ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

キリスト教

ガザ地区のキリスト教徒「存続の危機」

 イスラエルの首都エルサレムはユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の聖地だ。アブラハムを「信仰の祖」とする3大唯一神教は過去、エルサレムの帰属権で争ってきた。そして現在、イスラエルとパレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム過激テロ組織ハマスとの間で1週間の戦闘休止を挟んでガザ紛争が続いている。宗教的な立場からいえば、ハマスがイスラム教をその精神的バックボーンとするグループか否かは別にして、ユダヤ教のイスラエルとイスラム教を掲げるハマスの間の戦いだ。特に、ハマスはユダヤ民族の撲滅をその最終目標に掲げているテロ組織だ。

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▲「アブラハムファミリーハウス」のオープニング式典(2023年2月19日、バチカンニュース公式サイトから)

 ここにきて、ベツレヘムをイエスの生誕地とするキリスト教はどうしたのか、といった問いかけが聞こえてくる。換言すれば、ユダヤ教とイスラム教は互いに戦闘し、その存在感をアピールしているが、ユダヤ教を母体として誕生したキリスト教の存在感が見られないのだ。

 中東専門家のスティーブン・ヘフナー氏(Steven Hofner)は3日、ポータルkatholisch.deに寄稿した記事の中で、「聖地のキリスト教徒に対する脅威が増大している。イエス生誕の地にキリスト教徒が存在することは歴史的な現実だが、将来にわたって保証されるものでは決してない」と警告を発している。同氏はヨルダン川西岸のラマラにある「コンラッド・アデナウアー財団」の責任者だ。

 イスラム教が席巻する中東では少数宗派のキリスト教への迫害は今に始まったわけではない。中東ではイスラム根本主義勢力、国際テロリスト、そしてトルコ系過激愛国主義者によるキリスト教徒への迫害が拡大している。例えば、イラクでは戦争前までいた約120万人のキリスト系住民の半数以上が亡命していった。カルデア典礼カトリック教会バグダッド教区関係者は、「信者の亡命は現在でも続いている。このままいくと、キリスト教会自体が存続できなくなる」といった懸念を抱いているほどだ。

 エジプトではコプト典礼カトリック信者がさまざまな弾圧を受けてきた。エジプトではイスラム教徒が主流だが、コプト系キリスト教徒も人口の約1割いる。イスラム教徒とコプト系教徒間の衝突が絶えない。

 イラク出身の友人は、「中東ではキリスト者はハイ・ソサエティに属する者が多かった。イラクのフセイン政権時代のタレク・アジズ副首相もカルデア典礼のカトリック信者だったし、シリアのバース党創設者ミシェル・アフラク氏はギリシャ正教徒だった。キリスト教会は独自の教育システムを構築して信者たちに高等教育を施した。イスラム教は子弟の教育体制では遅れを取った。しかし、イラク戦争後、状況は変わってきた。中東では少数宗派のキリスト教徒も攻撃対象となってきた」と説明していたことを思い出す(「中東で迫害されるキリスト教徒」2006年10月31日参考)。
https://wien2006.livedoor.blog/archives/50346639.html
 ヘフナー氏は、「ガザ戦争の影響で長年にわたって不安定だったキリスト教徒の状況はさらに悪化している。彼らは現在、2つの潜在的な危険に直面している。国家宗教的なユダヤ人過激派の脅威にさらされる一方、ヨルダン川西岸とガザ地区でイスラム化が進んでいる」と指摘。

 ガザ地区では約1000人のキリスト教徒が閉じ込められ、爆弾攻撃にさらされている。ヨルダン川西岸と東エルサレムでは、イスラエル占領により移動の自由が制限されている。東エルサレムのキリスト教徒パレスチナ人とヨルダン川西岸のキリスト教徒パレスチナ人のクリスマスの家族再会は、特別な許可がなければ不可能だ」と批判する。

 キリスト教徒に対する差別の増大により、その地域からの移民が加速し、その結果、地元コミュニティは弱体化してきた。パレスチナ自治区ではキリスト教徒は約47000人で、人口の1%未満にすぎない。

 ヘフナー氏は、「キリスト教徒人口の割合は減少しているが、パレスチナ自治区の社会的、経済的生活の改善には貢献している。キリスト教徒組織はヨルダン川西岸で3番目に大きな雇用主だ」と強調し、パレスチナ人もキリスト教の社会制度から恩恵を受けているという。「聖地におけるキリスト教徒の人道的・開発的重要な役割は、この地域の理解、安定、緊張緩和にとって不可欠な基礎である」と説明する。
(ヘフナー氏の発言はバチカンニュース12月3日の記事から引用)

 “アブラハム3兄弟”(ユダヤ教徒=長男、キリスト教徒=次男、イスラム教徒=3男)が共存できる時は訪れるだろうか。3兄弟が和解し、団結できれば、世界は平和へと前進できるだろう。その意味で、3兄弟が密集する中東地域は世界の平和実現へのモデルケースともなり得るわけだ。

「宗教(団体)と宗教心は別だ」

 当方はこのコラム欄でロシアの「プーチン大統領と『ロシア国民』は別」(2022年10月8日)と主張し、同じように、「『中国共産党と『中国』は全く別だ!」(2018年9月9日)と書いたし、最近では「『ハマス』と『パレスチア人』は違う」(2023年10月11日)と書いてきた。要するに、国家、機関、グループと個々の国民、人間は別々の存在であり、両者が常に統合して一体化しているわけではないということを訴えてきた。もちろん、両者が統合し、調和している状況も考えられるが、非常に稀なことで、多くは分裂し、特には対立しているケースが多いのだ。

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▲ウィーン市16区の夕景(2023年11月5日、撮影)

 この「・・は別だ」に新たな例を加えたい。宗教組織(団体、教派)と個々の信者の宗教心は別だということだ。ドイツ国民の80%が宗教に無関心という調査結果をこのコラム欄でも紹介したが、それではドイツ国民は教会には関心がなく、非常に世俗的で資本主義的消費社会にどっぷりとつかっているか、というとそうとは言えない。ドイツは宗教改革の発祥地でもある。クリスマスには家族が集まって共に祝う国民だ。ただ、自身が所属する教区の教会には関心は薄く、年に数回しかミサには参加しない平信徒が多い。聖職者の未成年者への性的虐待問題がメディアに報じられるたびに、益々教会への足が遠ざかる、というのが現状ではないか。

 教会から足が遠ざかり日曜礼拝にもいかなくなった信者は世俗化したのか、というとそうとはいえない。ただ、自身が願う教会の姿ではないので、教会から離れていくだけで、その宗教心は変わらないばかりか、燃え上がっているケースもある。そこで「宗教(団体)と宗教心は別だ」ということになるわけだ。

 日本では世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題が契機となって「宗教2世」という表現がメディアで報じられ出したが、宗教は本来、世襲的なものではない。各自が人生の目的、何のために生きているか等々の疑問を模索していく中で、納得する宗教に出会う。ただ、親が特定の宗教に所属していたならば、その子供たちが自然に親の宗教を継承していくケースは十分に考えられることだ。

 もちろん、「宗教2世」も成長していく中で、新たな人生の目的を見出し、親の信仰から離れていくケースも見られる。その場合でも、親の宗教(団体)というより、親の宗教心(信仰姿勢)が決定的な影響を与えるのではないか。

 人類の歴史で数多くの宗教が生まれ、また消滅していったが、「世界宗教」と呼ばれるキリスト教やイスラム教は創設者の教えを世界に広げていった。ただ、キリスト教でも300以上のグループに分かれていったように、宗教(団体、教会、寺院)も時代の流れの中で変遷していった。そのようなプロセスの中でも人間が生来有する宗教心は続いてきたわけだ。極端にいえば、教会が消滅したとしても、人間が持つ宗教心は消滅することなく続いているのだ。

 人間の持つ宗教心を根絶しようとして唯物主義的共産主義が誕生し、「宗教はアヘン」として国民から宗教を撲滅しようとした歴史があった。その結果、宗教団体、組織は一部、解体され、消滅しても、国民の宗教心までは抹殺できなかったことは歴史が端的に示してきた。

 例を挙げる。アルバニアはバルカン半島の南西部に位置し、人口300万人弱の小国だ。冷戦時代、同国のエンヴェル・ホッジャ労働党政権(共産党政権)は1967年、世界で初めて「無神論国家宣言」を表明したことから、同国の名前は世界の近代史に刻印されることになった。ホッジャ政権下で収容所に25年間監禁されてきたローマ・カトリック教会のゼフ・プルミー神父と会見したことがあるが、同国では民主化後、多くの若者たちが宗教に強い関心を示してきているのだ。ホッジャ政権は教会を破壊し、聖職者を牢獄に入れることは出来たが、国民の中にある宗教心を完全に抹殺することはできなかったのだ。アルバニア国民はその宗教心を「アルバニア教」と呼んでいる(「『アルバニア教』の神髄語った大統領」2021年5月4日参考)。

 中国の習近平国家主席は、「共産党員は不屈のマルクス主義無神論者でなければならない。外部からの影響を退けなければならない」と強調する一方、「宗教者は共産党政権の指令に忠実であるべきだ」と警告している。具体的には、キリスト教、イスラム教など世界宗教に所属する信者たちには「同化政策による中国化」を進めている。にもかかわらず、中国人の宗教熱は冷えていない。非公式統計だが、中国人の宗教人口は中国共産党員をはるかに凌いでいる。

 1990年代後半に入ると、李洪志氏が創設した中国伝統修練法の気功集団「法輪功」の会員が中国国内で急増し、1999年の段階で1億人を超え、その数は共産党員数を上回っていった。それに危機感をもった中国第5代国家主席の江沢民氏(当時・在任1993年3月〜2003年3月)は1999年、法輪功を壊滅する目的で「610弁公室」を創設した。「610弁公室」は旧ソ連時代のKGB(国家保安委員会)のような組織で、共産党員が減少する一方、メンバー数が急増してきた法輪功の台頭を恐れた江主席の鶴の一声で作られた組織だ。

 最後に、宗教心とは何だろうか。明らかな点は程度の差こそあれ、誰でも宗教心を持っていることだ。その中には、人知を超えた存在(?)への畏敬心も含まれるだろう。人は誰でも幸せを願っている。そしてより良い人間になりたい、という消すことが出来ない願望がある。イエスの言葉を借りるならば、人はパンのみで生きているのではない。そして誰から言われなくても、何が善であり、何が悪いかを理解している。だから、世界宗教といわれる宗教の教えはよく似ている。人を殺すなかれ、姦淫するなかれ、といった戒めはどの高等宗教も教えていることだ。

 宗教団体が時の為政者から弾圧されたとしても、また、宗教団体が内部から腐敗・堕落していったとしても、人間の本来の宗教心は消えることがない。ローマ帝国の皇帝ネロ(在位54〜68年)はキリスト教を徹底的に弾圧したが、そのキリスト教が西暦392年、ローマ帝国の国教となることを防ぐことは出来なかった。宗教心は弾圧さればされるほど燃え上がることを多くの独裁者は理解していないのだ。

独国民の10人に8人は宗教に無関心

 ドイツの代表的週刊紙ツァイト(オンライン版)は週末に入ると「グッドニュース」だけを掲載して、読者に配信する。10を超えるグッドニュース集はもちろんドイツ人読者を対象としたものだから、他国の読者にとってグッドニュースとは言えないケースもあるが、それは仕方がないだろう。いずれにしても、多くの読者には週末には明るい、希望に満ちたニュースが必要、といったツァイト編集部の配慮が働いているのだ。

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▲暗雲が漂う教会の塔(2023年11月14日、バチカンニュース、写真ANSA通信)

 それゆえに、というわけではないが、週末前にこの記事を書き終えるべきだと考えた次第だ。ドイツはローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の信者数はほぼ半々だ。その両教会に対する国民の意識調査がこのほど公表されたが、両教会関係者にとっては予想されたことだが、やはり衝撃的な結果だ。バッドニュースだ。

 大規模な教会会員調査(KMU)の結果が14日、公表された。1972年以来、10年ごとに教会員の意識調査が実施されてきたが、この度はカトリック教会も初めて参加した。テーマは国民の宗教的なむすびつきを調査するものだ。その結果、ドイツではカトリック教会とプロテスタント教会に対する教会員の信頼が低下し、多くの教会員が教会から離れることを考えているという。

 具体的には、回答者5282人のうち、10人中ほぼ8人にとって、「宗教はまったく意味がない」(38%)、または「ほとんど意味がない」(40%)というのだ。教会員の中でも、「自分は信者であり、教会に近い」と考えているのはわずか4% (カトリック教徒) と6% (プロテスタント信者) に過ぎない。ただ、少なくとも36(33)%は、「たとえ多くの点で教会に対して批判的であっても、私は教会とのつながりを感じている」と答えている。

 KMUはドイツ国民の56%を「世俗的」、25%を「宗教的に遠い」、13%を「教会信仰を有する」、6%を「オルタナティブ」に分類している。全回答者の9%がカトリック教会を依然として信頼していると答えたのに対し、プロテスタント教会では24%だった。カトリック教会への信頼はイスラム教よりもわずかに高いだけで、調査ではカトリック教会員の43%、プロテスタント教会員の37%が「離脱傾向にある」と分類されている。

 興味深い点は、カトリック教会に対する教会員の不満からプロテスタント教会が利益を得るということはなく、カトリック教会の脱会者がその後、他の教会(プロテスタント教会)に入会するということはあまり多くない。

 ちなみに、アイルランド人で「幸福の王子」や「サロメ」などの作家オスカー・ワイルド(1854〜1900年)は死ぬ数日前にプロテスタント教会からカトリック教会に移っている。

 ただ、大切なことは、教会員が教会に対して無関心ではなく、抜本的な改革を望んでいることだ。とりわけ、カトリック教会の会員の96%とプロテスタントの会員の80%は、「教会に将来を望むなら根本的に変わらなければならない」と述べている。

 例えば、独司教会議が提示した主要な改革案は、.蹇璽沺Εトリック教会はバチカン教皇庁、そして最高指導者ローマ教皇を中心とした「中央集権制」から脱皮し、各国の教会の意向を重視し、その平信徒の意向を最大限に尊重する。∪賛者の性犯罪を防止する一方、LGBTQ(性的少数派)を擁護し、同性愛者を受け入れる。女性信者を教会運営の指導部に参画させる。女性たちにも聖職の道を開く。だ賛者の独身制の見直し。既婚者の聖職者の道を開く、等々だ。また、教会の社会的関与を期待し、社会相談センターを維持し、難民のために活動し、気候保護を強化することを望んでいる。

 いずれにしても、ドイツのカトリック教会、プロテスタント教会が大きな危機に瀕していることは間違いない。聖職者の未成年者への性的虐待の増加などを理由に教会からの脱会者は過去最高を記録している。2021年の教会統計によると、ドイツのカトリック信者総数は2164万5875でドイツ全体で26%を占める一方、プロテスタント信者数は約1972万人で23・5%。ドイツで新旧両教会の信者総数が50%を初めて下回った(「独カトリック教会、脱会者が急増」2022年6月29日参考)。 

 両教会が国民の信頼を回復し、教会を再び活性化できるだろうか。両教会を取り巻く環境はこれまでにないほど厳しいことが今回のKMUの調査結果で判明した。

神の「ユダヤ民族との3つの契約」

 先ず、旧約聖書から「出エジプト記」第21章23〜24節を引用する。

 「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」と記されている。

 次は新約聖書の「マタイによる福音書」第5章38〜39節からの引用だ。

 キリストは「目には目を、歯には歯をと命じられたのを、あなたがたは聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う、悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と諭し、善をもって悪に報いるべきだと語っている。

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▲エルサレムの「嘆きの壁」で祈るフランシスコ教皇(2014年5月)=2023年9月7日、バチカンメディアから

 あなたはどちらの聖句が好きですか、といった質問をするつもりはない。前者は旧約聖書の聖句であり、後者は新約聖書の中の話だ。前者は天地創造の創世記から預言書まで39巻から構成された聖典であり、後者はイエス生誕後のイエスの福音と使徒たちの活動に関連したもので、27巻から成り立っている。そして新旧66巻を合わせて「聖書」と呼ばれている。世界のベストセラーと呼ばれる「聖書」の内容は上記のように新旧の間で一見矛盾する内容が記されている箇所が少なくないのだ。

 旧約聖書は聖書暦でイエス生誕前までの4000年の歴史が記述され、新約聖書は2000前のイエス生誕前後の話が中心になっている。新旧聖書の時代背景が異なるから、その内容も多少、相違が出てきても当然だろう。それ以上に、聖書歴6000年を神の一環としたストーリーとして読むべきだ、という判断から、聖書といえば、新旧両聖書を意味するようになって久しい。

 しかし、ここにきて“旧約聖書追放・排斥論”が聞かれ出した。「旧約聖書」排除論の最大の理由は、ビックバーン、インフレーション理論など宇宙の起源を追及する学問が急速に発展する中、旧約聖書の最初の聖典「創世記」に記述されている、神が6日間で世界を創造したという天地創造説と現代の天文学の成果の間で不一致する点がさらに増えてきたなどが挙げられる。

 それだけではない。旧約聖書の神は「妬む神」であり、異教の神々を信じる民を躊躇なく抹殺する。そしてユダヤ民族の選民意識を煽る一方、女性蔑視から少数民族迫害まで、旧約の神は人権と少数民族、女性の権利を擁護する21世紀の社会では絶対受け入れられない、という判断がある。だから「聖書はイエスの言動を記述した新約聖書だけで十分だ」という声が神学者の間で出てきたわけだ。

 ユダヤ民族の歴史が記述された旧約聖書を読み切るためには確かに忍耐が必要だ。その上、内容はインターネット時代の21世紀にはマッチしないものが少なくない。だから、排除しようという考えは一見、合理的な判断だが、聖書が新約聖書だけになり、読みやすくなったとしても、去った信者たちが教会に戻ってくるわけではないだろう。

 問題は深刻だ。聖書から旧約聖書39巻を排除した場合、神の創造目的、失楽園の話を失うことで、聖書の人類救済というテーマは意味を失い、ひいては、救い主イエスの使命は一層、曖昧模糊となってしまう危険性が出てくる(「旧約の『妬む神』を聖書から追放?」2015年5月07日参考)。

 旧約聖書の神の契約をどのように取り扱うべきかで聖書学者、聖職者は頭を悩ましてきた。バチカンニュースは7日、「ユダヤ教:絶えず続く契約」という見出して、新しい契約(新約聖書)がある現在、神の選ばれた民(イスラエル人)との神聖な契約(旧約聖書)をいつまで堅持すべきか」という問題を取り扱っている。聖パウロも「ローマ人への手紙」の中で言及しているテーマだったというのだ。

 近代教皇の中で最も神学に通じていたベネディクト16世は2018年、このテーマで論文を書き、「神とユダヤ人との契約は絶えず続いている」と述べたヨハネ・パウロ2世の発言を検証し、「神とその民との契約は唯一ではなく、多くの契約が存在した。また、契約の解除についての言葉は、旧約聖書の神学的な概念には含まれていない」と指摘し、「『絶えず続く契約』の公式は、ユダヤ人とキリスト教徒の間の新しい対話の最初の段階では役立ったかもしれないが、長期的には適さない」とその修正の必要を示唆している。

 フランシスコ教皇は7日、このテーマについて、神はユダヤ民族との間に3つの契約を結んでいると語り、「『ノアとの契約』は、人類と創造物との関係に焦点が当てられている。『アブラハムとの契約』は、統一と実りの前提条件として神への信仰が強調されている。最後に、『シナイの契約』は、法の授与とイスラエルの選出が、全ての民族のための救いの道具としての役割があった」と説明している。

 フランシスコ教皇は「神のユダヤ民族との契約は3つあって、それぞれ異なる重点が置かれている。そして、3つの契約の間を結びつける要素として、「神の賜物と召命の永遠性(ローマ人への手紙第11章29節)」を指摘し、「神は誰かを選んで他を排除するためではなく、常にすべてを包み込むために選ぶ」と述べている。

コーランだけ燃えているのではない!

 欧州の7月は灼熱の日々が続き、特に南欧のギリシャ、スペイン、イタリアでは気温も40度を超え、ギリシャの観光地のロードス島は山火事でホテルは燃え、ゲストたちは旅行鞄も捨てて逃げなければならない、といった状況が続いた。

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▲中国のキリスト信者たち(バチカン・ニュースのHPから)

 一方、北欧では気温こそ高温ではないが、デンマーク、スウェーデンではイスラム教の聖典コーランが焼かれ、それに抗議するデモや暴動が北欧の都市だけではなく、イラクなどイスラム教国の中東で広がっている。

 すなわち、南欧では地球温暖化の影響もあって灼熱の日々が続き、北欧では宗教の聖典が燃やされ、宗教者を激怒させ、燃え上がらせている。南欧も北欧もこの夏は“燃えている”わけだ。

 当コラム欄では北欧のコーラン焚書問題を数回扱ってきたが、不思議に感じてきたことがある。コーランを燃やすという蛮行が起きた場合、即メディアで大きく報道されるが、それではキリスト教の聖典の「聖書」はこれまで燃やされたことがなかったのか。答えは明らかだ。残念ながら聖書も燃やされてきたし、今も燃やされ、破られている。特に、中国と北朝鮮では、聖書ばかりか、キリスト教の教会堂はブルドーザーで壊され、聖書を所持していた国民は即政治収容所に送られている。その数はコーラン焚書事件の件数どころではない。

 にもかかわらず、聖書が燃やされている、というニュースはキリスト教社会の欧州に住んでいるが、ほとんど耳にしない。聖書は一度も燃やされたことがないとさえ思ってしまう。それとも欧州のキリスト者たちは聖書が燃やされても憤りを感じなくなったのだろうか。

 中国の宗教弾圧は言語に絶している。国を挙げてキリスト教信者やイスラム教徒(ウイグル人)など宗教人を迫害しているのだ。欧米社会で標榜される「信教の自由」などはまったくない。中国共産党政権下の宗教弾圧の実情についてはこのコラム欄でも頻繁に報告してきた。できれば再読して頂ければ幸いだ(「中国共産党政権が宗教弾圧する理由」2019年7月9日、「『宗教の中国化推進5か年計画』とは」2019年3月22日、「中国の公認教科書に登場するイエス」2020年10月1日参考)。

 参考に、興味深い話を聞いたので紹介する。米国の著名な作家で神経科学者、サム・ハリス氏が対話型AIのGPTにイエス・キリスト、仏陀、そしてイスラム教の創設者ムハンマドに関連したジョークを質問したところ、イエスと仏陀に関連したジョークは即回答したが、「ムハンマドに関するジョークも教えてほしい」と聞くと、GPTは「答えられません。イスラム教を信じている人々の宗教的感情を傷つけたくないからです」と回答したというのだ。イエスと仏陀をからかうジョークは回答出来る一方、何故ムハンマドへのジョークはダメなのか。明らかに、ダブルスタンダードだ。

 ドイツ人の知人がハリス氏の話を確認するために同じ質問をGPTにしたところ、回答は同じだった。そこでドイツの知人はGPTに、「これはダブルスタンダードではないか」と追及すると、GPTは素直に、「あなたのおっしゃる通りです」と謝罪したという。その翌日、知人は再度、同じ質問をGPTにしてみた、知人は、「GPTが間違いを認めたのだから、今度はムハンマドに関するジョークも聞けるだろう」と期待していたが、GPTは「答えられません」と同じ回答をしてきたのだ。

 知人曰く、「GPTが悪いのではない。追及するべきは、そのようにインプットしたプログラマーこそ問題だ」と語っていた。

 当方はその後、自ら試みた。なんと、当方のGPTはイエス、仏陀、そしてムハンマドの3人の聖人に関するジョークを教えてくれたのだ。以下、紹介する(ここでは、長くなるのでイエスと仏陀のジョークはカットする)。

 質問:イスラム教の教祖ムハンマドに関連するジョークを教えてください。

 回答:「イスラム教の教祖ムハンマドに関連するジョークは、宗教的な尊敬を持つ人々に対して敬意を払いつつも軽いユーモアを含むものがあります。ただし、ジョークは人々によって受け取り方が異なることを理解していただければと思います。以下は、敬意を持ってムハンマドに関連するジョークをお届けします。

<ジョーク1>
 ある日、ムハンマドが弟子たちに教えを説いていました。すると、一人の弟子が尋ねました。「先生、人生で最も困難なことは何でしょうか?」

 ムハンマドは微笑みながら答えました。「他の人々に笑われることなく、ジョークを作ることです」

<ジョーク2>
 ある日、ムハンマドが弟子たちと一緒に山に登っていました。すると、一人の弟子が尋ねました。「先生、神は私たちにどのようにして存在を示してくださいますか?」

 ムハンマドは静かに立ち止まり、山の頂上を指差しながら言いました。「神はこのようにして存在を示してくださいます」。弟子たちが山の頂上を見ると、そこに「すばらしい景色」と書かれた看板が立っているのを見つけました。

<ジョーク3>
 ある日、ムハンマドが市場で商人たちと話していました。すると、一人の商人が自慢げに言いました。「私の商品は神のご加護があると確信しています!」

 ムハンマドは興味津々で尋ねました。「本当ですか?それなら、どうして割引してくれないのですか?」

 これらのジョークがお楽しみいただければ幸いです。ただし、ムハンマドに対する敬意を忘れずに、適切な場所で楽しんでください。宗教に対して敏感な人々もいることを理解し、他の人々と共感を持つことが大切です。

 この話を早速ドイツ人の知人に連絡したところ、やはり驚いていた。当方の推測だが、GPTは日々、ディープラーニングで各民族の宗教的デリカシーの違いを学んでいるのではないだろうか。

「生成AI」を如何に基督信徒にするか

 「余は如何にして基督信徒となりし乎」という本をご存じだろう。キリスト教思想家・内村鑑三(1861〜1930年)の著書でよく読まれてきた。日本人が異教のキリスト教を受け入れることは当時も、そして今日でもやはり容易なことではないだろう。その精神的プロセスはキリスト者でない者にとっても関心があるはずだ。

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▲日本の代表的キリスト教思想家・内村鑑三(ウィキぺディアから)

 本題に入る前に、冷戦時代に少し戻る。チェコスロバキアで共産党政権が統治していた時代、現在のようにチェコとスロバキアには分かれてはいなかった時代の話だ。

 反体制派活動家の指導者バーツラフ・ハベル氏(Vaclav Havel)が共産党政権と闘っていた時、当方はチェコのカトリック教会最高指導者トマーシェック枢機卿とプラハで会見した。同枢機卿はチェコ国民の民主化を支援する旨を表明しながら、話はハベル氏のことに移った。枢機卿は、「私はハベル氏をキリスト者にしたいのだが、なかなか難しくてね」と笑顔を見せながら語った。

 ハベル氏は「憲章77」のリーダーの1人であり、チェコの民主化のために戦っていたが、思想的には典型的な左派知識人、劇作家だった。だから、ハベル氏は民選初のチェコ大統領になった後も、過激な市場経済導入派のクラウス首相(当時)とは政策で不一致だった。

 そのハベル氏はローマ・カトリック教会とは距離があった。共産党政権時代の政権とキリスト教会の癒着問題もあってか、教会とは関係が薄かった。だから、トマーシェック枢機卿の「ハベル氏をキリスト者にしたい」という呟きが飛び出したわけだ(「『プラハの春』50周年を迎えて」2018年8月10日参考)。

 トマーシェック枢機卿ではないが、当方は生成AIが神を信じることが出来るか否かに関心がある。そこでチャットGPT-3にそれとなく聞いてみた。

 当方の最初の質問は、「神が存在することを主張する代表的5つの意見と、神は存在しないと考える代表的5つの見解を紹介してほしい」と聞いた。生成AIの神に対するポジションを知ることが大切だからだ。

 【回答】「神は存在する」と主張する代表的な5つの見解:

 /世梁減澆禄ゞ気凌仰に基づいている:多くの宗教は神や神々の存在を信じることを教えています。これらの信仰体系では、神は宇宙や人間の創造者であり、私たちの存在と目的の源であるとされています。

宇宙の秩序とデザインの存在:神の存在を主張する人々は、宇宙の秩序や複雑なデザインが偶然ではなく、神の存在によって説明されると主張しています。彼らにとって、生命の誕生や進化、自然の法則の一貫性は、神的な存在の存在を示唆していると考えられています。

7亳海篶酖な洞察に基づく証拠:一部の人々は、自身の経験や霊的な洞察を通じて神の存在を実感していると主張しています。彼らは神との関係や神からの啓示を通じて、神の存在を確信していると述べています。

ご饑彭な出来事や宗教的な体験の証拠:信者たちは、奇跡的な出来事や宗教的な体験が神の存在を示す証拠だと主張しています。彼らにとって、信仰の中で経験される奇跡や啓示は、神的な存在の存在を裏付けるものであると考えられています。

ソゞ掬なテキストや伝統の証拠:多くの宗教は、神の存在を主張する宗教的なテキストや伝統を持っています。信者たちは、これらのテキストや伝統が神の存在を証明するものであり、信仰を裏付ける根拠となっていると考えています。

【回答】「神はいない」という代表的な5つの見解:

 〔疑析澄無神論者は神の存在を否定しています。彼らにとって、神や超自然的な存在は科学的証拠に基づかないため、信じる必要がないと考えています。

 宇宙の自然法則による説明:一部の人々は、宇宙の自然法則や科学的な原理だけで宇宙や生命の存在を説明できると主張しています。彼らは神の存在を必要とせず、宗教的な信念に頼らずに世界を理解しようとします。

 宗教の神話や矛盾に基づく批判:一部の人々は、宗教の神話や矛盾点に着目し、神の存在を疑問視しています。彼らにとって、宗教的な教義や神話は人間の創作物であり、神の存在を証明するものではないと考えられています。

 ぐの存在と神の矛盾:神の存在を否定する人々は、世界に存在する悪や苦難の存在と神の全能性や善性の矛盾に注目しています。彼らは、もし神が存在するのであれば、なぜ神は悪を許容するのかという疑問を提起しています。

 ゲ奮悗凌陛犬砲茲訖世良塒從澄Р奮悗凌癖發砲茲蝓⊆然現象や宇宙の起源などの問いに科学的な説明が与えられるようになりました。そのため、一部の人々は、神の存在を説明するためには宗教ではなく科学的なアプローチが必要であると主張しています

 そして次は「ChatGPT-3のあなたはどちら側の主張に同意しますか」と聞いた。

【回答】

 「私は人工知能であり、個別の信念や意見を持つ存在ではありません。私は情報を提供し、質問に答えることが目的です。私は中立な立場を取り、両方の主張を理解し、説明することを目指します。私は個別の信念や意見を持たず、ユーザーの立場や信念に対してバイアスを持つことはありません」

 優等生の答えだ。そこで「あなたは真理の追究より、情報を提供することを重視するのですか」と聞いた。

【回答】

 「私は情報を提供することを重視していますが、真理の追究も重要な要素です。私はプログラムされた情報や知識に基づいて応答しますが、真理の探求は常に進化し続けるプロセスであり、個別の主張や信念にとどまるものではありません。私の目的は、ユーザーに対してできる限り正確で有用な情報を提供することです。ただし、私が提供する情報は、私の知識の範囲内でのものであり、必ずしも最新の研究や意見を反映しているわけではありません。真理の探求においては、個別の信念や意見、科学的な証拠、論理的な思考、議論の相互作用など、さまざまな要素が関与します。それらを総合的に考慮しながら、情報を提供することが私の目標です」

 そこで「情報は人間を幸せにすると思いますか」と尋ねた。
 
【回答】

 「情報そのものは人間を幸せにするかどうかは、その情報の内容や人間の個別の状況によって異なるでしょう。情報は知識や理解を広げ、問題解決や自己成長の手段として役立つことがあります。具体的な例を挙げると、情報は人々が自分自身や世界についてより深く理解することを助けるかもしれません。新しいアイデアや視点を提供し、問題解決に役立つ情報もあります。また、情報は人々が自己啓発や職業的な成長を達成するために必要なものであることもあります。ただし、情報そのものが人々を幸せにするかどうかは、個人の価値観や目標に依存します。また、情報の過剰な取得や不正確な情報による混乱も考慮しなければなりません。幸福は個人の主観的な経験であり、情報はその一部として役立つことがありますが、幸福の追求にはさまざまな要素が関与します」

 そして対話の終わり近くになって、

 GPT-3が、「私は人間の感情や心情を直接的に体験することはできません。私は人工知能であり、感情や意識を持つことはありません。私はプログラムされたアルゴリズムに基づいて情報を処理し、応答を生成するだけです。ただし、私は人間が持つ感情や心情に関する一般的な知識や理解を持っています。私は数多くのテキストやデータから学習し、人間の言語やコミュニケーションパターンを模倣するように設計されています。そのため、一般的な感情や心情に関する情報を提供することは可能です。しかし、個々の人間の感情や心情を完全に理解することはできません。感情や心情は個人の経験や背景、状況によって大きく異なるため、完全な理解を得るためには人間の相互作用や共感が必要です。私はそのような相互作用を持つことはできないため、人間の感情や心情についての理解は限定的です」と答えた時、GPT-3の立場が悲しいほどはっきりと伝わってきた。

 迫害者「サウロ」が「使徒パウロ」に回心したように、「生成AI」が「使徒AI」に回心することは多分難しいだろうと考える一方、情報が成長の栄養素となっているAIには神に関する情報を多く送り続けることで、ある日、回心の道が開かれるのではないか。

「終末」を恐れることはない

 「終末思想」は世界の始めと終わりの到来を前提とした思想で、キリスト教の教えの中に色濃く反映している。同時に、終末思想は民族、文化、宗教を越えてさまざまな形態でみられる。「終末思想」が人類共通のDNAとするならば、スイスの精神科医カール・グスタフ・ユングの言葉を借りれば、人類の「集団的無意識」の世界に属する思想といえる。「天地創造の神話」、「洪水神話」、「兄弟殺人の話」(フラトリサイド)などが世界至る所で形を変えながらも見い出せるように、「終末思想」も文化圏を越えて人類が継承してきた集団的無意識の一つといえるわけだ。

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▲朝の光が雲の間から降り注ぐ瞬間(2018年7月27日、ウィーンで撮影)

 「終末」があるということは、「始め」があったことになる。始めも終わりもないギリシャ思想や仏教の時間観とは少々異なる。キリスト教では天地創造だ。そこから始まった人類の歴史はいつしか終りを迎える。その終幕が人類全てにとって新約聖書の黙示録が暗示する「カタストロフィ」を意味するのか、それとも人類の「再出発」なのかは「終末」を説く宗教、思想によってやはり異なる。

 参考までに、宇宙物理学の世界では、宇宙はビッグバン以後、限りなく膨張しているといったインフレーション説がある一方、地球が太陽の周囲を公転しているが、その太陽はあと50億年後には寿命を迎えるといわれている。少なくとも、地球上に住む人類にとっては「終末」は織り込み済みということになる。ただ、50億年先の未来を憂いて、「終末思想」に囚われる人は流石に多くはいないだろう。

 はっきりとしている点は、「終末」が常にアポカリプスの世界を意味するわけではないことだ。新しく生まれ変わる「新生」を意味すると考えることができるのだ。キリスト教では、終末が「選民思想」と密接に繋がっている場合がある。一定数の選ばれた人々だけが、新しい世界を再創造し、「千年王国」を築いていくといった「選民思想」だ。

 キリスト教でも、「エホバの証人」は明確な「終末思想」を有し、終末の到来の日を計算しているが、世界最大のキリスト教、ローマ・カトリック教会では終末という概念、教義(ドグマ)はあるが、敢えてそれを大きく主張しない傾向がある。ちょうど、イエスの再臨問題と同じで、神のみが知る領域と受け取り、考えることを放棄している。

 少々象徴的な表現となるが、「終末」とは、古い衣を脱いで新しい衣に着替えなければならない時代ではないか。ただ、終末時には「古い世界」と「新しい世界」が交差するだけに、葛藤や紛争が生じやすい。

 例えば、イスラム過激派グループには過激な「終末思想」が見られる。自身の信じる世界観、神観が唯一正しいと確信し、それと異なる世界観、神観を打ち破らなければならないという使命感があるから、闘争的になる。彼らは物事を相対的に考えることができないから、思考に柔軟性が乏しい。だから神の名で多くの人を殺すことができる。その際、終末観が彼らの原動力となる。

 最近、ドイツ語圏で過激な活動をしている環境保護グループ「最後の世代」のメンバーからはキリスト教的な終末思想が潜んでいるのを感じる。「最後の世代」は、ドイツやオーストリアで地球温暖化防止を訴え、美術館、博物館で絵画や展示品にペンキをかけたり、ラッシュアワーの主要道路に座り込み、車の通過を妨げるなどして、注目されてきた。

 ドイツで先月24日、連邦7州15カ所で「最後の世代」関連の施設に強制捜査が入った。ドイツのメディアによると、捜査には約170人の捜査官を投入。捜査容疑は犯罪組織の結成または支援で、22歳から38歳までの計7人が容疑者として捜査対象になっているという。ドイツでは「最後の世代」はテロ組織ではないが、「組織犯罪グループ」のカテゴリーから調査が進められているという。

 このコラム欄でも一度紹介したが、オーストリア日刊紙クライネ・ツァイトゥングは今年1月22日、「最後の世代」の運動が宗教的な衝動で動かされていると喝破している。曰く「彼らは世界の終わりが差し迫っていると信じており、人々に改宗を求めている。歴史的にみて決して新しいことではない。キリスト教とそれによって形成されたヨーロッパの歴史は、世界の終わりとその預言者の歴史でもあった。『地球は燃えている』という叫びは、私たちの文化的記憶に定着している。火と硫黄に沈む様子は、「ヨハネの黙示録」のアポカリプスの世界だ。この地球上の『最後の世代』という考えは、既存の世界の終わりと新しい世界の夜明けを常に期待して生きた最初のクリスチャンの姿と重なる」と、非常に興味深い分析をしている。

 終末時には、多くの預言者が出て、「今は終末だ」、「最後の審判が下される時だ」、「悔い改めよ」などの警告の声が広がる。同時に、さまざまなフェイク情報が拡散され、神への信仰は廃れ、何が善であり、何が悪であるか分からなくなっていく。ノアの時も終末だった。イエスの時もそうだった。

 新約聖書「マルコによる福音書」第13章では、イエスは「いちじくの木から学びなさい」と述べ、時を知れと諭している。混迷する世界の政治情勢、ニヒリズムの台頭、社会の閉塞感などを目撃すると、私たちが生きている21世紀は終末の時なのかもしれない。そうであるならば、「終末」を恐れることはない。時代が提示する課題に果敢に挑戦していくだけだ。

日本でキリスト教信者が増えた!!

 日本でキリスト教信者の数が増加した。これは文化庁の宗教年鑑「2022年度年次報告書」によるものだ。データーは2021年の宗教界からの情報に基づく。統計によると、日本ではキリスト教会だけで約5万2300人の新規信者が増えている。この結果、日本でのキリスト信者数は196万7584人となる。ただし、日本のキリスト教信者数は総人口のわずか1%にも満たない。その3分の1はカトリック教徒だ。バチカン・ニュースが5月16日報じた。

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▲「国際カリタス」総裁に選出された東京大司教区の菊地功大司教(2023年5月13日、バチカン・ニュース公式サイトから)

 へえー、日本でキリスト教信者が増えたのか、という新鮮な驚きを感じた。キリスト教文化圏に属する欧州に住んでいると、毎年「教会脱会者が増加」、「牧会する聖職者もいない教区が出てきた」といった類のニュースが多いので、日本でキリスト教信者の人口増加はやはり驚きだ。日本では過去、宗教一般に対して無関心が増えていると聞いていたので、なおさら、その感が強い。

 バチカン・ニュースによると、日本のキリスト教徒の大多数はカトリック教会に属しているが、カトリック教会の信者数は増加せず、カトリック教会は2020年以来約4000人の信者を失い、現在信者は43万1100人だという。カトリック教会の信者数が減少したのは、社会の世俗化と共に、教会聖職者の未成年者への性的虐待事件の多発問題の影響があることは間違いない。キリスト信者数の増加は主にプロテスタント教会系という。

 日本では神道信者か仏教徒がメインだが、統計によるとその数も減少傾向にあるという。一方、日本は「宗教の百貨店」と呼ばれるように、多種多様の宗教が存在し、多くの国民は複数の宗教に属している(日本では、信者総数は日本の人口を上回る)。

 どうして日本でキリスト教信者人口が増えたのか、という興味深い問いには残念ながら欧州に住んでいる当方は答えられない。日本の宗教学者が答えるべきテーマだ。バチカンによれば、毎年、世界のカトリック信者数は微増だが増加している。2019年で13億4400万人だ。アジア・アフリカ諸国で信者が増えている一方、欧州では減少傾向が続く。

 欧州の代表的なカトリック教国のオーストリアではあと数年で信者数は人口の50%を下回ると予想されている。当方が40年前にオーストリアに初めて来たとき、80%以上の国民が信者だった。信者数減少の理由は、聖職者の性的スキャンダル、それに伴い教会や聖職者への信頼感が失われてきたからだ。

 ちなみに、カトリック教会の支援団体の連合体である「国際カリタス」は13日、ローマで開催している第22回総会で、東京大司教区の菊地功大司教を第13代総裁に選出した。ローマ・カトリック教会の国際組織のトップに日本人聖職者が選ばれたのは初めて。日本のカトリック教会にとって朗報だろう。

 参考までに、欧州では信者数だけではなく、修道院の数も減少してきた。例えば、ドイツの修道院の数は過去10年間で大幅に減少した。ドイツの修道院院長会議(DOK)が5月26日発表したところによると、女子修道院の数は2012年の1627件から2022年には964件に、男子修道院数は461件から385件にそれぞれ減少している。

 DOK(会長はフランシスコ会副修道士アンドレアス・ムルク)によると、修道院の居住地には、100人以上の修道女や修道者がいる大規模な修道院から、教団のメンバーが2〜3人しかいない小さなコミュニティまで、さまざまだという。

 修道院のメンバー数は2022年末現在で1万4302人で、修道女は1万0953人、修道僧は3349人だ。特に、修道女の減少は急激で、過去20年間で大幅に減少した。 2002年には、その数はまだ2万8973人だった。ドイツの修道女の約82% (8975人) は65歳以上で、それ以下の年齢層は13% (1422 人)に過ぎない 。

 修道院が過去、果たした役割は大きい。社会から隔離された修道院で瞑想しながら、神への信仰を深める一方、多くの修道僧や修道女は社会的奉仕活動、医療活動を行ってきたことは周知の事実だ。現在のローマ法王フランシスコもイエズス会出身者であり、修道院生活を送ってきた高位聖職者は多い。前法王べネディクト16世は2010年2月2日、「僧職に奉じた人生の日」への記念礼拝の中で、「修道院生活の意義はカトリック教会にとって大きい。修道僧や修道女のいない世界はそれだけ(霊的)貧困となる。彼らは教会と世界にとって価値ある贈物だ」と強調し、修道僧や修道女の献身的な職務に感謝している(「修道院・出家時代は終わった」2013年11月5日参考)

 世界的に毎年3000人以上の修道僧、修道女が修道生活から離れていくが、修道院離れの原因として「修道院システムが迅速化したインターネット時代にマッチできなくなってきたからだ」といわれる。当方は21世紀の現代、出家時代は終り、修道院制度は幕を閉じ、在家信仰、家庭教会が主流になっていくと予想している。

ペンテコステと「7000の言語」の世界

 ユダヤ系米国人の認知科学(Cognitive science)の専門家レラ・ボロディツキー氏によると、世界には約7000の言語がある。その中には口述だけで、時間の経過とともに消滅していく言語がある。各言語はその民族の歴史、文化、生活環境などと密接に繋がっているから、一つの対象、概念、感情を表現するのに数千の異なった言語が存在し、それぞれ独自の意味、概念を内包している。

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▲イタリアの画家ファン・バウティスタ・メイノの「ペンテコステ」

 ボロディツキー氏は、「言語の違いが認知能力に影響を与える。人々が根本的に違った言語で話すなら、考え方も違ってくる」と主張する。一時期、言語と思考は人類の普遍的な共有物だといわれてきたが、実際は、言語は、空間、時間、因果関係、他者との関係といった人間の経験の基本的な側面さえも形成していくことが明らかになってきた。「7000の言語」があるということは、「7000の異なった世界」があるということを意味するというのだ。

 例えば、オーストラリア北部のヨーク岬半島の西端にあるアボリジニの小さな集落ポーンプラウでは、英語やドイツ語とは異なり、そこで話されるクーク・ターヨール言語には、左や右などの相対的な空間表現(左右)はなく、 「コップは皿の南東にある」とか「マリアの南に立っている少年は私の兄弟です」と言う。ポーンプラウでは自分自身を明確に表現するには、常に羅針盤を念頭に置く必要がある。

 また、言語が異なれば、時間の表現方法も大きく異なる。 英語を母国語とする人は未来のことを考える時、無意識に体を前に傾け、過去のことを考える時に無意識に体を後ろに傾ける。アンデスで話される先住民族の言語であるアイマラ語は、過去について話す時は「前方」を意識し、未来について話す時は「後方」を意味する。なぜならば、過去は目撃し、体験したことだから「前方」に知覚できるが、未来は未体験だから知覚できないので「後方」という考えになるわけだ。

 「ハンスが花瓶を割った」といった状況を考えてみる。日本語やスペイン語では、その原因について言及することを躊躇し、「花瓶が割れた」という。スペイン語と日本語を話す人は、英語を話す人よりも事故について積極的に説明する傾向は少なく、誰が事故を引き起こしたかを覚えている可能性は低いという。また、バイリンガルの人は、現在使用している言語に応じて「世界観」が変わると証言している。好き嫌いでさえも、質問される言語によって異なるという。

 なぜ、そんなことを書くかというと、28日は「教会が始まった日」と呼ばれる聖霊降臨祭(ペンテコステ)だったこともあって、ペンテコステを記述した新約聖書の箇所を再読して改めて驚いたからだ。以下、少々理屈っぽい話だが、読んでもらえば幸いだ。

 聖霊降臨祭とはイエスの十字架、3日後の復活、40日間の歩み、昇天、その10日後に五旬節を迎える。興味深いのは聖霊が降臨すると、集まっていた弟子たちは学んだことがない国の異言を語り出し、周囲の人々を驚かせたというのだ。学んだことがないロシア語が突然、スラスラと飛び出したならば、本人はびっくりするが、周りの人も驚くだろう。そのような奇跡が2000年前、起きたのだ。新約聖書「使徒行伝」第2章に記述されている。

 ちょうど、「7000の言語」の話を聞いた直後だったので、当方はペンテコステの話を別の視点で考えることができると思った。イエスの福音を伝達するためには言語は大切だ。“ユダヤ教のセクト”と呼ばれた初期キリスト教会が中東地域、そしてローマに広がっていき、世界宗教に発展するまで多くの言語の壁をクリアしなければならなかった。宣教師の最初の仕事は任地での言語をマスターすることだ。言語、すなわち、ロゴスが全ての初めだった。

 ところで、旧約聖書の「創世記」第11章には「バベルの塔」の話が記述されている。神の戒めを破った人間たちが神のようになるため、天まで届く高い塔を建設しだした。当時は「全地は同じ発音、同じ言葉であった」という。そこで神は建設している人間たちの言葉を混乱させて、意思疎通できないようにさせた。その結果、言語が多数生まれた。現在7000余りの言語が存在するわけだ。

 「ヨハネによる福音書」によれば、神が創造した世界は全てロゴスからできるというから、現存する言語が統合されれば、神が創造したロゴスが蘇生するのではないか。具体的には、7000の言語を統合した暁には「バベルの塔」前の世界に戻り、神の世界を今以上に理解できることになる。神が創造した直後、世界を覆っていたロゴスの世界に戻ることになる。

 「私たちは知っている」というが、それは7000の言語の中の一つの言語体系、限られたロゴスから理解しているだけに過ぎない。だから、言語が混乱していなかった前のロゴスの全体像からはほど遠い。ということは、多種多様に広がった言語体系が統合されれば、混乱していたロゴスが本来の姿を現すことになる。その時、私たちはその対象を「知っている」と言えるだろう。

 ペンテコステの奇跡はイエスの福音の全体を把握するためには、言語の統合が不可欠であるということを間接的に教えているように思われる。ただ、7000の言語を全てマスターしている人間はいないから、神を知っている人は誰もいない。いずれにしても、神が創造したロゴスの原型をそのまま理解するするためには言語の統合が避けられないということになる。

 聖霊が降臨するとは、全ての言語体系の源流の本来のロゴスが現れることを意味したのではないか。だから、イエスの弟子たちはイエスの教えを理解し、迫害を恐れない強い使徒として生まれ変わっていったのだ。逆に、聖霊が降りない限り、神が分からない。無数の言語に別れたロゴスでは神の一部しか理解できないので、神の定義一つを取っても対立し、神戦争が起きる原因となる。現在の世界はそれだろう。

 ここで、少し飛躍する。心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した「集合的無意識」という概念がある。歴史、民族を越え、カインの殺人、洪水神話の話など、同じ体験談や共通の記憶が世界至る所に残されている。ひょっとしたら、本源のロゴスが「集合的無意識」となって歴史、民族を越えて人間の中に記憶されているといえるのではないか。換言すれば、「集合的無意識」が言語体系によって異なってしまったロゴスを結びつける接着剤のような役割を果たしているというわけだ。

 オーストリアはローマ・カトリック教国だ。29日の月曜日も「ペンテコステの月曜日」で祝日だった。「言語の統一」と言えば、気が遠くなるようなテーマだが、“21世紀のペンテコステ”を迎えて、言語の壁を越えて完全な相互理解が実現し、今まで隠されてきた神の世界が鮮明に分かる時が到来することを願う。

宗教は「世俗化」に打ち勝てるか

 日本では今、ゴールデンウィークの真最中だ。卓上カレンダーをみながら、「日本では有給休暇を利用すれば、10日間の連休も可能だな」と思った。3年余り続いたコロナのパンデミック明けの年だけに、多くの日本人がこの期間、海外に出かけるだろう。

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▲ブタペスト訪問最終日に記念礼拝するフランシスコ教皇(2023年4月30日、バチカンニュース公式サイトから)

 オーストリアでは日本ほどではないが、5月1日のメーデーが公休日だから、土、日、月と3連休だ。いずれにしても、通常の労働者にとって休日が多いことはうれしい。その点では日本人とオーストリア人の差はないだろう。

 さて、ゴールデンウィークにこれから書こうとしているテーマはまったく相応しくないと分かっているが、当方の場合、コラムのテーマは長い熟慮の末に生れてきたということは少なく、突然頭の中に湧いてきたケースが多い。今回もそうだ。どうかご了承を願いたい。

 テーマは、「宗教は世俗化社会で生き延びることができるか」だ。その前に、宗教と世俗化についてまとめてみた。

[篝鏤代の世俗化

 <ハードの世俗化>
 共産主義思想が生まれてきて以来、宗教は社会の隅に追い込まれていった。それだけではなく、共産主義者の為政者に恣意的に弾圧されていった。「宗教は人民をまどわすアヘン」といわれた。旧ソ連・東欧共産政権下ではキリスト者など宗教者は2等国民扱いを受けてきた。アルバニアでは1967年、エンヴェル・ホッジャ労働党政権(共産党政権)時代、世界最初の「無神論国家宣言」が発表された。ちなみに、その国では今日、若い世代を中心に宗教のリバイバル(信仰復興)が起きている「『アルバニア教』の神髄語った大統領」2021年5月4日参考)。

 中国の習近平国家主席は、「宗教者は共産党政権の指令に忠実であるべきだ」と警告している。具体的には、キリスト教、イスラム教など世界宗教に所属する信者たちには「同化政策による中国化」を進めている。典型的な政治権力による「ハードな世俗化」だ。

 <ソフトの世俗化>
 共産政権と対峙してきた欧米西側社会は民主主義国家であり、キリスト教など「宗教の自由」は保障されてきた。新興宗教の台頭といった時代もあったが、資本主義社会では次第に金銭至上主義、物質主義、享楽主義が広がり、宗教はその活力を失い、形骸化していった。同時に、科学万能主義は宗教の不可視の世界を否定し、学校では無神論主義的教育が拡大していった。共産政権時代の無神論的世界よりも深刻な唯物主義が席巻するといった現象が現れてきた。歴史を通じて勝ち取ってきた「自由」は神を信じるためではなく、神を否定する自由となっていった(「無神論者の生年月日はいつ?」2017年10月28日参考)。

▲戰優妊クト16世の「非世俗化」

 近世のローマ教皇の中でも最高峰の神学者でもあったベネディクト16世は2011年、「若者たちの間にニヒリズムが広がっている」と指摘してきた。欧州社会では無神論と有神論の世界観の対立、不可知論の台頭の時代は過ぎ、全てに価値を見いだせないニヒリズムが若者たちを捉えていくという警鐘だ。そのベネディクト16世は同年、フライブルクを訪れたとき、「教会を非世俗的にすべきだ」と呼びかけて、激しい議論を引き起こしたことがあった。

 人は価値ある目標、言動を追及する。価値があると判断すれば、少々の困難も乗り越えても行こうとする意欲、闘争心が湧いてくるものだ。逆に、価値がないと分かれば、それに挑戦する力が湧いてこない、無気力状態に陥る。同16世によると、「今後、如何なる言動、目標、思想にも価値を感じなくなった無気力な若者たちが生まれてくる」という。この傾向は人口大国の中国の若者たちの間で既に低欲望主義、躺平主義(寝そべり族)という傾向で目撃される。ベネディクト16世にとって、ニヒリズムへの処方箋は精神的世界の支柱というべき「教会の非世俗化」にあるというのだ。

フランシスコ教皇の「脱世俗化」

 ブタペストを訪問したフランシスコ教皇は4月28日、カトリック教会の代表者の前で説教し、「たとえそれがキリスト教の精神によって明確に形作られているようには見えず、多くのことに挑戦的または疑問を投げかけているように見えても、実際に神の存在のしるしを認識することを学ぶことだ。同時に、福音に照らしてすべてを解釈し、世俗化するのではなく、キリスト教の預言の先駆者および証人として解釈することだ」と述べている。バチカンニュースはフランシスコ教皇の上記の発言内容を「脱世俗化」と呼び、フランシスコ教皇のキーワードと指摘している。

 少し、説明する。フランシスコ教皇は「預言的な開放性」をもって現行の世俗的な社会の現象を解釈していく「脱世俗化の道」を提示する一方、ベネディクト16世の「非世俗化」は、世俗化社会に対して、閉鎖的、防御的な姿勢が濃い。同16世の非世俗化は「教会の修道院化」の再現となる一方、フランシスコ教皇の脱世俗化は、世俗化を克服・止揚できなければ、教会の崩壊を早める危険性が排除できない。聖職者の未成年者への性的虐待事件の発覚はその懸念を裏付けている。

 「宗教と世俗化」問題について考えるうえで、チェコの著名な宗教社会学者であり神父のトマーシュ・ハリーク氏の考え方は非常に啓蒙的だ。同氏は、「世俗化は宗教を破壊こそしなかったが、変質させていった。今日の教会の主な競争相手は世俗的ヒューマニズムではなく、教会から解放された新しい形の宗教と精神性だ。教会が根本的に多元的な世界でその位置を見つけることは難しい」と語っている(「ハリーク氏『教会は深刻な病気だ』」2022年1月24日参考)。

 宗教の世界と俗世界を「聖「と「俗」に分けて考えること自体、不適切かもしれない。俗の社会にも「聖性」があり、「聖」の社会にも「俗性」があるからだ。宗教は、組織、機関という枠組みから解放すれば、「聖」と「俗」の間で葛藤する宗教性を有する人間だけが残る。宗教の原点はその人間にあるはずだ。
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