第2次世界大戦が終戦して今年で80年目を迎えたこともあって、「戦後80年もの」がメディアで多く報じられてきた。現在生きている人間にとっては歴史の節目に当たるから、当然かもしれないが、私たちはもはや「戦後」に生きているのではなく、近未来に勃発する戦争の「戦前」にあって、呼吸しながら生きているのではないか。「戦後」は戦争終焉から始まるが、「戦前」は次の大戦前を意味する。人類は戦争を繰り返してきたから、人類の歴史は無数の「戦後」と「戦前」から織りなされきたといえる。

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▲「戦後80年談話」に拘る石破茂首相、首相官邸公式サイトから

 「戦後」や「戦前」は紀年ではない。西洋の歴史では、「イエス前」と「その後」に分ける紀元法が定着している。イエスは約2000年前に生誕し、人類の救済のために十字架上で犠牲となった。歴史における「BC」はBefore Christ(キリスト以前)の略で紀元前を意味し、「AD」はラテン語のAnno Domini(主の年に)の略で「キリスト誕生後」の紀元後を意味する。これらはイエス・キリストの誕生を基準として年を数えるキリスト教由来の紀年法だ。

 ちなみに、世界の主な紀年法には、キリスト紀元の他、イスラム教徒のコミュニティで使われるヒジュラ暦、タイやカンボジア、ミャンマーなどの仏教国で使われる仏暦、そしてそれぞれの国で独自の歴史的出来事を起点とする皇紀(神武紀元)や元号などがある。例えば、北朝鮮では、金日成主席が生まれた1912年を元年とする主体年号が使用されている。2025年は主体114年になる。ただし、北朝鮮政府は明言していないが、2024年10月12日から主体年号の使用を中止したとみられる。

 話を「戦後」と「戦前」に戻す。第2次世界大戦から80年が経過すると、戦争を直接体験したり、目撃した人間が亡くなり、「戦後」のリアルな感覚は薄れていく。あと20年もすれば、「戦後100年」になる。一世紀前の戦争の終焉に果たしてどれだけ人が関心を寄せるだろうか。一方、「戦前」は戦争が起きる前の時代、その状況を意味するから、歴史書で明記されたいる「戦争」が起きれば、その前を「戦前」と呼ぶ。ただ、「戦後」の意味が希薄すれば、同時に、その「戦後」とセットの「戦前」も意味を失っていくだろう。

 ここでは過去の戦争を拠点とした「戦後」、「戦前」ではなく、近未来に起きる戦争を想定する。「戦後」はまだ実体化していないが、「戦前」は常に未来形、現在形として私たちの時代、世代に関与してくる。すなわち、私たちは近未来起きるだろう戦争の「戦前」に生きているといえるわけだ。

 戦後は時代の経過と共に、その意味を失うが、「戦前」は私たちが地上天国を建設し、戦争がない世界ができるまでは、決して死語化しない。すなわち、私たちは第2次世界大戦後の「戦後」を生きているのではなく、来るべき大戦の「戦前」時代の世代ということになる。もう少し厳密にいうならば、「戦後」→「戦前」→「戦後」→「戦前」、といったサークルの中にある。

 ところで、退陣が決まった石破茂首相は依然、「戦後80年談話」を発表し、歴史にその名を残したいと考えておられるという。「戦後談話」を発表し、過去80年間の戦後を総括するといった必死の決意かもしれない。

 クリスチャン首相の石破さんには「80年談話」に拘るのではなく、西暦2025年の現在、未来に警告を発するという意味合いで、一種の「戦前談話」を発表してほしい。

 過去から教訓をくみ取る作業は尊いことだが、21世紀に生きている人間には、今後どのようにすればいいか、ということで悩んでいる人が少なくない。クリスチャン首相として未来志向に徹し、「戦前談話」を試みてはどうか。その内容次第だが、少なくともユニークさという意味で、その談話はひょっとしたら人々の記憶に長く覚えられるかもしれない。