1938年11月9日は「水晶の夜」(クリスタル・ナハト)と呼ばれている。ナチス・ドイツ軍が支配する欧州全域でユダヤ教会堂(シナゴーグ)が焼き討ちされ、ユダヤ人商店が略奪され、ユダヤ人が迫害された。「水晶の夜」は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のように光っていたことからこのように呼ばれ、11月9日から10日にかけて起きた。当方が住むオーストリアでも少なくとも30人のユダヤ人が殺害され、7800人が逮捕され、ウィーンから4000人が強制収容所ダッハウに送られた。

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▲ウィーンの「水晶の夜」の追悼集会(2024年11月8日、ウィーンの「イスラエル文化協会」(IKG)公式サイトから)

 今年の「水晶の夜」の追悼式典は、前日の8日、ウィーンで行われた。「水晶の夜」の前日、7日夜から8日にかけ、オランダの首都アムステルダムで開催された欧州サッカー連盟(UEFA)主催の欧州リーグのオランダの「アヤックス・アムステルダム」とイスラエルのチーム「マッカビ・テルアビブ」の試合後(5対0でアヤックスの勝利)、競技場から出てきたイスラエル人ファンに対して一部の群衆が襲撃し、少なくとも12人のイスラエル人ファンが重軽傷を負うという出来事が起きた。AFP通信などによれば、「試合後に市中心部で両チームのサポーターが衝突し、多数の乱闘や破壊行為があった。マッカビのサポーターが反アラブのスローガンを叫ぶ場面も映像に残っている」とも報じている。

 オランダのスホーフ首相は「明らかに反ユダヤ主義的な蛮行だ」と指摘、暴動を行った者を厳しく処罰すると強調し、イスラエルのネタニヤフ首相に電話し、事の詳細を説明したという。なお、ネタニヤフ首相はアムステルダムに滞在中のイスラエル人に「事態は危険だ。即、国に戻るように」と指摘し、救援機を送っている。第2次世界大戦中のホロコーストでは、オランダ在住のユダヤ人の約75%が殺害された(英BBC放送)。

 アムステルダムでの出来事が報じられた直後、ウィーンのユダヤ人広場にある記念碑で8日、11月のポグロム(ユダヤ人迫害)の追悼集会が開かれたが、ローゼンクランツ国民議会議長が同追悼に参加しようとしたところユダヤ人のデモ参加者により阻止される、という出来事があった。

 オーストリアのユダヤ人学生連盟は記念碑の周りに人間の鎖を作り、国民議会議長に対して「ナチスを称賛する者の言葉に価値はない!」と告げた。ローゼンクランツ国会議長は「これは暴力だ」と反論したが、参加を断念するという出来事が起きた。オーストリア国営放送(ORF)は同国のナンバー2の立場の国民議会議長がユダヤ人青年グループによって追悼集会参加を拒否されているシーンを放映していた(「オルバン首相のウィーン訪問の波紋」2024年11月3日参考)。

 ちなみに、同国民議会議長は極右「自由党」所属であり、ドイツ系民族主義の学生組織(Burschenschaft)に所属している。ブルシェンシャフトは、日本語では「学生結社」や「学生団体」と訳される。ブルシェンシャフトは、19世紀初頭のドイツで大学生たちが愛国主義や自由主義の理念のもとに結成した組織が起源だ。そのため、ブルシェンシャフトの中には伝統的なナショナリズム、保守的な価値観を持つ団体が多く、現在もドイツやオーストリアなどで活動している。ブルシェンシャフトの一部には、過去に極右的な思想や排外主義的な立場を持つメンバーが含まれ、時には反ユダヤ主義などの過激な思想と関わりを持つ者がいる。そのため、ブルシェンシャフトのメンバーであることは、極右勢力との結びつきが疑われることになる。

 <ORF放送が報じたユダヤ人青年デモ隊とローゼンクランツ国民議会議長のやり取りの内容を可能な限り再現する>

 ローゼンクランツ国民議会議長(62)はハラルド・ドッシ議会事務総長らを引き連れて追悼会にきた。追悼式のために準備された花輪は、デモ隊の横断幕と人間の鎖の前に置かれたが、デモ参加者は素早くその前に立ちふさがり、イスラエル国歌を歌った。

 ローゼンクランツ議長はユダヤ人の青年たちに「私が花輪に近づくことができるようお願いしたい」と言うと、青年たちの一人が「デモは民主的な抗議として正当ではないか」と問い返すと、議長は「一つお願いしたいことがある。追悼式が終了してから質問をしてほしい」と答えた。警察側はデモ隊に退去するように説得したが出来なかった。

 ローゼンクランツ議長はデモ参加者に対して「あなたたちは暴力で私を阻止している。こういう状態では私はあなたたちに従わざるを得ない」と述べると、デモ参加者は「ここでは誰も暴力を振るっていない」と反論し、「私たちの先祖への追悼を尊重してほしい!私たちはあなたと一緒に追悼したくないのだ。あなたに私たちの先祖を侮辱してほしくない」と述べると、ローゼンクランツ議長は「あなたたちこそ私を侮辱している」と主張した。

 国民議会議長は「これは議会と議員たちの花輪であり、オーストリア共和国の代表として追悼式典を行いたい」と重ねて述べると、デモ参加者からは「さっさと立ち去れ」という声が飛び出した。ローゼンクランツ議長は「私の善意の表れとして、あなたたちの先祖を追悼する気持ちを尊重してこの場を離れる。しかし、あなたたちは私を暴力的に阻止したのです」と反論し、その数分後、ユダヤ人広場を去った。

 アムステルダムの暴動とウィーンのホロコースト追悼集会の出来事を紹介した。どちらも心痛い出来事だ。アムステルダムではパレスチナ人の旗を持ちながら、路上をデモしていた若い人達の姿が映し出されていた。彼らはパレスチナ自治区ガザで苦しむパレスチナ人への思いもあって、ユダヤ人への怒りを爆発させている。一方、ウィーンの「水晶の夜」前日の国民議会議長とユダヤ人デモ隊のやり取りは切ない。どちらの言い分が正しいかという問題ではない。どちらも86年前の歴史の日の重荷を背負いながら歩み寄りが出来ないでいるのだ。