百万人もの同胞がガス室で虐殺されるのをなぜ沈黙して見過ごしているのかだ。

 数夜にわたり、証言が集められ、神を弁護する意見(「人間に自由意志を与えた結果だ」「神の深い意図は人間に測れない」など)も出されたが、最終的に3人のラビは全員一致で有罪判決を下した。曰く、「全能の神は、自らの被造物と人類に対する罪において『有罪』である。トーラーに基づき、神はイスラエルの民を守るという契約に違反した」というのだ。

 この話には続きがある。有罪判決が下された直後、静まり返った暗闇のなかで、ラビの一人が空を見上げて、「判決は出た。さあ、夕暮れの祈りの時間だ」といい、神を有罪としたばかりの囚人たちは、全員で立ち上がり、何事もなかったかのように神を讃える祈りを捧げ始めたというのだ。「ラーマ」と問い続けるユダヤ人の神への信頼は変わらなかったのだ。

ユダヤ人に見られる反キリスト教傾向

 イスラエルのエルサレムのシオンの丘近くで、39歳のユダヤ人男性が4月28日、道を歩いていたフランス人修道女を突き飛ばし、倒れた修道女を足蹴にするなどの暴行を加えた。修道女への暴行事件の様子は今月3日に入って動画で拡散され、イスラエル国内で衝撃を与えている。

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▲キリスト教徒のイスラエル兵士たちと会見するネタニヤフ首相、2026年4月26日、イスラエル首相府公式サイトから

 それに先立ち、レバノン南部のデブル村でイスラエル軍兵士が先月19日、ハンマーでイエス・キリストの像を損壊する画像がSNSで拡散された。デブル村のファディ・ファルフェル司祭は「イスラエル兵が十字架を壊し、私たちの神聖な象徴を冒涜するという恐ろしいことをした」と述べ、地元コミュニティの深い憤りを伝えた。

 その他、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の3宗教の聖地があるエルサレム旧市街では、超正統派ユダヤ教徒がキリスト教の聖職者に唾を吐きかけたり、暴言を吐いたりする行為が常態化している。

 2025年には、ガザ唯一のカトリック教会「聖家族教会」の敷地が攻撃を受け、避難していた市民が死傷した事件がある。また、ガリラヤ湖畔にある著名な教会「パンと魚の奇跡の教会」が2015年、ユダヤ教過激派によって放火され、壁にヘブライ語で異教徒を侮辱する落書きがされた。エルサレムのシオンの山にあるキリスト教徒の墓地で、墓石や十字架が破壊される事件が発生した。

 レバノンの十字架像への冒涜事件についてはこのコラム欄で詳細に報じたが、イスラエル社会における反キリスト教傾向について、もう少し突っ込んで考えてみたい。

 �.ぅ好薀┘訐�府内に超国家主義者や宗教的極右勢力が参画したこと、��一部の過激派が「ユダヤ人の土地における異教の排除」という排他的な考えを正当化し、行動をエスカレートさせている、��ユダヤ教の超正統派や右派若年層の一部において、キリスト教を「偶像崇拝」とみなし、エルサレムから排除すべき存在と捉える過激な思想が強まってきている、�ぅ�ザ情勢やレバノン国境での緊張が続く中、宗教的なアイデンティティが先鋭化し、他宗教への不寛容さが攻撃的な形で表出しやすくなっている、等々が要因として挙げられている。

 イスラエル中央統計局(CBS)の最新データに基づくと、イスラエルのキリスト教徒の人口(2025年末時点)は 約18万4,200人で、総人口の約1・9%だ。そのうち約78.7%がアラブ系キリスト教徒だ。ちなみに、エルサレム市には約1万3400人のキリスト教徒が住み、ナザレ(1万8,900人)、ハイファ(1万8,800人)に次いで3番目に多い居住地となっている。

 ユダヤ人がキリスト教徒へ強い反発を有する背後には、キリスト教会が久しくユダヤ民族を「メシア殺害民族」として蔑視してきた歴史と密接な関連性がある。「メシア殺害民族、神殺し(deicide)」という非難は、何世紀にもわたりユダヤ人迫害の神学的根拠となってきた。これに対し、現代のユダヤ社会は「歴史的・学術的な反論」と「宗教間の建設的な対話」を通じてこの問題を克服(昇華)しようとしてきた。

 ユダヤ社会は先ず、キリスト教会側の一方的な非難を「虚偽の主張(The Christ-Killer Lie)」として退けている。理由は、�―住�架刑は当時の統治者であるローマ帝国の刑罰であり、ユダヤ教の処刑方法(投石など)ではないこと、��当時のユダヤ教指導層の一部が関与した可能性は否定できないが、民族全体や後世の世代に責任を負わせる「民族罪」という考え方は不当、��神学的反論としては、ユダヤ教の教義において、イエスはメシア(救世主)の条件を満たしていないから、神殺しという概念自体が成立しない、�な_蚕颪涼罎糧織罐瀬篥�表現が当時のユダヤ教内部の派閥争いや、後のキリスト教共同体の政治的背景から生まれたものであること、等々が挙げられている。

 また、�ゥぅ┘垢�当時のユダヤ教の文脈の中で活動し、律法を重んじる一人のユダヤ人であった。それゆえに、イエス対ユダヤ人という「対立構造」ではなく、「ユダヤ教内部の多様な議論の一つ」として新約聖書を読み直す必要があること、��新約聖書には「ユダヤ人たち」を悪役のように描く記述があるが、これらの記述は「ユダヤ教対キリスト教」の争いではなく、当時のユダヤ教内の異なる派閥(ファリサイ派、サドカイ派など)による激しい主導権争いの反映であったこと、そして�Д�リスト教がローマ帝国で普及する際、ローマ側の責任を軽くし、ユダヤ側に責任を転嫁せざるを得なかった政治的背景があったことなどが指摘されている。

 「メシア殺害民族」問題では、キリスト教側とユダヤ教側から相互理解を促進する動きがあった。キリスト教側からは、1965年の第2バチカン公会議による宣言「ノストラ・アエターテ」(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言)で、カトリック教会は「イエスの死の責任は当時のユダヤ人全員にも、今日のユダヤ人にも帰せられない」と公式に宣言した。ユダヤ教からは 2000年、200人以上のユダヤ人学者やラビが連名で「ダブルー・エメット」(真実を語れ)という声明を発表した。これは「キリスト教徒を敵ではなく、神を敬うパートナーとして見る」という前向きな姿勢を示したもので、歴史的な敵対心を乗り越えようとする動きだ。

 現代では、イスラエルとキリスト教会の間で、聖地の保護や人道支援といった共通の利益のために協力する関係が築かれてきている。過去の呪縛を解き、現代社会の課題に共に立ち向かう実務的な共生が模索されてきたわけだ。

 レバノンの十字架像の破壊や修道女への暴行事件は、こうした歴史的対話の進展とは逆行する動きであり、ユダヤ社会の主流派や政府は「恥ずべき行為」として非難している。

なお、イスラエルのネタニヤフ首相は先月26日、イスラエル国防軍(IDF)の部隊に所属するキリスト教徒の兵士や指揮官と会談している。同首相は「私は今、首相官邸で、素晴らしい若者たちのグループと会っている。彼らはイスラエル国防軍に所属するキリスト教徒の兵士たちだ。彼らは私たちの素晴らしい軍隊のあらゆる重要な役職を担い、素晴らしい働きをしている。イスラエルは中東で唯一、キリスト教徒コミュニティが繁栄し、成長し、拡大している国だ」と自負している。

ユダヤ人作家ツヴァイクの「時代の証言」

 オーストリアのユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイク(1881年〜1942年)はロンドンに亡命した時、既に亡命していた精神分析学者ジークムント・フロイト(1856年〜1939年)と会っている。ツヴァイクによると、フロイトとは「なぜユダヤ民族は迫害されるのか」について話し合った。両者は納得できる答えを見いだせなかったという。ただ、ツヴァイクは「フロイトは温和で優しい紳士であった」と証している。

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▲シュテファン・ツヴァイク、ウィキぺディアから

 ツヴァイクは当時、世界的ベストセラー作家として既に有名だった。ツヴァイクはヨーゼフ・ロート(1894年〜1939年)と同じようにハプスブルク王朝時代を夢見ていた。民族を超えて、様々な民族が君主制のもと共存する時代だ。しかし、ドイツでナチス政権が台頭し、ユダヤ人迫害が激しくなったため、ツヴァイクはロンドン、米国、そして最後はブラジルに亡命した。その後、ペテロポリスで妻と共に自殺した。60歳だった。人気作家で有名なツヴァイクの自殺は当時、メディアでも大きく報道された。

 最近、ツヴァイクが自殺する直前に書いたA4一枚の最後の「遺書」を読む機会があった。「自分の言語の世界が私にとって滅び、精神的な故郷であったヨーロッパが自らを破壊してしまった今、私はどこよりもここで人生を根本から新たに築き直したいと願ったであろう。しかし60歳を過ぎた今、まったく新たに始めるには特別な力が必要である。そして、故郷を失ってさまよい続けたほぼ十年の歳月によって、私の力は疲れ果ててしまった」と書き残している。

 ツヴァイクの最後の作品である「昨日の世界」の前書きで「私が語るのは、厳密には私自身の運命ではなく、一つの世代全体の運命――歴史上まれに見るほどに運命に翻弄された、私たちの唯一無二の世代――の運命なのである。私たち一人ひとり、もっとも小さく、もっとも取るに足りない者でさえ、ほとんど途切れなく続くヨーロッパの大地の火山的震動によって、その存在の奥底まで揺り動かされた。そして私は、数えきれない人々の中にあって、自分に与えられた唯一の特権をこう認めるほかにない――すなわち、オーストリア人として、ユダヤ人として、作家として、人道主義者として、平和主義者として、常にちょうどその地震がもっとも激しく作用した場所に立っていた、という特権を」と述べている。
  
 ツヴァイクが生きていた時代は、第1次世界大戦(1914年〜18年)、ハプスブルク王朝の解体(1918年)、ナチス・ドイツの躍進(1930年代初頭)、共産主義の台頭(1920年代から30年代)、そして第2次世界大戦(1939年〜45年)の勃発といった歴史的な大変革期だった。ツヴァイクは自伝の「昨日の世界」の中で、「私の家と生活を3度覆し、あらゆる過去から私を引き離し、その烈しい力で私を空虚の中へと投げ飛ばした」と述懐している。

 そして「私は1881年、偉大で強大な帝国、すなわちハプスブルクの君主国に生まれた。しかし地図を探しても、もはやその姿はない。跡形もなく消え失せてしまったのである。私は二千年の歴史を持つ、超国家的な大都市ウィーンで育ち、そこがドイツの一地方都市へと堕ちる前に、犯罪者のようにそこを去らねばならなかった」と述べ、「私の文学作品は、私がそれを書いたまさにその言語の国で、灰となって焼かれた。かつては何百万の読者が私の本を友として迎えてくれた国で、である。だから私はもはやどこにも属していない。どこへ行っても異邦人であり、せいぜい客人にすぎない」と記している。

 ツヴァイクは裕福な家庭で生まれ、金銭的な苦労はなかった。作品も世界的に読まれていた。その点、オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィア東部、ロシア国境近くの町ブロディ(現、ウクライナ)生まれの貧しいユダヤ人作家だったロートとは違っていた。ツヴァイクの人生は順調だったが、それらはすべて失われていった。そして自身の作品は焼かれ、灰になるのを目撃せざるを得なかったのだ。

 ツヴァイクは「黙示録の蒼ざめた馬たちはすべて私の人生を駆け抜け、革命、飢饉、インフレ、恐怖、疫病、亡命が押し寄せた。私は巨大な大衆思想が目の前で成長し広がるのを見た。イタリアのファシズム、ドイツのナチズム、ロシアのボルシェビズム、そして何より、ヨーロッパ文化の華を毒した根源的な疫病――ナショナリズム。私は無力に、抵抗できぬまま、人類がはるか昔に過ぎ去ったはずの野蛮へと、意識的で計画的な反人道の原理を抱えて逆戻りするのを見なければならなかった」と書いている。

 ちなみに、ツヴァイクは「昨日の世界」の中でアドルフ・ヒトラーについて言及している、曰く「ヒトラーは自分を冷遇し、侮辱したウィーン市にいつか仕返しすることを願っていた」と述べ、ヒトラーにとって「ウィーン凱旋」(1938年3月15日実現)が祈願だったと語っている。

 ツヴァイクは「昨日の世界」の前書きの最後に「私は戦争のさなかに書いている。異国の地で、記憶を助ける一切の資料もなく書いている。私の著書の一冊も、記録も、友人の手紙も、ホテルの部屋には何一つない。どこに問い合わせようにも、世界中で郵便は分断され、検閲によって妨げられている。そして自分の人生から忘れられるものは、すでに内なる本能によって忘れられるべきものとして裁かれていた。私が自ら保とうとするものだけが、他者のためにも保持される権利を持つ。さあ、私の記憶よ、私に代わって語り、選び取り、私の人生が暗闇へ沈む前に、そのせめて鏡のような反映だけでも与えてくれ!』と述べている。

 歴史的な大転換の時代に生き、激しい迫害を体験したユダヤ人作家の「時代の証言」は、21世紀を生きる私たちにとっても看過できない内容がある。

 注・・ツヴァイクの「遺書」と「昨日の世界」の日本語文はChatGTP訳に基づく。

カフカはパレスチナに行ってみたかった

 作家フランツ・カフカ(1883年〜1924年)が生前、旧約聖書に強い関心を持ち、旧約聖書を読むためにヘブライ語を学んでいた、という話を聞いた。そしてパレスチナをいつかは訪問したい、と願っていたという。カフカはユダヤ人だから、ある意味で当然かもしれないが、彼の小説ではあまりそれを感じないというか、カフカがユダヤ人作家だったというイメージは少なくとも作品の中では感じさせない。ヘブライ語聖書に線を引きながら読んでいるカフカの姿を思い浮かべてみた。

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▲ライナー・シュタッハ著「カフカの伝記」S・フィッシャー出版社

 カフカの日常生活は非常に規律正しかった。起床後は必ず体操し、食事は健康食で、咀嚼も40回するという習慣があった。労働災害保険会社に勤務していたカフカは仕事面でも非常に几帳面で優秀だった。工場や鉱山で怪我した労働者にはその事故防止のためにアドバイスし、時には事故現場に赴き、どうして事故が起きたを慎重に調査する。機械の使用で事故が起きた場合、絵を描いてどうしたら機械に手を挟まれないようにするかなどを労働者に説明したという。

 カフカの一日は労災保険会社での勤務、そして仕事を終えて家に帰ると食事して小休止を取り、1時間余り散歩した後、小説書きの世界に入るというパターンだった。朝開けまで小説書きに没頭して、会社に出勤が遅れる場合もあったが、会社側はカフカが優秀な社員であることを知っていたので大目に見ていたという。

 あるカフカ研究者によると、カフカは小説を書くことが自分の人生の目的と考え、全ての日常生活をそれに合わせてオーガナイズしていたというのだ。

 最初の話に戻るが、カフカはパレスチナを訪問したかった。また、シオニズム運動にも関心があったのだろう。ウィーンで開催された国際シオニズム会議に会社を休んでわざわざプラハからウィーンに行っている。

 ちなみに、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人新聞記者・作家のテオドール・ヘルツル(1860〜1904年)はユダヤ人が迫害から逃れ、安全に暮らすためには、彼ら自身の独立した国民国家をパレスチナ地域に建設するしかないと考え、1896年に著書「ユダヤ人国家」を出版し、ユダヤ人国家建設の構想(シオニズム)を具体的に示した。ヘルツルの夢だったユダヤ人国家は1948年5月14日に実現した。イスラエルではヘルツルは「シオニズム運動の父」と呼ばれている。

 なお、ウィーンのシオニズム会議には「果てしなき逃走」「ラデツキー行進曲」「聖なる酔っぱらいの伝説」などの小説を残したユダヤ人作家のヨーゼフ・ロート(1894年〜1939年)も参加していた。ただ、カフカとロートは会っていない。両者が会合していたらどうだったろうか。

 ロートは1894年、オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィア東部、ロシア国境近くの町ブロディ(現、ウクライナ)生まれのユダヤ人だ。正統派ユダヤ教徒が多く住んでいた地域出身だということもあって、ロートはユダヤ民族の運命に関心を寄せてきた。その点、同じユダヤ人でほぼ同時代に生きていたカフカにはロートのような世界は希薄だ、と当方は思ってきた。
 
 しかし、カフカを研究している知人から「カフカは生前、パレスチナに行きたかったので、へブライ語を学んでいた」と聞いた。旧約聖書「出エジプト記」には、エジプトで奴隷生活をしてきた60万人のユダヤ人を率いて、モーセがカナンを目指す話が記述されている。カナンは現在のパレスチナ地方だ。「カフカもロートやシュテファン・ツヴァイク(1881年〜1942年)のようにユダヤ民族のアイデンティティを模索していたのだ」ということを知った。

 カフカは41歳の誕生日を迎える前に結核で療養先のウィーン郊外のキーアリングにあるサナトリウムで亡くなった。労働者傷害保険協会に勤務していたカフカは、結核にかかっていた労働者から感染したのではないかといわれている。時代はナチス・ドイツが台頭する直前だったこともあって、カフカは強制収容所などを体験しなかったが、愛する3人の妹たちはカフカの死後、いずれも収容所で亡くなっている。カフカは少年時代、3人の幼い妹に童話を読んで聞かせるといった優しい兄だったという。

 死の床にあったカフカは友人マックス・ブロートに自分が書いた原稿を全部燃やしてほしいと頼んだが、ブロートはカフカの原稿を持ち出すことに成功し、後日、カフカの作品、「城」、「審判」などを世に出した。ブロートがいなければ世界文学にカフカの名はなかっただろう。そのブロートは逃亡後、パレスチナに移住している。

 第一次世界大戦(1914年〜18年)、ハプスブルク王朝の解体(1918年)、ナチス・ドイツの躍進(1930年代初頭)、そして共産主義の台頭(1920年代から30年代)といった時代の大変革の時に生まれたユダヤ人にとって、民族のアイデンティティを求める精神的葛藤があっただろう。カフカは自身の内面世界を、実世界から離れた場所を書割に描き続けていったのだろうか。

ドイツでも大学が反ユダヤ主義の拠点に

  ベルリンの「反ユダヤ主義研究情報センター」(RIAS)が4日に発表した2024年の「年次報告」によると、ドイツで反ユダヤ主義事件の件数が再び急増している。RIASによると、昨年総件数は8627件で、前年比(4886件)で約77%増、1日あたり約24件の反ユダヤ主義事件が起きている。2023年の1日あたりの件数は13件だった。

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▲犠牲者を追悼するゾーリンゲンの市民(オーストリア国営放送の中継からスクリーンショット=2024年8月25日)

 RIASの報告によると、極度の暴力事件8件、襲撃事件186件、脅迫事件300件だった。報告書によると、ドイツのユダヤ人にとって、反ユダヤ主義的言動は依然として「日常茶飯事の出来事」と受け取られている。

 RIASは、昨年8月ゾーリンゲン市のフェスティバルで発生した3人の死者と数人の負傷者を出した襲撃事件を、極度の暴力事件の一つに数えている。その理由は、テロ組織「イスラム国」(IS)が後に犯行声明を出し、イスラエルとハマス間の戦争にも言及した動画を公開しているからだ。また、ベルリンでのユダヤ人学生ラハブ・シャピラ氏への襲撃事件も、極度の暴力行為と見ている。裁判所は今年4月、反ユダヤ主義的な動機があったと認定し、被告に重傷害罪で懲役3年の判決を下したばかりだ。

 ドイツでの反ユダヤ主義の増加の背景には、パレスチナ自治区を実質的に支配してきたイスラム過激派テロ組織「ハマス」の2023年10月7日の奇襲テロ事件と、それが契機となって引き起こされたガザ紛争が大きな影響を与えていることは明らかだ。

 報告書は、「ドイツでは、10月7日の大量虐殺的な暴力行為を批判的に検証した報告はほとんど見られない」と述べている。また、10月7日に襲撃者によって行われた性的暴力行為が否定されていることにも言及している。イスラエル関連の反ユダヤ主義は、2024年に最も多く発生した反ユダヤ主義的言動であり、5857件だった。これは、前年の2518件の2倍に当たる。

 報告書によると、犯罪現場は圧倒的に路上とインターネット上だ。看過できない点は、大学内で事件が増加してることだ。例えば、ステッカーや落書き、イスラエル人人質追悼集会参加者への攻撃、ホロコーストを記念する標識の破壊行為などだ。

 教育機関における反ユダヤ主義的な事件の発生件数は昨年、大幅に増加した。大学では前年比3倍となる151件から450件に増加した。学校では、ユダヤ人が排除され、侮辱され、中東戦争の責任を負わされたケースが284件発生。少なくとも19件で襲撃事件が発生している。

 ちなみに、トランプ米政権は名門ハーバード大学に対して留学生受け入れ資格の剥奪など圧力を行使しているが、その背後には、同大への中国の影響力拡大ばかりか、大学が反ユダヤ主義の温床の地となっていることが指摘されている。ドイツの大学も米国の大学と同様、反ユダヤ主義活動の拠点となってきているのだ。

 「ドイツ・ユダヤ人学生連合」のロン・デケル会長は「RIASの最新年次報告書の数字は、全国のユダヤ人学生が長年経験してきたことを裏付けている。彼らはドイツの大学で安全を感じることができない。2024年には、56か所で450件の反ユダヤ主義事件が教育機関に報告された。特に憂慮すべきは、イスラエル関連の反ユダヤ主義が蔓延していることだ。ユダヤ人学生が自分の学問的関心からではなく、キャンパスでの安全度に基づいてコースを選択しなければならない状況は容認できない」と述べている。

 また、ドイツにおけるユダヤ人生活および反ユダヤ主義との闘いに関する連邦政府委員のフェリックス・クライン博士は「ユダヤ人への憎悪がほんの数年前には想像もできなかったほど、ドイツにおいて蔓延してきている。私たちは反ユダヤ主義との闘いをさらに拡大し、連邦政府、政治家、行政機関に加え、市民社会全体が結束して、民主主義的価値観を脅かす反ユダヤ主義の憎悪に対して立ち上がらなければならない」と訴えている。

指導者が「神の祝福」を失った時

 今年2月27日に公開された「ダビデの家」(House of David)というタイトルのアマゾン・ビデオのTV映画シリーズ(8回)を観てきた。舞台は初めてイスラエルの王になったサウルが統治していた時代だ。サウルは預言者サムエルから油を注がれてイスラエル民族の初代王に就く。連戦連勝の勇士サウル王は近隣の異教徒を破って強固な国を造っていった。

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▲サウル王に琴を奏でるダビデ少年、レンブラント・ファン・レイン画、ウィキぺディアから

 ところが、ある日、神は預言者サムエルを通じて国王サウルに「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を亡ぼし尽くせ。彼らを許すな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、ラクダも、ろばも皆、殺せ」と命じた。サウルはアマレクと闘い、勝利した。しかし神の言われたことを守らず、悪い物だけを殺し、良い牛、羊などを分捕り物として持って帰ってきた。そしてアマレク人の王アガダを人質にして生かしておいた。それを知った神はサウルに激怒し、「あなたは私の命令を守らなかった」としてサウルを王にしたことを悔いる。

 サウル王については「サムエル記上・下」に記述されている。モーセがエジプトから60万人のイスラエルの民を引き連れて神の約束の地に向かって歩みだした時、アマレク人は弱り果てていたイスラエルの民を襲撃した。「アマレク人は神を恐れなかった」と記述されている。神はモーセの民たちを殺害したアマレクを許しておかず、サウルを通じて撲滅しようとした。その神の命令に従わなかったサウルから「神の祝福」は離れていった。それを感じたサウルは何とか「神の祝福」を取り戻そうとするが、できない。サウルの心は乱れ悪霊に憑かれていく。呪術師を呼んでや薬を作らせるも心は決して昔のようには戻らない。

 そのような中、神はサムエルにユダ族の息子ダビデに王としての油を注ぐように伝える。ペリシテ人との戦いでサウル王と先陣たちはゴリアテを前に恐れおののく。イスラエルを救うために立ち上がったダビデはゴリアテとの戦いで勝利し、イスラエルの人々を救済する。サウルは「神の祝福」がダビデの上にある事に嫉妬し、何度もダビデの殺害を試みるが、サウルから逃れたダビデをサウルの息子ヨナタンは助ける。サウル王は最終的にはペルシテ人との戦いに敗れ、ギルボア山上で自害する。ダビデはサウルに次いで王となっていく。

 サウル王について紹介したが、当方が関心を持った点は神が選んだ人物が一旦、その祝福を失った場合の苦悩の世界だ。神はアベルの供え物を受け取り、カインのそれは受け取らない。また、アブラハムの家庭では長男のイシマエルではなく、イサクを祝福し、イサクの家庭では長男エソウではなく次男ヤコブに祝福した話が旧約聖書に記述されている。なぜ神はカイン、イシマエル、エソウに祝福を与えなかったのか、という点は別の機会で考えるとして、「神の祝福」を受けた人物がそれを失った場合、どのような状況が生まれてくるかという点について考えた。

 神は選んだ人物に預言者を通じて「油を注ぐ」。「神による選びと任命」を象徴する重要な儀式だ。この行為は神の召命を意味し、神がその人を特別な役割(王、祭司、預言者)に任命したことを示す。サウルの場合、彼がイスラエルの最初の王として選ばれたことを意味する。そして神の霊がその人物に宿り、導きと力を与えたわけだ(サムエル記上 10:6)。

 一方、「神の祝福」を失うとはどういう意味か。サウルは最初、神に選ばれた王として「神の祝福」を受けていたが、不従順な行動によってその祝福を失う。その結果、神の霊がサウルから離れ、代わりに「悪霊が彼を悩ませるようになった」。これは、サウル王が神の導きと守りを失い、精神的に不安定になったことを示している。神から見放された状態を指すわけだ。

 サウル・ダビデ・ソロモンの3代の王国時代が終わった後、神の教えに従わなかった選民ユダヤ民族は南北朝に分裂し、捕虜生活を余儀なくされる。北イスラエルはBC721年、アッシリア帝国の捕虜となり、南ユダ王国はバビロニアの王ネブカデネザルの捕虜となったが、バビロニアがペルシャとの戦いに敗北した結果、ペルシャ帝国下に入った。そしてペルシャ王朝のクロス王はBC538年、ユダヤ民族を解放し、エルサレムに帰還させた。その後、ユダヤ民族は様々な試練を経ながら民族の解放者を待ち続ける。

 「サウル王の話」は、神から祝福され、神の霊が注がれてきた人物、民族、国家がその使命を果たさなかった場合、どのような結果が待っているかを物語っている。ユダヤ民族だけの話ではない。「黄金時代が始まった」と豪語したトランプ米大統領ら世界の指導者、国家にも程度の差こそあれ当てはまる話ではないか。

 「神の祝福」を失い、神の霊が離れていった場合、その隙間に「悪霊」が入り込む。その結果、選ばれた人物、民族、国家は大きな試練に直面する。歴史は、中心人物、中心国家・民族が一時期、黄金時代を築くが、いつしか神から離れ、滅びていった数多くの実例を示している。
 
 その意味で、「サウル王の話」は21世紀に生きる私たちにとっても非常に啓蒙的な内容が含まれていると言えるのではないか。

ひまわりと「許しの限界」

 韓国の尹錫悦大統領が15日、「非常戒厳」宣言を巡り内乱容疑で拘束された。現職大統領の拘束は韓国史上初めて。ソウルからの情報によると、拘束された大統領は聴取に対してこれまで口を閉じているという。正直にいうと、欧州に住んでいると、ソウルから報じられる「弾劾」という言葉が耳に異様に響くのだ。大統領を追求する野党とそれを支持する国民から飛び出す「弾劾」という、通常は使わない重々しい言葉だけが凍てついた路上を独り歩きしてる、といった感じだ。唐突で申し訳ないが、「韓国人は相手の落ち度を許すということはないのだろうか」と考えた。相手の間違いをこれでもか、これでもかと糾弾する、といったニュアンスが「弾劾」という言葉から感じるのだ。重い、とにかく重いのだ。

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▲筆者のインタビューに答えるシモン・ヴィーゼンタール、1995年3月、ウィ―ンのヴィーゼンタール事務所で撮影

 その時、オーストリア国営放送のウエヴサイトで「許しの限界(」Die Grenzen der Vergebung)という見出しの記事が目に入った。ナチス親衛隊(SS)の兵士で、数百人のユダヤ人を殺害した人物が死の床でユダヤ人に許しを求めたとしたら、ユダヤ人はどう応じるべきか。この倫理的テーマを、ナチス戦犯追跡者(通称ナチハンター)として知られるシモン・ヴィーゼンタール(1908年〜2005年)が55年前に出版した著書『ひまわり(DieSonnenblume)』で問いかけているというのだ。

「ひまわり」は1969年にフランス語で初めて出版され、翌年ドイツ語で刊行された書簡で、2つの部分で構成されている。シモン・ヴィーゼンタールの体験をもとにしたフィクションとドキュメントの中間に位置する自伝的物語だ。1940年代初頭、彼はウクライナのリヴィウ(当時はレムベルク)でナチスによる強制労働を強いられていた。ある日、看護師に呼ばれ、死の床にいる兵士のもとに案内された。その兵士「カール」は21歳のSS隊員で、ユダヤ人を一つの建物に追い込み、ガソリンを用いて火を放ち、殺害したと告白した。その罪悪感に苛まれた彼は、ヴィーゼンタールの分身である語り手に許しを請う。しかし、語り手は無言でその場を立ち去る。

 この対応が正しかったのかを探るのが第2部だ。ヴィーゼンタールは1968年から1969年にかけて、このジレンマについて、宗教、哲学、文学の著名人に意見を求めた。答えは一つではなく、多様な受け取り方があった。

 多くの寄稿者は、ヴィーゼンタールが直面した状況を重視した。例えば、イタリアの化学者でホロコースト生存者のプリーモ・レーヴィは、「死を目前にした強制労働者」の立場を理解することの重要性を指摘し、このジレンマは抽象的な議論では解決できない、としている。宗教的観点からは、ウィーンのフランツ・ケーニヒ枢機卿は「その場での許しはほぼ超人的な行為だ」と述べている。同時に、ヴィーゼンタールを救おうとするようなコメントも寄せている。一方、ナチス幹部だったアルベルト・シュペーアは、自身の罪悪感とトラウマを語り、ヴィーゼンタールを「理解者」として受け取っている。

 「ひまわり」の発行後、特にイスラエルでは批判的な意見が多数寄せられた。600万人以上のユダヤ人がナチス・ドイツ軍の蛮行の犠牲となった後、「なぜ神は多数のユダヤ人が殺害されるのを黙認されたか」「神はどこにいたのか」といったテーマが1960年から80年代にかけ神学界で話題となった。すなわち、アウシュヴィッツ前と後では神について大きな変化が生じたわけだ。神学界ではそれを「アウシュヴィッツ以降の神学」と呼んでいる。ホロコースト生存者たちは、倫理的な問題に悩む余裕がなく、「なぜ自分が生き残ったのか」や「他の人を救えなかったのか」に悩む日々を送っていた。また、イスラエル国家の建設に尽力していたユダヤ人らにとっては、この本のテーマは受け入れがたいものだった。

 ちなみに、ドイツの実存主義哲学者のハンス・ヨナス(1903〜1993年)は「アウシュビッツ以後の神」という著書を出し、ナチス・ドイツの絶対悪に対してなぜ神は沈黙していたのか、暴力の神学的意味などを追求した一人だ。同時に、「神の死」の神学が1960年代に登場してきた。

 ヴィーゼンタール自身、ナチス戦犯を法の裁きにかけることを生涯の使命としていた。彼のモットー「正義であって復讐ではない」は、1988年に出版された回想録のタイトルにもなっている。当方はナチ・ハンターと呼ばれたヴィ―ゼンタールと数回、会見したが、彼に「戦争が終わって久しいが、なぜ今も逃亡したナチス幹部を追い続けるのか」と単刀直入に質問したことがあった。するとヴィーゼンタールは鋭い目をこちらに向け、「生きている人間が死んでいった人間の恨み、憎しみを許すとか、忘れるとか、言える資格や権利はない。『忘れる』ことは、憎しみや恨みを持って亡くなった人間を冒涜する行為だ」と強調した。同氏の死生観に当方は当時、驚かされたことを思い出す。

 「許しの限界」を書いたルカス・ヴィ―ゼルベルグ記者は「シモン・ヴィーゼンタールの作品において、ひまわりは何度も登場する重要なシンボルだ。ドイツ兵の墓の多くにはひまわりが咲き誇っている一方、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちは、無名のまま集団墓地に葬られている。この対比によって、ひまわりは『奪われた個性』やホロコーストの象徴として描かれている」と解説している。

 ヴィーゼンタールがひまわりを選んだ背景には、「個性」と「記憶」の喪失への深い悲しみがあるのだろう。ひまわりが持つ明るい象徴性を、犠牲者たちの無名性と対比させることで、彼は人間一人ひとりが持つ固有の価値を訴え、命の尊さを再認識させようとしたのではないか、というのだ。

ユダヤ人のイスラエル移住の動向

 イスラエルのオフィル・ソファー移民相(アリーヤ・社会統合相)によると、パレスチナ自治区のガザを実効支配するイスラム過激テロ組織ハマスが10月7日、イスラエル領土内に侵入し、1200人余りのユダヤ人を虐殺して以来、報復攻撃を開始したイスラエル軍とハマスとの間で戦闘が展開しているが、ガザ戦闘の中、10月7日以来、2662人のユダヤ人がイスラエルに移住したという。イスラエルのメディアが26日、報じた。

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▲イスラエルのオフィル・ソファー・移民相(イスラエル移民・社会統合省公式サイトから)

 移住者の大半はロシアからのユダヤ人でその数は1635人、そのほか、米国218人、ウクライナ128人、フランス116人だった。ソファー移民相は、「今後、イスラエルへの移住を希望するユダヤ人が劇的に増加することが予想されるため、受け入れの準備を進めている」という。ユダヤ人のイスラエル移住の主な理由は、世界的な反ユダヤ主義の高まりと、イスラエルへの連帯感の現れと解釈されている。

 ただし、前年と比較すると、移民数は減少している。2022年の移民数は1万6400人だった。大半はウクライナに住んでいたユダヤ人だ。メディア報道によると、減少の原因は飛行機の乗り継ぎ便が欠航になったことと、イスラエル国内の政治紛争だという。ガザ戦闘が勃発する前から、ネタニヤフ政権が推進する司法改革案に抗議する大規模な国民抗議デモが何カ月も続き、イスラエル国内は分裂していた。しかし、移民団体によると、「戦争が終われば移民者の数は再び増加するだろう。欧米各地で広がる反ユダヤ主義への懸念は大きいからだ」と予想している。

 ディアスポラと呼ばれるユダヤ人は世界各地を転々と彷徨ってきた。イスラエルが1948年、国家を建設すると世界からユダヤ人がイスラエルに移住していった歴史はまだ新しい。イスラエルが建国した結果、そこに住んでいた約70万人のパレスチナ人が難民として中東各地に移り住んでいった。同時期、イスラエルの建国に反対する中東のアラブ諸国ではユダヤ人への迫害が高まり、中東各地で住んでいたユダヤ人約80万人が難民となった。彼らは最終的には新しく建国されたイスラエルに移住していった。

 具体的には、モロッコには1948年まで約26万5000人のユダヤ人が住んでいたが、2018年の段階で2150人に激減した。イラクでは13万5000人から10人以下に。エジプトでは7万5000人が2018年には100人になっている。イエメンでも6万3000人から50人以下に。リビアでも3万8000人が現在ほぼゼロだ。チュニジア、シリア、レバノンでも同様だ。パレスチナ難民の動向がメディアで大きく報道されたが、同じ時期、ユダヤ難民が生まれていたわけだ。

 住んでいた国で政治異変や戦争が起きる度に、ユダヤ人はスケープゴートで迫害されてきた。ロシアとウクライナ戦争をみてもそうだ。ロシアに住むユダヤ人は差し迫る反ユダヤ主義の高まりを恐れ、早々とイスラエルに移住していった。同時に、ウクライナに住んでいたユダヤ人もロシア軍の侵攻を受け、イスラエルに移住していく人が増えているわけだ。

 英日刊紙ガーディアン(2022年12月20日オンライン版)とのインタビューで、ロシアを追放されたユダヤ教指導者ピンチャス・ゴールドシュミット元首席ラビ(Pinchas Goldschmidt)はユダヤ人にロシアを去るように忠告している(「ロシアのユダヤ人は脱出すべきだ」2023年1月4日参考)。

 ロシアのユダヤ人は、過去100年間で数万人が移住した。移住先は最初はヨーロッパとアメリカ、最近ではイスラエルという。1926年の国勢調査によると、267万2000人のユダヤ人が当時のソビエト連邦に居住し、そのうち59%がウクライナに住んでいた。今日、総人口1億4500万人のうち、ロシアに住むユダヤ人は約16万5000人に過ぎない。

 ゴールドシュミット師は、「ロシアのユダヤ人は不確かな未来に直面している。一方、長い間、ユダヤ人の聖域と受け取られてきた米国でも反ユダヤ主義が台頭している」と指摘し、反ユダヤ主義の台頭は世界的な現象だと警告を発している。アラブ・イスラム国家で反ユダヤ主義的言動が発生、ベルリンではシナゴークが放火され、ウィーンではイスラエル文化協会に掲げられていたイスラエル国旗が引き落とされるなどの事件が起きている。

 一方、ウクライナでは過去、1800年代後半のポグロム(破壊)から第2次世界大戦中のナチスによる虐殺まで、反ユダヤ主義の長い歴史がある。これらの中で最も悪名高いのは、1941年にキエフのバービーヤルでの3万3000人のユダヤ人虐殺だ。ウクライナの歴史を考えると、ユダヤ人であることを秘密にしなかったゼレンスキー氏が70%以上の支持を得てウクライナ大統領になったことは注目に値するという。

 イスラエル軍のガザ攻撃が続き、パレスチナ住民の犠牲が更に増えていけば、世界各地でイスラエル批判の声がより高まるだろう。その結果、反ユダヤ主義を恐れたユダヤ人がイスラエルに移住するケースが増えることは必至だ。

世界で最も有名な「ユダヤ人」の日

 「世界で最も有名なユダヤ人」といわれれば、疑いなく、ナザレのイエスだろう。理論物理学者アイシュタインではなく、もちろんイスラエルのネタニヤフ現首相ではない。「イエスはユダヤ人」といわれると驚く面もある。なぜならば、イエスの教えは当時のユダヤ教社会では異端視され、ユダヤ社会ではなく、聖パウロを通じてローマから世界に広がっていったからだ。そのイエスは純粋なユダヤ人だ。そして12月25日はイエスの生誕日として世界各地のキリスト者によって祝われている。

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▲イエスの生誕地ベツレヘムの風景(2023年12月23日、バチカンニュースのヴェブサイトから)

 生前のイエスと会ったことがない異郷生まれのユダヤ人のパウロはイエスの教えをユダヤ世界から他民族が住む世界に広げていった。その際、例えば、ユダヤ民族が守ってきた割礼を「心の割礼」の重要性を強調することで、イエスの教えからユダヤ教色を薄くし、ユダヤ民族以外の他民族の人々にもイエスの教えが受け入れられるように配慮した。ユダヤ教というローカル色の強い宗教から、世界宗教に発展させていったわけだ。

 そのような初期キリスト教の歴史もあって、パウロが広げていったイエスの教えはキリスト教と呼ばれる一方、その創設者イエスはあたかもユダヤ民族に対抗する非ユダヤ人のような印象を与えてきた面がある。ちなみに、イエス自身は自身の教えがユダヤ教のそれを土台としていることを強調し、新しい宗教を創設する意図はなかったといわれる。曰く「私が律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイによる福音書5章17節)と語っている。

 決定打はパウロが構築していった通称「パウロ神学」が人類の救い主イエスを十字架にかけたのは当時のユダヤ民族だったと主張することで、ユダヤ民族に「イエス殺害民族」の烙印を押して糾弾していったことだ。イエス自身、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイによる福音書第23章37節)と嘆いている。パウロ神学は世界に反ユダヤ主義を広げることにもなったわけだ。

 事実は、ユダヤ民族が殺したイエスは最初のキリスト者であり、同時に、ユダヤ人だったことだ。しかし、世界宗教に発展していったキリスト教会は自身の出自であるユダヤ民族の伝統、教えから距離を置く必要があったのだ。

 ただし、世界に13億人以上の信者を有する世界最大のキリスト教派、ローマ・カトリック教会はユダヤ教徒との和解を進め、ユダヤ民族を「メシア殺害民族」とは呼ばないことを正式に決定した。第2バチカン公会議(1962〜65年)後、カトリック教会が宗派を超えた対話を推進させていったからだ。

 イエスの生誕の地ベツレヘムには、クリスマスシーズンになると世界から訪れる巡礼者が殺到する。しかし、イスラエルとパレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム過激テロ組織ハマスとの間で戦闘が勃発して以来、ヨルダン川西岸に位置する聖地ベツレヘムを訪れる巡礼者は皆無という。

 ベツレヘムの教会にはクリスマスの飾りはない。パレスチナ自治区の暫定政府が管轄するベツレヘム市当局は、「殉教者に敬意を表し、ガザの人々との団結を込めて、クリスマスの装飾やお祭り要素をすべて撤去する」と発表したため、各教会もそれに従っているわけだ。世界最古の教会の一つであるキリスト降誕教会の前に、クリスマスツリーは見られないという。

 バチカンニュースは、「観光業はほぼ完全に停止状態に陥っている。今年はほとんどのキリスト教巡礼者が外出を控えており、多くの店が閉店している。市当局はクリスマスの飾りを撤去し、教会は大規模なクリスマスパレードを中止している。今年、ベツレヘムの聖夜は静かなままだ」という現地報告を掲載している。

 国内総生産の3分の2以上は、クリスマスシーズンにイエスの生誕の地を訪れる世界からの巡礼者が落とす外貨で占められている。今年はほとんどホテルのベッドは空という。多くのレストランや土産物店は閉店。タクシー運転手は国境検問所で客を待っている。ハマスとイスラエルの間の戦争により、現在イスラエルとヨルダン川西岸への渡航警告が出ている。

 ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教はアブラハムを「信仰の祖」とする兄弟宗教だ。イスラム過激派のハマスは「ユダヤ民族の壊滅」を目標に掲げ、イスラエルは「ハマスの壊滅」のためにガザ地区で戦闘を進めている。「世界で最も有名なユダヤ人」イエスの生誕日に、長男のユダヤ教と3男のイスラム教の和解というクリスマスプレゼントをもたらすキリスト教(次男)の指導者は出てこないのだろうか。

「イスラエル」と「ユダヤ民族」の関係

 イランのマフムード・アフマディネジャド元大統領は2010年9月の国連総会で、「イスラエルを地上の地図から抹殺してしまえ」と暴言を発し、国際社会の反感を買ったことがあった。一方、パレスチナ自治区を実効支配しているイスラム過激テロ組織ハマスは10月7日、イスラエル領内に侵入して1200人余りのユダヤ人を虐殺し、200人以上を人質として拉致した。ハマスは「ユダヤ民族の撲滅」をその創設文に明記するテロ組織だ。

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▲国民向けに声明を発表するイスラエルのネタニヤフ首相(2023年12月5日、イスラエル首相府公式サイトから)

 両者に違いがあることに気が付く。イラン元大統領はシーア派のイスラム教徒であり、ハマスはスンニ派グループに属する。それだけではない。元大統領は「イスラエルを地上の地図から抹殺」と呼び掛け、後者は「ユダヤ民族の撲滅」を標榜していることだ。すなわち、憎悪の対象が前者は「イスラエル」であり、後者は「ユダヤ民族」の違いだ。一見、ささやかな違いのようだが、相違はある。

 イスラエルの呼称は旧約時代のヤコブまで遡る。旧約聖書の創世記によると、神はヤコブに「イスラエル」という呼称を与えている。

 神はサラにも1人の息子イサクを与える。そのイサクからヤコブが生まれた。ヤコブは母親の助けを受け、父イサクから神の祝福を受けた。そのため、イサクの長男エサウは弟ヤコブを憎み、殺そうとしたので、ヤコブは母親の兄ラバンの所に逃げる。そこで21年間、苦労しながら、家族と財産を得て、エサウがいる地に戻る。その途中、夢の中で天使と格闘し、勝利する。その時、神はヤコブに現れ、「イスラエル」という名称を与えたのだ。

 「あなたは、もはやヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」(創世記32章28節)と記述されている。「イスラ」は「戦う、支配する」を、「エル」は「神」を意味する。

 一方、「ユダヤ民族」はイスラエルの12部族の一つ、「ユダ部族」を指していた。ヤコブの12人の息子から始まったイスラエル民族はエジプトで約400年後、モーセに率いられ出エジプトし、その後カナンに入り、士師たちの時代を経て、サウル、ダビデ、ソロモンの3王時代に入ったが、神の教えに従わなかったイスラエル人は南北朝に分裂し、捕虜生活を余儀なくされる。北イスラエルはBC721年、アッシリア帝国の捕虜となり、南ユダ王国はバビロニアの王ネブカデネザルの捕虜となったが、バビロニアがペルシャとの戦いに敗北した結果、ペルシャ王クロスはBC538年、ユダヤ民族を解放し、エルサレムに帰還することを助けた。なぜ、ペルシャ王は当時捕虜だったユダヤ人を解放したかについて、旧約聖書のエズラ記に説明している。ユダヤ人という言葉は、バビロン捕囚以降、イスラエル12部族全体を指すようになった。

 このように説明すると、「イスラエル」と「ユダヤ民族」はほぼ同じ意味と受け取れるが、1948年に建国したイスラエルの人口構成をみると、3つの異なった出自がある。2022年5月のイスラエル中央統計局によると、�.筌灰屬侶貪�引く生粋のユダヤ人(約74%)、�▲▲薀峽呂妊ぅ好薀┘觜饑劼鰺�する国民(約21%)、��キリスト教徒など少数派(5%)で、全人口は約950万人だ。だから、たとえ、ユダヤ人が全体の4分の3を占めているといっても、イスラエル=ユダヤ民族というわけにはいかないわけだ。

 イスラエルでユダヤ人と呼ばれるには母方の血統が問われる。母親がユダヤ人だったら、父親には関係なくユダヤ人と呼ばれる。ユダヤ民族は母親の血統重視なのだ。アブラハムを“信仰の祖”とするキリスト教やイスラム教は教えを広げようとするが、ユダヤ教には宣教という考えはない。なぜならば、ユダヤ人となるためには母親の血統が不可欠だからだ。

 興味深い点は、イスラエルでは18歳から男性(3年間)だけではなく、女性(2年間)も兵役義務があるが、それは主にユダヤ人国民だけを対象としたもので、キリスト教徒やアラブ系のイスラム系国民は兵役が免除されていることだ。国家の安全を守る兵役義務は他民族出身の国民には任されないという考えがその根底にあるのだろう。リベラルな国民が増えてきた現在のイスラエル社会ではキリスト教徒やアラブ系のイスラム系国民にも兵役義務を課すべきだという声が出ているという。

 参考までに、アフマディネジャド元大統領の「イスラエルを地上から抹殺」発言はユダヤ、アラブ系を含む全てのイスラエル国民の殺害を意図し、ハマスの「ユダヤ民族撲滅」宣言はイスラエル内の4分の3を占めるユダヤ人だけの抹殺を意味している、と解釈できるわけだ。
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