ウィーン発 『コンフィデンシャル』

 ウィーンに居住する筆者が国連記者室から、ウィーンの街角から、国際政治にはじまって宗教、民族、日常の出来事までを思いつくままに書き送ります。

キリスト教

21世紀の悪魔祓い(エクソシズム)

 このコラム欄でバチカン教皇庁が超自然現象に関する新しい規範を発表したと報告したが、バチカンは単に聖母マリアの再臨現象だけではなく、悪魔祓い(エクソシズム)についても今月、「21世紀での悪魔祓い」をテーマに専門家を招いて会合を開くなど、いわゆる霊的な現象に対して積極的に取り組みだしている(「バチカン『超自然現象に関する新規範』」(2024年5月19日参考)。

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▲ローマ・カトリック教会で最も有名なエクソシスト、アモルト神父(「アモルト神父の伝記の表紙」)

 ローマ教皇庁で今月、レジオン・オブ・クライスト修道会の聖母女王聖堂で「エクソシズムと解放祈祷の講座」第18回の専門家会合が開かれた。悪魔に憑依される現象が増加する一方、それは悪魔によるものか、精神的病かを識別することがこれまで以上に急務となってきたからだ。

 神の存在有無について神学・哲学界で激しい論議が起きてきたが、「悪魔」の存在有無についてはなぜか特定の関係者以外、 ほとんど議論がなかった。悪魔にとってこれほど快い状況はないわけだ(「悪魔(サタン)の存在」2006年10月31日参考)。

 聖書には「悪魔」という言葉が約300回、登場する。有名な個所としては、「悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた」(「ヨハネによる福音書」13章2節)、十字架に行く決意をしたイエスを説得するペテロに対し、イエスは「サタンよ、引きさがれ」(「マルコによる福音書」8章33節)と激怒した聖句がある。

 悪魔の存在とその実相について、第4ラテラン公会議(1213〜1215年)では、「悪魔とその群れは本来、神によって善の存在として創造されたが、自から悪になった。神は人間と同じように天使にも自由を与えた。神を知り、愛し、奉仕するか、神から離れていくかの選択の自由を与えられた」と記述されている。

 新約聖書の預言書「ヨハネの黙示録」によれば、「終わりの日に、霊界の戸が開き、無数の霊人がこの地上界に降りてくる」という。終わりの日、封印されていた戸が開き、多くの悪魔が地上に降りてきて、世界はハルマゲドン状況になるというのだ。

 新しいミレニアム(新千年紀)が到来して以来、実際、悪魔に憑かれた信者たちが増えてきている。エクソシスト派遣を要請する声が以前の3倍以上増えてきたという報告もある。その一方、それが「悪魔」によるものか、精神的病かについて、その識別が益々難しくなってきている。それゆえに、バチカンは「霊現象と医学的現象の区別を明確に識別しなければならない」と警告を発してきたわけだ。

 精神的疾患を霊に憑かれたと誤解し、殴打して殺すという悲惨な事件が過去、生じた。逆に、悪魔に憑かれている人が精神的疾患と受け取られ、薬漬けになるケースがある。早まった判断は、苦しむ人だけでなく、エクソシストにも損害を与える。エクソシストは、悪霊の影響下にあるかどうかを確実に知ることができない場合、精神科医の意見が必要となる。精神障害のある人にエクソシズムを行うと、彼らの状況を悪化させる危険性が出てくる。だから、専門の教育を受けたエクソシストを養成しなければならないというわけだ(「バチカンのエクソシスト養成講座」2018年4月11日参考)。

 ローマ・カトリック教会で最もよく知られたエクソシスト、ガブリエレ・アモルト神父は1994年、「国際エクソシスト協会」(AIE)を創設し、2000年までその責任者を務めた。バチカン法王庁聖職者省は2014年7月3日、AIEをカトリック団体として公認している。AIEには公認当時、30カ国から約250人のエクソシストが所属していた。ちなみに、ローマ・カトリック教会で過去、有名なエクソシストとしては、アモルト神父の他に、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世、べネディクト16世から破門宣告を受けたザンビア出身のエマニュエル・ミリンゴ大司教らがいた(「『悪魔』と戦ったエクソシストの『死』」2016年9月20日参考)。

 バチカン教皇庁は1999年に、1614年のエクソシズムの儀式を修正し、新エクソシズム儀式を公表した。それによると、^絣悗篆翰学の知識を除外してはならない、⊃者が霊に憑かれているのか、通常の病気かを慎重にチェックする、H詭を厳守する、ざ偽荵紛気竜可を得る―など、エクソシズムの条件が列記されている。 

 悪魔払いの儀式では、\賛紊乃祷する、⊃世叛士遒竜澆い魎蠅ο祷をする、エクソシストが患者に手を差し伸べ、神の力で悪霊を解放する前に福音の1節を読む、ぅ汽織鵑魑馮櫃垢訖仰告白ないしは洗礼宣誓をする、グ魔払い文を唱える前に、十字架を患者の上に置き祝福する、Υ脅佞竜祷をする、となっている。

 悪魔の存在については、外部の世界だけではなく、教会内や神学界でも意見が分かれている。旧約聖書の研究者ヘルベルト・ハーク教授は「サタンの存在は証明も否定もされていない。その存在は科学的認識外にある」と主張、悪魔の存在を前提とするエクソシズムには慎重な立場を取っている、といった具合だ。

 なお、フランシスコ教皇はカトリック信者に対し、「悪魔との如何なるコンタクトも避けるべきだ。サタンと会話を交わすべきではない。彼は非常に知性的であり、レトリックに長け、卓越した存在だ。サタンは具体的な悪行のために暗躍する。漠然とした事象のために存在するのではない。人間は悪魔と話すべきではない。彼に負けてしまうからだ。彼はわれわれ以上に知性的な存在だ。彼はあなたを豹変させ、あなたを狂わせるだろう。悪魔にも名前があり、私たちの中に入ってくる。彼はあたかも育ちのいい人間のような振る舞いをする。あなたが“彼が何者であるか”に早く気が付かないと、悪業をするだろう。サタンは神父も司教たちをも巧みに騙す。もし早く気がつかないと、悪い結果をもたらす」と説明している(「ローマ法王『悪魔は君より頭がいい』」2017年12月15日参考)。

バラの美しさは「神の善意」の表れ?

 当方は英国作家コナン・ドイル作の名探偵シャーロック・ホームズと同じく英国の推理作家アガサ・クリスティの名探偵小説の主人公エルキュール・ポワロのファンだが、ホームズのファンの読者から先日コメントを頂いた。ひょっとしたら、熱烈なホームズ・ファンかもしれない。嬉しくなった。

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▲当方の部屋の窓に挨拶に来た若いハト(2024年4月10日、ウィーンで)

 そこで当方が忘れることができないホームズの名言をここで一つ紹介したい。シャーロック・ホームズは「海軍条約文書」の事件の中で、「バラはなんと美しいのか」と驚嘆し、神の創造を賛美する場面がある。ホームズは「この花から神を感じることができるのではないか、力、欲望、食糧は人間が生きていく上で不可欠だが、花はそうではない。にもかかわらず、神はこのバラを美しく装っている。この余分なものこそが神の善意なのだ。この花の存在からわれわれは希望を見出すことができる」と語るのだ。ホームズから突然、宗教者の説教のような話を聞いたワトソンや周囲にいた者たちは驚くが、当方はホームズの話に感動した。

 宇宙・森羅万象は神の手による創造だが、神は創造の最後に自身の似姿でアダムとエバを創造したという。旧約聖書の創世記によると、神はアダムのあばら骨からエバを創造したと書かれているが、最新の聖書解釈によると、神はアダムを粘土のような塊から創造したが、エバはアダムのあばら骨からではなく、脊髄付近から取ったものから精密な設計図に基づいて構築された。要するに、神はアダムを創造する以上に多くの時間と緻密な計画に基づいてエバを創ったというのだ。エバ誕生の名誉回復だ。

 これはジェンダーフリー運動の圧力に屈した結果ではなく、ヘブライ語の言語学的な解釈というのだ。創世記の人類創造の話は2つの資料が重複的に記述されている。聖書学者の中には「神は最初の創造がうまくいかなかったので、もう一度最初から創造の業を始めた。その結果、創世記には同じような話が重複して記述されることになったというのだ。もう少し詳細に説明すると、エバの創造で何らかの不祥事が生じたために、神は創造を再度、初めから始めたというのだ。なお、ヘブライ語によると、宇宙創造を開始した神は複数形だ。すなわち、「神たちは・・」ということになる。神と創造の御業を助けた天使たちを含めて、複数形として書かれたという解釈が一般的だ。

 ホームズの「神の善意」という表現に戻る。神が人間を自身の似姿に創造したということは、神と人間は親子関係ということになる。親は自分の子供を最高の環境で成長させたいと考えるだろう。だから神はバラ一つにも最高の美を備えた存在に創造したはずだ。だから、ホームズは「この花から希望を見出すことができる」と受け取ったのだろう。事実と論理に基づいて事件を解明するホームズは一流の神学者でもあるわけだ。

 ところで、19世紀末に活躍した名探偵ホームズの信仰告白から神について云々したとしても、21世紀に生きる私たちの心に響くだろうか、という一抹の懸念が出てくる。ウクライナではロシア軍との戦争が続き、多数の兵士、民間人が犠牲となっている。パレスチナではイスラエル軍とテロ組織「ハマス」との戦闘が続いている。中国武漢から発生した新型コロナウイルスの大感染で数百万人が死去した。そのような時代に、「神の善意」といえば反発されるだけかもしれない。「神の善意」ではなく、「われわれが苦しんでいる時、あなたはどこにいたのか」「なぜ、親なら子供を苦痛から救わないのか」といった不満の声のほうが現実的なテーマではないか、といった声だ。600万人の同胞をナチス・ドイツ軍によって虐殺されたユダヤ民族ではアウシュヴィッツ以後、神を見失ったユダヤ教徒が少なくなかったといわれている(「アウシュヴィッツ以後の『神』」2016年7月20日参考)。

 バラの花から「神の善意」をくみ取り、希望を感じるより、戦争や疫病から「神の沈黙」「神の不在」を感じ、憤りが飛び出す時代に生きている。神を見失ったとしても不思議ではないかもしれない。にもかかわらず、というべきか、それゆえに「神の善意」を感じる心を失いたくないものだ。これこそ19世紀末の名探偵ホームズの21世紀の私たちへの熱いメッセージではないか。

バチカンの「人権」と国連人権宣言

 「権利」の対義語、反対語は何か、と聞かれれば、「義務」という言葉が出てくるが、それでは「人権」の反対語は何かと聞かれれば、直ぐには飛び出さない。キリスト教の神を信じる人ならば、それは「神権だ」という余り聞きなれない言葉が飛び出すかもしれない。

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▲回勅「パーチェム・イン・テリス」の起草者ヨハネ23世(バチカンニュース2024年4月8日から)

 キリスト教会、特に世界に14億人近くの信者を有するローマ・カトリック教会は過去、「人権」は神の秩序、規律とは相反するものと受け取られてきた面がある。もう少し厳密にいえば、カトリック教会はこの世界の「人権」と対立、時には脅威と受け取ってきた歴史があるからだ。

 バチカン教皇庁は8日、新しい人権に関する声明「Dignitas infinita」(無限の尊厳)を発表した。バチカンニュースは同日、「長い歴史、バチカンと人権」という見出しの記事を掲載している。その最初の書き出しで「『Dignitas infinita』は、明白に1948年の国連の『人権の普遍的宣言』を支持している。驚くことかもしれないが、教会は常に人権についてそうではなかった。これは主に、フランス革命(1789年)以降の人権の旗を掲げた運動が、当時の教会にとって脅威と受け取られてきたためだ。ピウス6世(在位1775年〜99年)は当時、パリ国民議会が掲げた人権宣言に抗議し、その有名な前提『自由・平等・友愛』に反対していた」と、正直に告白している。

 神の愛を説くキリスト教会がパリの人権宣言に反対していたということは不思議に感じるかもしれないが、人間の基本的権利より、神の教理、教えを重視する教会にとって、人権は時には障害となることがあるからだ。教会にとって過去、「神権」は常に「人権」より上位に置かれてきたのだ。

 ただし、バチカンの歴史の中には、フランス革命や国連人権宣言の前、パウルス3世(在位1534年〜49年)は1537年、「Pastorale officium」という使徒書簡で、アメリカ先住民の奴隷化を禁止し、それを破った者は破門すると警告している。同3世は「先住民は自由や財産の管理ができる理性を持つ存在であり、したがって信仰と救いに値する」と述べている。少数民族の人権、権利を認めていたわけだ。

 時代が進むのにつれて、人権に対する教会のスタンスも変わっていった。レオ13世(在位1878年〜1903年)は1885年の教令で「新しい、抑制されない自由の教義」を非難したが、1891年に社会教令を起草し、人権思想を受け入れる道を開いたことで知られている。

 教会の人権問題でマイルストーンとなったのは、第2バチカン公会議の「Dignitatis humanae」(1965年)だ。それに先立ち、ヨハネ23世(在位1958年〜63年)は1963年、有名な平和教令「Pacem in terris」(地上の平和)を発表した。冷戦時代、ソ連・東欧共産政権下で多くの国民が粛清され、キリスト信者の信仰の自由が蹂躙されていた。「パーチェム・イン・テリス」は地上の真の世界平和の樹立を訴えたもので、世界の平和は正義、真理、愛、自由に基づくべきものと謳っていた。教会の「人権への取り組みへの決定的な一歩を踏み出した」と受け取られた。

 ちなみに、冷戦時代、聖職者の平和運動「パーチェム・イン・テリス」はソ連・東欧共産党政権に悪用された。共産諸国は宗教界の和平運動を利用し、偽装のデタント政策を進めていったことはまだ記憶に新しい。興味深い点は、共産政権は「宗教はアヘン」として弾圧する一方、その宗教を利用して国民を懐柔していったことだ。教会は「地上の平和」をアピールすることで、「労働者の天国」を標榜する共産主義国に利用される結果ともなったわけだ。

 バチカンはナチス・ドイツが台頭した時、ナチス政権の正体を見誤ったが、ウラジミール・レーニンが主導したロシア革命(1917年)が起きた時、その無神論的世界観にもかかわらず、バチカンでは共感する声が聞かれた。聖職者の中にはロシア革命に“神の手”を感じ、それを支援するという動きも見られた。バチカンはレーニンのロシア革命を一時的とはいえ「神の地上天国建設」の槌音と受け止めたのだ(「バチカンが共産主義に甘い理由」2020年10月3日参考)。

 バチカンが今回発表した「Dignitas infinita」(25頁)では、カトリック教会の観点から個人の尊厳を侵害する長期にわたる一連の行為を挙げている。貧困、搾取、死刑、戦争、環境破壊に始まり、移民の苦しみや人身売買、さらには性的虐待など、特に教会自体の問題としても取り上げられる一方、代理出産、中絶、安楽死などの問題では断固として拒否、ジェンダー理論を通じて生物学的性別の否定には反対の立場を取っている。バチカンはこれまで複数の国連人権条約に署名してきたが、中絶やLGBTQ問題については「人権の印を押し付けようとする試み」として警戒している。

 なお、バチカンニュースは最後に、「カトリック教会が人権の理論的基礎を完全に受け入れることは決してできないだろう」と述べている。

「統一神学」についても議論すべきだ

 日本のメディアの反統一教会報道をフォローしていて不思議に感じる点がある。現在、「世界平和統一家庭連合」という呼称になっているが、創設当初は「世界基督教統一神霊協会」という名の列記としたキリスト教の教えを土台とした宗教団体だった。彼らの聖典は「原理講論」と呼ばれ、その内容は聖書の新・旧約聖書66巻を土台としている。

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▲記者会見する世界平和統一家庭連合の田中富広会長(2022年8月10日、日本外国特派員協会ライブ配信より)

 日本のメディアは旧統一教会の組織としての民法上の問題点を挙げて批判しているが、ローマ・カトリック教会など既成のキリスト教会の動向をフォローしている当方の目には、残念ながら世界の宗教団体は程度の差こそあれ高額献金問題、不正財政問題を抱えていると言わざるるを得ないのだ。旧統一教会だけ特出している現象ではない(「バチカン、信者献金を不動産投資に」2019年12月1日参考)。

 世界最大のキリスト教宗派、ローマ・カトリック教会は献金問題だけではなく、聖職者の未成年者への性的虐待問題という厄介な問題を抱え、その解決策に腐心している。献金問題とは違い、刑罰に関連する犯罪行為だ。岸田政権のように献金問題を解散命令の要件に入れて、宗教団体に解散命令を請求するならば、日本のほぼ全ての宗教団体は遅かれ早かれ解散に追い込まれるだろう(「『お金』に潜む宗教性について」2015年5月26日参考)、「なぜ人は『献金』するか」2022年9月19日参考)。

 問題は旧統一教会の核というべき「統一神学」について、旧統一教会を批判するメディアが「その教えは間違っている」と指摘することが皆無なことだ。はっきりいえば、メディアは旧統一教会に反社会的グループというレッテルを貼るが、肝心の旧統一教会の神学について、どこが反社会的かについては何も言及していないのだ。その教えの問題点を追求し、「それ故に、教会は解散しなければならない」という主張ならば一定の論理はあるが、日本の旧統一教会批判にはそれが欠けている。メディア関係者の怠慢か、それとも恣意的な情報操作というべきだろうか。

 当方は30年前以上、バチカン教皇庁の超教派問題を取り扱う書記官と会見したことがあった。同書記官は、「統一教会がキリスト教という名称を削除するならば、バチカンは統一教会とも超教派対話を行う用意がある」と述べた。要するに、統一教会が世界キリスト教統一・・という看板を下ろすならば、対話する考えがあるというわけだ。

 旧統一教会はキリスト教の世界観、歴史観を有する新興宗教団体だ。その神学の世界は既成のキリスト教の教義とは明らかに整合しない内容がある。それゆえに、旧統一教会は創設以来、既成のキリスト教会からセクト呼ばわりされ、迫害されてきた経緯がある。

 旧統一教会を批判する以上、その「統一神学」の問題点を指摘してから入るのが当然のプロセスではないか。日本のメディアの旧統一教会批判にはそのもっとも重要な点が抜けて落ちているのだ。献金問題だけに集中して批判を展開させてきた。「金の話」は誰でも理解できるというメリットはある一方、宗教団体の基本となっている教えについてはあえて無視してきた。日本の旧統一教会批判ではこれまでその教え「統一神学」が批判の遡上にあがったことはなく、枝葉末節な問題点をかき集めて解散命令を請求している、といった印象を受けざるを得ないのだ。

 このコラム欄で統一神学の全容を紹介することは難しいが、旧統一教会の「原理講論」は創造原理、堕落論、復帰原理の3本の柱から構成されている。創造原理は別にして、堕落論、復帰原理は既成のキリスト教会の教えとはかなり異なっている。それが理由で、既成のキリスト教会は旧統一教会をセクトとして批判してきた。日本のキリスト教会が共産党など左派活動家と連携しながら、統一教会バッシングに腐心してきたのは、献金問題が理由ではなく、統一教会が主張する救済論、歴史観への敵意があるからだ。

 例えば、イエスの十字架と復活こそ人類の救済だという既成のキリスト教会の十字架救済論に対し、「統一神学」は疑問を呈している。イエスの生涯、洗礼ヨハネの言動などを挙げ、「統一神学」はイエスの十字架を神のプランBと受け取っているのだ。そんな教えを聞くならば、キリスト信者は驚くだろうし、異端の教えとして排斥するのはある意味で当然かもしれない。旧統一教会が既成のキリスト教会から受け入れられたいのであれば、そんな主張を撤回すればいいわけだが、「統一神学」の核でもあるので、それは出来ない。旧統一教会は単に共産党など左派から批判を受けるだけではなく、キリスト教の宗教団体からも批判を受ける羽目となったわけだ。

 通常の読者にとっては、既成キリスト教会と旧統一教会の神学的な相違問題といっても余り関心がないだろう。ただし、旧統一教会を批判する以上、肝心の教えに対しても追及し、その間違いを指摘できてこそ及第点を取れる。高額献金はよくないから教会は解散すべきだというレベルの論点では、全ての宗教団体ばかりか、支持者から献金(パーティ券)を受け取っている政治団体、機関も追及され、解散命令を受ける運命が出てくる。実際、自民党の安倍派への批判はその表れだろう。

 旧統一教会の高額献金批判から始まり、自民党のパーティ券問題へと拡散、遅かれ早かれ宗教団体を支援組織とする公明党の資金問題まで広がっていくだろう。「宗教はアヘン」と見なす左派唯物論者にとって願ってもない流れとなってきたわけだ(「なぜ宗教団体は立ち上がらないのか」2022年11月14日参考)。

 旧統一教会としては、訴えたいことは何か、どのようにして人類を救済したいのか、その教えの核を一般の人々にも理解できるように啓蒙すべきだろう。献金問題のやり取りだけに終始している日本の旧統一教会批判は興味本位だけの週刊誌的レベルに留まり、真摯な批判となっていないのだ。反統一教会の論客はまず「統一神学」が何を主張しているのかぐらい理解してから口を開くべきだろう。

歴史は「受難」を通じて発展してきた

 「歴史には数理性があって、一定の数理性(例、21、40)に基づき、次元こそ異なるが、同じような出来事、事例を繰り返しながら展開している」といった歴史観がある。近代に入ると、カール・マルクスは「下部構造が上部構造を覆す(革命)ことで労働者の天国が生まれてくる」といった共産主義の史的唯物論の歴史観が生まれてきた。

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▲ウィーンの夕焼け風景(2024年1月1日、撮影)

 興味深い歴史観としては、「歴史は受難を通じて発展してきた」という「受難思想」がある。激動の年と予測される2024年が幕開けしたことを受け、ここでは「受難が歴史発展の原動力となってきた」という受難思想を少し考えたい。

 受難とは試練や困窮に直面している状況だ。個人から家族、民族、国家、そして世界まで過去、人類はさまざまな受難と対峙しながら生きてきた。受難を経験していない個人、家族、民族、国家は存在しないだろう。ただ、その受難をどのように克服していくかで、その後の展開は異なってくる。受難に押しつぶされてしまう場合もあるだろう。自己憐憫に陥って這い上がれなくなる人も出てくる。犠牲者メンタリティーは受難を昇華できずに、自己形成で刻印されていく場合だ。

 例を挙げて考える。世界のディアスポラ・イスラエルの歴史は受難の歴史でもあった。ヤコブから始まるイスラエルの歴史は異教の神によって支配され、400年の間エジプトのパロのもとに奴隷の苦難の日々を送ってきた。そのイスラエルにモーセは現れ、60万人のイスラエル人を率いて神の約束の地カナンを目指してエジプトから出国していく話は旧約聖書の「出エジプト記」に詳細に記述されている。

 イスラエルの歴史では、「苦難の状況から脱出し、神の約束の地を目指す」というのがメインストリームだ。ところが、考古学者はモーセが60万人の民を率いてカナンを目指したという旧約聖書の話を実証する考古学的な痕跡を探してきたが、モーセの墓ばかりか、そのカナンへのルートでの痕跡すら見出すことが出来ないでいる。そのことから、「モーセの出エジプト」の話はイスラエル人の作り話で、実際はイスラエル人は元々カナンに住んでいた民族だった。“神の選民”を強調するため「エジプト400年」の苦役の話をわざわざ付け加えて「出エジプト」の話が生まれてきたのではないか、と指摘する学者がいる。

 換言すれば、イスラエルでは受難が民族の発展の原動力となっている。「受難を通過せずしては、神の選民とはなり得ない」という考えがその根底にあるのではないか。

 それではなぜ受難が歴史発展のうえで不可欠と考えるのだろうか。その答えは聖書の世界から見出すことが出来る。神は自身の似姿でアダムとエバを創造し、その創造した世界を彼らに継承させようとしたが、「失楽園」の話でも記述されているように、悪魔の暗躍で神の創造計画は実現できずにきた。そこで神はそれを取り戻すために救済の摂理を歴史を通じて展開させてきた。

 神が実行したその救済方法は万軍を派遣して悪魔を打ち倒すのではなく、自身の息子イエスを使わし、イエスを十字架に掛けることを通じて、人類救済の道を切り開いていったわけだ。ここに「受難」に対するキリスト教的意義が明らかになるわけだ。

 そしてイエスを信じるキリスト教徒たちは同じように多くの迫害、受難を受けながらその教えを広げていった。世界的に迫害を受けてきたキリスト教が世界宗教に発展したのはズバリ、受難だったわけだ。

 参考までに、ここまでくると、「なぜ神は愛する息子、娘を一挙に救済しないのか」という、キリスト者ならば一度は考えた疑問が生まれてくる。神は無能か、それとも人間の苦悩に関心がないのか、等々、多くの疑問が生まれる。明確な点は、神がその全知全能を駆使して苦しむ人類を一挙に救済できるならば、受難は考えられないことだ。

 聖書の世界では神は奪われたものを打ち返して取り返すのではなく、打たせてから取り戻すという原則に基づいて救いの摂理を展開していることが理解できる。受難思想はその意味で神の摂理の原則と一致するわけだ。

 イエスは罪なき状態で生まれてきた。そのイエスが33歳の若さで十字架上で殺害された。イエスの「死」は罪の結果ではなく、「受難」による「死」だ。キリスト教では、原罪ゆえに制裁下にある人類がイエスの十字架上の犠牲によって救いの道が開かれた、と教えている。

 受難が発展の原動力としても、受難にどのように対応して克服していくかが問題となる。先述したように、自己憐憫、犠牲者メンタリティに陥る事もあるが、受難をその後の発展にチャンスとして生かすのは関係者、民族、国家の責任領域に入る。受難は即、その後の発展を保障するものではないからだ。

 繰り返すが、人類の歴史は史的唯物論が主張するように戦争や闘争で発展してきたのではなく、「受難」を原動力として前進してきたことが明らかになれば、困窮下や病苦の中で生きている人々にとって、大きな慰めとなるメッセージだ(「歴史発展の原動力としての『受難』」2019年4月22日参考)。

 なお、このコラムを書き終えた時、日本から羽田空港での日本航空の炎上報告と画像が届いた。1日は能登半島地震が発生したばかりだ。年初めに天災、人災が重なって襲ってきたわけだ。犠牲者には哀悼の意を捧げると共に、日本の国民が困難に負けず、問題解決のために全力を投入されることを願う。

ガザ地区のキリスト教徒「存続の危機」

 イスラエルの首都エルサレムはユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教の聖地だ。アブラハムを「信仰の祖」とする3大唯一神教は過去、エルサレムの帰属権で争ってきた。そして現在、イスラエルとパレスチナ自治区ガザを実効支配するイスラム過激テロ組織ハマスとの間で1週間の戦闘休止を挟んでガザ紛争が続いている。宗教的な立場からいえば、ハマスがイスラム教をその精神的バックボーンとするグループか否かは別にして、ユダヤ教のイスラエルとイスラム教を掲げるハマスの間の戦いだ。特に、ハマスはユダヤ民族の撲滅をその最終目標に掲げているテロ組織だ。

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▲「アブラハムファミリーハウス」のオープニング式典(2023年2月19日、バチカンニュース公式サイトから)

 ここにきて、ベツレヘムをイエスの生誕地とするキリスト教はどうしたのか、といった問いかけが聞こえてくる。換言すれば、ユダヤ教とイスラム教は互いに戦闘し、その存在感をアピールしているが、ユダヤ教を母体として誕生したキリスト教の存在感が見られないのだ。

 中東専門家のスティーブン・ヘフナー氏(Steven Hofner)は3日、ポータルkatholisch.deに寄稿した記事の中で、「聖地のキリスト教徒に対する脅威が増大している。イエス生誕の地にキリスト教徒が存在することは歴史的な現実だが、将来にわたって保証されるものでは決してない」と警告を発している。同氏はヨルダン川西岸のラマラにある「コンラッド・アデナウアー財団」の責任者だ。

 イスラム教が席巻する中東では少数宗派のキリスト教への迫害は今に始まったわけではない。中東ではイスラム根本主義勢力、国際テロリスト、そしてトルコ系過激愛国主義者によるキリスト教徒への迫害が拡大している。例えば、イラクでは戦争前までいた約120万人のキリスト系住民の半数以上が亡命していった。カルデア典礼カトリック教会バグダッド教区関係者は、「信者の亡命は現在でも続いている。このままいくと、キリスト教会自体が存続できなくなる」といった懸念を抱いているほどだ。

 エジプトではコプト典礼カトリック信者がさまざまな弾圧を受けてきた。エジプトではイスラム教徒が主流だが、コプト系キリスト教徒も人口の約1割いる。イスラム教徒とコプト系教徒間の衝突が絶えない。

 イラク出身の友人は、「中東ではキリスト者はハイ・ソサエティに属する者が多かった。イラクのフセイン政権時代のタレク・アジズ副首相もカルデア典礼のカトリック信者だったし、シリアのバース党創設者ミシェル・アフラク氏はギリシャ正教徒だった。キリスト教会は独自の教育システムを構築して信者たちに高等教育を施した。イスラム教は子弟の教育体制では遅れを取った。しかし、イラク戦争後、状況は変わってきた。中東では少数宗派のキリスト教徒も攻撃対象となってきた」と説明していたことを思い出す(「中東で迫害されるキリスト教徒」2006年10月31日参考)。
https://wien2006.livedoor.blog/archives/50346639.html
 ヘフナー氏は、「ガザ戦争の影響で長年にわたって不安定だったキリスト教徒の状況はさらに悪化している。彼らは現在、2つの潜在的な危険に直面している。国家宗教的なユダヤ人過激派の脅威にさらされる一方、ヨルダン川西岸とガザ地区でイスラム化が進んでいる」と指摘。

 ガザ地区では約1000人のキリスト教徒が閉じ込められ、爆弾攻撃にさらされている。ヨルダン川西岸と東エルサレムでは、イスラエル占領により移動の自由が制限されている。東エルサレムのキリスト教徒パレスチナ人とヨルダン川西岸のキリスト教徒パレスチナ人のクリスマスの家族再会は、特別な許可がなければ不可能だ」と批判する。

 キリスト教徒に対する差別の増大により、その地域からの移民が加速し、その結果、地元コミュニティは弱体化してきた。パレスチナ自治区ではキリスト教徒は約47000人で、人口の1%未満にすぎない。

 ヘフナー氏は、「キリスト教徒人口の割合は減少しているが、パレスチナ自治区の社会的、経済的生活の改善には貢献している。キリスト教徒組織はヨルダン川西岸で3番目に大きな雇用主だ」と強調し、パレスチナ人もキリスト教の社会制度から恩恵を受けているという。「聖地におけるキリスト教徒の人道的・開発的重要な役割は、この地域の理解、安定、緊張緩和にとって不可欠な基礎である」と説明する。
(ヘフナー氏の発言はバチカンニュース12月3日の記事から引用)

 “アブラハム3兄弟”(ユダヤ教徒=長男、キリスト教徒=次男、イスラム教徒=3男)が共存できる時は訪れるだろうか。3兄弟が和解し、団結できれば、世界は平和へと前進できるだろう。その意味で、3兄弟が密集する中東地域は世界の平和実現へのモデルケースともなり得るわけだ。

「宗教(団体)と宗教心は別だ」

 当方はこのコラム欄でロシアの「プーチン大統領と『ロシア国民』は別」(2022年10月8日)と主張し、同じように、「『中国共産党と『中国』は全く別だ!」(2018年9月9日)と書いたし、最近では「『ハマス』と『パレスチア人』は違う」(2023年10月11日)と書いてきた。要するに、国家、機関、グループと個々の国民、人間は別々の存在であり、両者が常に統合して一体化しているわけではないということを訴えてきた。もちろん、両者が統合し、調和している状況も考えられるが、非常に稀なことで、多くは分裂し、特には対立しているケースが多いのだ。

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▲ウィーン市16区の夕景(2023年11月5日、撮影)

 この「・・は別だ」に新たな例を加えたい。宗教組織(団体、教派)と個々の信者の宗教心は別だということだ。ドイツ国民の80%が宗教に無関心という調査結果をこのコラム欄でも紹介したが、それではドイツ国民は教会には関心がなく、非常に世俗的で資本主義的消費社会にどっぷりとつかっているか、というとそうとは言えない。ドイツは宗教改革の発祥地でもある。クリスマスには家族が集まって共に祝う国民だ。ただ、自身が所属する教区の教会には関心は薄く、年に数回しかミサには参加しない平信徒が多い。聖職者の未成年者への性的虐待問題がメディアに報じられるたびに、益々教会への足が遠ざかる、というのが現状ではないか。

 教会から足が遠ざかり日曜礼拝にもいかなくなった信者は世俗化したのか、というとそうとはいえない。ただ、自身が願う教会の姿ではないので、教会から離れていくだけで、その宗教心は変わらないばかりか、燃え上がっているケースもある。そこで「宗教(団体)と宗教心は別だ」ということになるわけだ。

 日本では世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題が契機となって「宗教2世」という表現がメディアで報じられ出したが、宗教は本来、世襲的なものではない。各自が人生の目的、何のために生きているか等々の疑問を模索していく中で、納得する宗教に出会う。ただ、親が特定の宗教に所属していたならば、その子供たちが自然に親の宗教を継承していくケースは十分に考えられることだ。

 もちろん、「宗教2世」も成長していく中で、新たな人生の目的を見出し、親の信仰から離れていくケースも見られる。その場合でも、親の宗教(団体)というより、親の宗教心(信仰姿勢)が決定的な影響を与えるのではないか。

 人類の歴史で数多くの宗教が生まれ、また消滅していったが、「世界宗教」と呼ばれるキリスト教やイスラム教は創設者の教えを世界に広げていった。ただ、キリスト教でも300以上のグループに分かれていったように、宗教(団体、教会、寺院)も時代の流れの中で変遷していった。そのようなプロセスの中でも人間が生来有する宗教心は続いてきたわけだ。極端にいえば、教会が消滅したとしても、人間が持つ宗教心は消滅することなく続いているのだ。

 人間の持つ宗教心を根絶しようとして唯物主義的共産主義が誕生し、「宗教はアヘン」として国民から宗教を撲滅しようとした歴史があった。その結果、宗教団体、組織は一部、解体され、消滅しても、国民の宗教心までは抹殺できなかったことは歴史が端的に示してきた。

 例を挙げる。アルバニアはバルカン半島の南西部に位置し、人口300万人弱の小国だ。冷戦時代、同国のエンヴェル・ホッジャ労働党政権(共産党政権)は1967年、世界で初めて「無神論国家宣言」を表明したことから、同国の名前は世界の近代史に刻印されることになった。ホッジャ政権下で収容所に25年間監禁されてきたローマ・カトリック教会のゼフ・プルミー神父と会見したことがあるが、同国では民主化後、多くの若者たちが宗教に強い関心を示してきているのだ。ホッジャ政権は教会を破壊し、聖職者を牢獄に入れることは出来たが、国民の中にある宗教心を完全に抹殺することはできなかったのだ。アルバニア国民はその宗教心を「アルバニア教」と呼んでいる(「『アルバニア教』の神髄語った大統領」2021年5月4日参考)。

 中国の習近平国家主席は、「共産党員は不屈のマルクス主義無神論者でなければならない。外部からの影響を退けなければならない」と強調する一方、「宗教者は共産党政権の指令に忠実であるべきだ」と警告している。具体的には、キリスト教、イスラム教など世界宗教に所属する信者たちには「同化政策による中国化」を進めている。にもかかわらず、中国人の宗教熱は冷えていない。非公式統計だが、中国人の宗教人口は中国共産党員をはるかに凌いでいる。

 1990年代後半に入ると、李洪志氏が創設した中国伝統修練法の気功集団「法輪功」の会員が中国国内で急増し、1999年の段階で1億人を超え、その数は共産党員数を上回っていった。それに危機感をもった中国第5代国家主席の江沢民氏(当時・在任1993年3月〜2003年3月)は1999年、法輪功を壊滅する目的で「610弁公室」を創設した。「610弁公室」は旧ソ連時代のKGB(国家保安委員会)のような組織で、共産党員が減少する一方、メンバー数が急増してきた法輪功の台頭を恐れた江主席の鶴の一声で作られた組織だ。

 最後に、宗教心とは何だろうか。明らかな点は程度の差こそあれ、誰でも宗教心を持っていることだ。その中には、人知を超えた存在(?)への畏敬心も含まれるだろう。人は誰でも幸せを願っている。そしてより良い人間になりたい、という消すことが出来ない願望がある。イエスの言葉を借りるならば、人はパンのみで生きているのではない。そして誰から言われなくても、何が善であり、何が悪いかを理解している。だから、世界宗教といわれる宗教の教えはよく似ている。人を殺すなかれ、姦淫するなかれ、といった戒めはどの高等宗教も教えていることだ。

 宗教団体が時の為政者から弾圧されたとしても、また、宗教団体が内部から腐敗・堕落していったとしても、人間の本来の宗教心は消えることがない。ローマ帝国の皇帝ネロ(在位54〜68年)はキリスト教を徹底的に弾圧したが、そのキリスト教が西暦392年、ローマ帝国の国教となることを防ぐことは出来なかった。宗教心は弾圧さればされるほど燃え上がることを多くの独裁者は理解していないのだ。

独国民の10人に8人は宗教に無関心

 ドイツの代表的週刊紙ツァイト(オンライン版)は週末に入ると「グッドニュース」だけを掲載して、読者に配信する。10を超えるグッドニュース集はもちろんドイツ人読者を対象としたものだから、他国の読者にとってグッドニュースとは言えないケースもあるが、それは仕方がないだろう。いずれにしても、多くの読者には週末には明るい、希望に満ちたニュースが必要、といったツァイト編集部の配慮が働いているのだ。

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▲暗雲が漂う教会の塔(2023年11月14日、バチカンニュース、写真ANSA通信)

 それゆえに、というわけではないが、週末前にこの記事を書き終えるべきだと考えた次第だ。ドイツはローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の信者数はほぼ半々だ。その両教会に対する国民の意識調査がこのほど公表されたが、両教会関係者にとっては予想されたことだが、やはり衝撃的な結果だ。バッドニュースだ。

 大規模な教会会員調査(KMU)の結果が14日、公表された。1972年以来、10年ごとに教会員の意識調査が実施されてきたが、この度はカトリック教会も初めて参加した。テーマは国民の宗教的なむすびつきを調査するものだ。その結果、ドイツではカトリック教会とプロテスタント教会に対する教会員の信頼が低下し、多くの教会員が教会から離れることを考えているという。

 具体的には、回答者5282人のうち、10人中ほぼ8人にとって、「宗教はまったく意味がない」(38%)、または「ほとんど意味がない」(40%)というのだ。教会員の中でも、「自分は信者であり、教会に近い」と考えているのはわずか4% (カトリック教徒) と6% (プロテスタント信者) に過ぎない。ただ、少なくとも36(33)%は、「たとえ多くの点で教会に対して批判的であっても、私は教会とのつながりを感じている」と答えている。

 KMUはドイツ国民の56%を「世俗的」、25%を「宗教的に遠い」、13%を「教会信仰を有する」、6%を「オルタナティブ」に分類している。全回答者の9%がカトリック教会を依然として信頼していると答えたのに対し、プロテスタント教会では24%だった。カトリック教会への信頼はイスラム教よりもわずかに高いだけで、調査ではカトリック教会員の43%、プロテスタント教会員の37%が「離脱傾向にある」と分類されている。

 興味深い点は、カトリック教会に対する教会員の不満からプロテスタント教会が利益を得るということはなく、カトリック教会の脱会者がその後、他の教会(プロテスタント教会)に入会するということはあまり多くない。

 ちなみに、アイルランド人で「幸福の王子」や「サロメ」などの作家オスカー・ワイルド(1854〜1900年)は死ぬ数日前にプロテスタント教会からカトリック教会に移っている。

 ただ、大切なことは、教会員が教会に対して無関心ではなく、抜本的な改革を望んでいることだ。とりわけ、カトリック教会の会員の96%とプロテスタントの会員の80%は、「教会に将来を望むなら根本的に変わらなければならない」と述べている。

 例えば、独司教会議が提示した主要な改革案は、.蹇璽沺Εトリック教会はバチカン教皇庁、そして最高指導者ローマ教皇を中心とした「中央集権制」から脱皮し、各国の教会の意向を重視し、その平信徒の意向を最大限に尊重する。∪賛者の性犯罪を防止する一方、LGBTQ(性的少数派)を擁護し、同性愛者を受け入れる。女性信者を教会運営の指導部に参画させる。女性たちにも聖職の道を開く。だ賛者の独身制の見直し。既婚者の聖職者の道を開く、等々だ。また、教会の社会的関与を期待し、社会相談センターを維持し、難民のために活動し、気候保護を強化することを望んでいる。

 いずれにしても、ドイツのカトリック教会、プロテスタント教会が大きな危機に瀕していることは間違いない。聖職者の未成年者への性的虐待の増加などを理由に教会からの脱会者は過去最高を記録している。2021年の教会統計によると、ドイツのカトリック信者総数は2164万5875でドイツ全体で26%を占める一方、プロテスタント信者数は約1972万人で23・5%。ドイツで新旧両教会の信者総数が50%を初めて下回った(「独カトリック教会、脱会者が急増」2022年6月29日参考)。 

 両教会が国民の信頼を回復し、教会を再び活性化できるだろうか。両教会を取り巻く環境はこれまでにないほど厳しいことが今回のKMUの調査結果で判明した。

神の「ユダヤ民族との3つの契約」

 先ず、旧約聖書から「出エジプト記」第21章23〜24節を引用する。

 「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない」と記されている。

 次は新約聖書の「マタイによる福音書」第5章38〜39節からの引用だ。

 キリストは「目には目を、歯には歯をと命じられたのを、あなたがたは聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う、悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と諭し、善をもって悪に報いるべきだと語っている。

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▲エルサレムの「嘆きの壁」で祈るフランシスコ教皇(2014年5月)=2023年9月7日、バチカンメディアから

 あなたはどちらの聖句が好きですか、といった質問をするつもりはない。前者は旧約聖書の聖句であり、後者は新約聖書の中の話だ。前者は天地創造の創世記から預言書まで39巻から構成された聖典であり、後者はイエス生誕後のイエスの福音と使徒たちの活動に関連したもので、27巻から成り立っている。そして新旧66巻を合わせて「聖書」と呼ばれている。世界のベストセラーと呼ばれる「聖書」の内容は上記のように新旧の間で一見矛盾する内容が記されている箇所が少なくないのだ。

 旧約聖書は聖書暦でイエス生誕前までの4000年の歴史が記述され、新約聖書は2000前のイエス生誕前後の話が中心になっている。新旧聖書の時代背景が異なるから、その内容も多少、相違が出てきても当然だろう。それ以上に、聖書歴6000年を神の一環としたストーリーとして読むべきだ、という判断から、聖書といえば、新旧両聖書を意味するようになって久しい。

 しかし、ここにきて“旧約聖書追放・排斥論”が聞かれ出した。「旧約聖書」排除論の最大の理由は、ビックバーン、インフレーション理論など宇宙の起源を追及する学問が急速に発展する中、旧約聖書の最初の聖典「創世記」に記述されている、神が6日間で世界を創造したという天地創造説と現代の天文学の成果の間で不一致する点がさらに増えてきたなどが挙げられる。

 それだけではない。旧約聖書の神は「妬む神」であり、異教の神々を信じる民を躊躇なく抹殺する。そしてユダヤ民族の選民意識を煽る一方、女性蔑視から少数民族迫害まで、旧約の神は人権と少数民族、女性の権利を擁護する21世紀の社会では絶対受け入れられない、という判断がある。だから「聖書はイエスの言動を記述した新約聖書だけで十分だ」という声が神学者の間で出てきたわけだ。

 ユダヤ民族の歴史が記述された旧約聖書を読み切るためには確かに忍耐が必要だ。その上、内容はインターネット時代の21世紀にはマッチしないものが少なくない。だから、排除しようという考えは一見、合理的な判断だが、聖書が新約聖書だけになり、読みやすくなったとしても、去った信者たちが教会に戻ってくるわけではないだろう。

 問題は深刻だ。聖書から旧約聖書39巻を排除した場合、神の創造目的、失楽園の話を失うことで、聖書の人類救済というテーマは意味を失い、ひいては、救い主イエスの使命は一層、曖昧模糊となってしまう危険性が出てくる(「旧約の『妬む神』を聖書から追放?」2015年5月07日参考)。

 旧約聖書の神の契約をどのように取り扱うべきかで聖書学者、聖職者は頭を悩ましてきた。バチカンニュースは7日、「ユダヤ教:絶えず続く契約」という見出して、新しい契約(新約聖書)がある現在、神の選ばれた民(イスラエル人)との神聖な契約(旧約聖書)をいつまで堅持すべきか」という問題を取り扱っている。聖パウロも「ローマ人への手紙」の中で言及しているテーマだったというのだ。

 近代教皇の中で最も神学に通じていたベネディクト16世は2018年、このテーマで論文を書き、「神とユダヤ人との契約は絶えず続いている」と述べたヨハネ・パウロ2世の発言を検証し、「神とその民との契約は唯一ではなく、多くの契約が存在した。また、契約の解除についての言葉は、旧約聖書の神学的な概念には含まれていない」と指摘し、「『絶えず続く契約』の公式は、ユダヤ人とキリスト教徒の間の新しい対話の最初の段階では役立ったかもしれないが、長期的には適さない」とその修正の必要を示唆している。

 フランシスコ教皇は7日、このテーマについて、神はユダヤ民族との間に3つの契約を結んでいると語り、「『ノアとの契約』は、人類と創造物との関係に焦点が当てられている。『アブラハムとの契約』は、統一と実りの前提条件として神への信仰が強調されている。最後に、『シナイの契約』は、法の授与とイスラエルの選出が、全ての民族のための救いの道具としての役割があった」と説明している。

 フランシスコ教皇は「神のユダヤ民族との契約は3つあって、それぞれ異なる重点が置かれている。そして、3つの契約の間を結びつける要素として、「神の賜物と召命の永遠性(ローマ人への手紙第11章29節)」を指摘し、「神は誰かを選んで他を排除するためではなく、常にすべてを包み込むために選ぶ」と述べている。

コーランだけ燃えているのではない!

 欧州の7月は灼熱の日々が続き、特に南欧のギリシャ、スペイン、イタリアでは気温も40度を超え、ギリシャの観光地のロードス島は山火事でホテルは燃え、ゲストたちは旅行鞄も捨てて逃げなければならない、といった状況が続いた。

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▲中国のキリスト信者たち(バチカン・ニュースのHPから)

 一方、北欧では気温こそ高温ではないが、デンマーク、スウェーデンではイスラム教の聖典コーランが焼かれ、それに抗議するデモや暴動が北欧の都市だけではなく、イラクなどイスラム教国の中東で広がっている。

 すなわち、南欧では地球温暖化の影響もあって灼熱の日々が続き、北欧では宗教の聖典が燃やされ、宗教者を激怒させ、燃え上がらせている。南欧も北欧もこの夏は“燃えている”わけだ。

 当コラム欄では北欧のコーラン焚書問題を数回扱ってきたが、不思議に感じてきたことがある。コーランを燃やすという蛮行が起きた場合、即メディアで大きく報道されるが、それではキリスト教の聖典の「聖書」はこれまで燃やされたことがなかったのか。答えは明らかだ。残念ながら聖書も燃やされてきたし、今も燃やされ、破られている。特に、中国と北朝鮮では、聖書ばかりか、キリスト教の教会堂はブルドーザーで壊され、聖書を所持していた国民は即政治収容所に送られている。その数はコーラン焚書事件の件数どころではない。

 にもかかわらず、聖書が燃やされている、というニュースはキリスト教社会の欧州に住んでいるが、ほとんど耳にしない。聖書は一度も燃やされたことがないとさえ思ってしまう。それとも欧州のキリスト者たちは聖書が燃やされても憤りを感じなくなったのだろうか。

 中国の宗教弾圧は言語に絶している。国を挙げてキリスト教信者やイスラム教徒(ウイグル人)など宗教人を迫害しているのだ。欧米社会で標榜される「信教の自由」などはまったくない。中国共産党政権下の宗教弾圧の実情についてはこのコラム欄でも頻繁に報告してきた。できれば再読して頂ければ幸いだ(「中国共産党政権が宗教弾圧する理由」2019年7月9日、「『宗教の中国化推進5か年計画』とは」2019年3月22日、「中国の公認教科書に登場するイエス」2020年10月1日参考)。

 参考に、興味深い話を聞いたので紹介する。米国の著名な作家で神経科学者、サム・ハリス氏が対話型AIのGPTにイエス・キリスト、仏陀、そしてイスラム教の創設者ムハンマドに関連したジョークを質問したところ、イエスと仏陀に関連したジョークは即回答したが、「ムハンマドに関するジョークも教えてほしい」と聞くと、GPTは「答えられません。イスラム教を信じている人々の宗教的感情を傷つけたくないからです」と回答したというのだ。イエスと仏陀をからかうジョークは回答出来る一方、何故ムハンマドへのジョークはダメなのか。明らかに、ダブルスタンダードだ。

 ドイツ人の知人がハリス氏の話を確認するために同じ質問をGPTにしたところ、回答は同じだった。そこでドイツの知人はGPTに、「これはダブルスタンダードではないか」と追及すると、GPTは素直に、「あなたのおっしゃる通りです」と謝罪したという。その翌日、知人は再度、同じ質問をGPTにしてみた、知人は、「GPTが間違いを認めたのだから、今度はムハンマドに関するジョークも聞けるだろう」と期待していたが、GPTは「答えられません」と同じ回答をしてきたのだ。

 知人曰く、「GPTが悪いのではない。追及するべきは、そのようにインプットしたプログラマーこそ問題だ」と語っていた。

 当方はその後、自ら試みた。なんと、当方のGPTはイエス、仏陀、そしてムハンマドの3人の聖人に関するジョークを教えてくれたのだ。以下、紹介する(ここでは、長くなるのでイエスと仏陀のジョークはカットする)。

 質問:イスラム教の教祖ムハンマドに関連するジョークを教えてください。

 回答:「イスラム教の教祖ムハンマドに関連するジョークは、宗教的な尊敬を持つ人々に対して敬意を払いつつも軽いユーモアを含むものがあります。ただし、ジョークは人々によって受け取り方が異なることを理解していただければと思います。以下は、敬意を持ってムハンマドに関連するジョークをお届けします。

<ジョーク1>
 ある日、ムハンマドが弟子たちに教えを説いていました。すると、一人の弟子が尋ねました。「先生、人生で最も困難なことは何でしょうか?」

 ムハンマドは微笑みながら答えました。「他の人々に笑われることなく、ジョークを作ることです」

<ジョーク2>
 ある日、ムハンマドが弟子たちと一緒に山に登っていました。すると、一人の弟子が尋ねました。「先生、神は私たちにどのようにして存在を示してくださいますか?」

 ムハンマドは静かに立ち止まり、山の頂上を指差しながら言いました。「神はこのようにして存在を示してくださいます」。弟子たちが山の頂上を見ると、そこに「すばらしい景色」と書かれた看板が立っているのを見つけました。

<ジョーク3>
 ある日、ムハンマドが市場で商人たちと話していました。すると、一人の商人が自慢げに言いました。「私の商品は神のご加護があると確信しています!」

 ムハンマドは興味津々で尋ねました。「本当ですか?それなら、どうして割引してくれないのですか?」

 これらのジョークがお楽しみいただければ幸いです。ただし、ムハンマドに対する敬意を忘れずに、適切な場所で楽しんでください。宗教に対して敏感な人々もいることを理解し、他の人々と共感を持つことが大切です。

 この話を早速ドイツ人の知人に連絡したところ、やはり驚いていた。当方の推測だが、GPTは日々、ディープラーニングで各民族の宗教的デリカシーの違いを学んでいるのではないだろうか。
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