オーストリア国営放送(ORF)は11日夜(現地時間)のニュース番組でエルサレムのティム・クーパル特派員の「オスロ合意30年目を迎えて」の現地報告を報道し、同合意に立ち会った2人の関係者にインタビューした。1人はパレスチナ解放機構(PLO)の報道官を務めたハナン・アシュラウィ氏(Hanan Aschrawi)、もう1人はイスラエル側交渉チームで合意内容の作成に関与したヨシ・ベイリン氏(Jossi Beilin)だ。
▲1993年9月13日、パレスチナ暫定自治協定締結式の左からラビン・イスラエル首相、クリントン米大統領、アラファトPLO議長(public domain)
オスロ合意は、ノルウェー政府の仲介で、イスラエル政府とPLOの間の和平交渉がノルウェーの首都のオスロで秘密裏に行われ、パレスチナに暫定的自治政府を樹立することで一致、イスラエルとパレスチナの2国共存を正式に認める内容だ。それを受けてアメリカのクリントン大統領(当時)はPLOをパレスチナ唯一の合法的代表と認め、同年9月13日にワシントンのホワイトハウスで、イツハク・ラビン首相とPLOのヤーセル・アラファト議長との間で「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」が調印された。
オスロ合意は5年以内にその内容を実施することになっていた。具体的には、3年内にエルサレムの帰属問題、パレスチナ難民の帰還問題、国境線の決定など最終的地位に関する交渉を開始し、5年後にはその内容を発効させるというものだった。
94年にはパレスチナで選挙が行われ、PLOのアラファト議長が暫定政府代表に選出されたが、95年11月、オスロ合意のもう1人の立役者、ラビン首相がオスロ合意に反対するユダヤ人右翼過激派によって暗殺された。その後、イスラエルとパレスチナの間で武装衝突が多発して、オスロ合意は今日まで実行されずにきた。
ベイリン氏は、「ラビン首相の暗殺事件はオスロ合意に関係した全ての人にとって想定外だった。その意味で我々全てがナイーブ過ぎたのかもしれない。同合意でパレスチナ問題が解決されると考えていたからだ」と述懐し、「イスラエルでは当時、多数がオスロ合意を支持していた。にもかかわらず、路上の多数派はオスロ合意を堅持するには十分ではなかったのだ」と答えたのが印象的だった。
アシュラウィ氏は、「パレスチナ人の多くはラビン首相とアラファト議長との握手のシーンを見て、これでイスラエルとの戦いは終わり、イスラエルの占領もなくなると楽観的に考えていた。オスロ合意はパレスチナ問題の最終的地位や自治権を保障するものではなかった。単なるイスラエルとパレスチナ両者の基本的合意宣言に過ぎなかった」と説明。オスロ合意30年後の総括については、「イスラエルはヨルダン川西岸の占領政策をより深化させ、重要な問題は先送りされた。何らの保証もなく、調停者もいないといった状況だ。エルサレムの帰属問題も入植問題も先送りされ、入植はむしろ拡大されていった」と述べている。
ベイリン氏は、「オスロ合意のアイデアは和平に向かっての橋を5年以内に構築することにあった。残念ながら、5年計画はエンドレスとなった」と指摘。ユダヤ人右翼過激派によるラビン首相暗殺でオスロ合意は暗礁に乗り上げ、パレスチナでは過激な武装勢力ハマスが台頭していった。ベイリン氏は、「オスロ合意が暗礁に乗り上げた責任はイスラエルとパレスチナの関係者全てにある」と述べている。
オスロ合意30年を迎えた。イスラエル軍とハマスの武力衝突は続き、今年に入って、イスラエル側に30人の死者、パレスチナには200人以上の犠牲者が出ている。武力衝突の解決の見通しは立っていない。
アシュラヴィ氏はインタビューの最後にイスラエルのシモン・ぺレス元大統領(任期2007〜14年)が語っていた話を紹介している。
「パイロットの息子に母親は、『高く飛ばず、ゆっくりと飛行すれば、カタストロフィが待っているだけだ』と注意を促す。和平交渉は高く、スピードを出してゴールに到着するべきだったが、我々はゆっくりと低空飛行したために、墜落してしまった」と語ったという。
イスラエルが建国されて今年で75周年を迎えた。同国はイラン、ハマス、ヒズボラなどテロ支援国家、イスラム過激派グループに取り囲まれている。イスラエルは世界的な軍事力を有して優位に対抗しているが、ネタニヤフ現右派政権は司法改革で国内を混乱させている。ちなみに、同国最高裁は12日、同法律に対する請願を審議するが、最高裁がこの法律を破棄し、政府がそれを受け入れない場合、イスラエルは憲法危機に直面することになる。
なお、イスラエルの歴史家、ユバル・ノア・ハラリ氏(Yuval Noah Harari)はレックス・フリードマン氏のポッドキャストでイスラエルの現状について、「問題が国家的、民族的なものだったら、妥協や譲歩は可能だったが、問題が信仰や宗教的な対立となれば、妥協が出来なくなる。イスラエルとパレスチナ問題は既に宗教的な対立になってきている。それだけに、解決が一層難しくなってきた」と指摘している。
▲1993年9月13日、パレスチナ暫定自治協定締結式の左からラビン・イスラエル首相、クリントン米大統領、アラファトPLO議長(public domain)
オスロ合意は、ノルウェー政府の仲介で、イスラエル政府とPLOの間の和平交渉がノルウェーの首都のオスロで秘密裏に行われ、パレスチナに暫定的自治政府を樹立することで一致、イスラエルとパレスチナの2国共存を正式に認める内容だ。それを受けてアメリカのクリントン大統領(当時)はPLOをパレスチナ唯一の合法的代表と認め、同年9月13日にワシントンのホワイトハウスで、イツハク・ラビン首相とPLOのヤーセル・アラファト議長との間で「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」が調印された。
オスロ合意は5年以内にその内容を実施することになっていた。具体的には、3年内にエルサレムの帰属問題、パレスチナ難民の帰還問題、国境線の決定など最終的地位に関する交渉を開始し、5年後にはその内容を発効させるというものだった。
94年にはパレスチナで選挙が行われ、PLOのアラファト議長が暫定政府代表に選出されたが、95年11月、オスロ合意のもう1人の立役者、ラビン首相がオスロ合意に反対するユダヤ人右翼過激派によって暗殺された。その後、イスラエルとパレスチナの間で武装衝突が多発して、オスロ合意は今日まで実行されずにきた。
ベイリン氏は、「ラビン首相の暗殺事件はオスロ合意に関係した全ての人にとって想定外だった。その意味で我々全てがナイーブ過ぎたのかもしれない。同合意でパレスチナ問題が解決されると考えていたからだ」と述懐し、「イスラエルでは当時、多数がオスロ合意を支持していた。にもかかわらず、路上の多数派はオスロ合意を堅持するには十分ではなかったのだ」と答えたのが印象的だった。
アシュラウィ氏は、「パレスチナ人の多くはラビン首相とアラファト議長との握手のシーンを見て、これでイスラエルとの戦いは終わり、イスラエルの占領もなくなると楽観的に考えていた。オスロ合意はパレスチナ問題の最終的地位や自治権を保障するものではなかった。単なるイスラエルとパレスチナ両者の基本的合意宣言に過ぎなかった」と説明。オスロ合意30年後の総括については、「イスラエルはヨルダン川西岸の占領政策をより深化させ、重要な問題は先送りされた。何らの保証もなく、調停者もいないといった状況だ。エルサレムの帰属問題も入植問題も先送りされ、入植はむしろ拡大されていった」と述べている。
ベイリン氏は、「オスロ合意のアイデアは和平に向かっての橋を5年以内に構築することにあった。残念ながら、5年計画はエンドレスとなった」と指摘。ユダヤ人右翼過激派によるラビン首相暗殺でオスロ合意は暗礁に乗り上げ、パレスチナでは過激な武装勢力ハマスが台頭していった。ベイリン氏は、「オスロ合意が暗礁に乗り上げた責任はイスラエルとパレスチナの関係者全てにある」と述べている。
オスロ合意30年を迎えた。イスラエル軍とハマスの武力衝突は続き、今年に入って、イスラエル側に30人の死者、パレスチナには200人以上の犠牲者が出ている。武力衝突の解決の見通しは立っていない。
アシュラヴィ氏はインタビューの最後にイスラエルのシモン・ぺレス元大統領(任期2007〜14年)が語っていた話を紹介している。
「パイロットの息子に母親は、『高く飛ばず、ゆっくりと飛行すれば、カタストロフィが待っているだけだ』と注意を促す。和平交渉は高く、スピードを出してゴールに到着するべきだったが、我々はゆっくりと低空飛行したために、墜落してしまった」と語ったという。
イスラエルが建国されて今年で75周年を迎えた。同国はイラン、ハマス、ヒズボラなどテロ支援国家、イスラム過激派グループに取り囲まれている。イスラエルは世界的な軍事力を有して優位に対抗しているが、ネタニヤフ現右派政権は司法改革で国内を混乱させている。ちなみに、同国最高裁は12日、同法律に対する請願を審議するが、最高裁がこの法律を破棄し、政府がそれを受け入れない場合、イスラエルは憲法危機に直面することになる。
なお、イスラエルの歴史家、ユバル・ノア・ハラリ氏(Yuval Noah Harari)はレックス・フリードマン氏のポッドキャストでイスラエルの現状について、「問題が国家的、民族的なものだったら、妥協や譲歩は可能だったが、問題が信仰や宗教的な対立となれば、妥協が出来なくなる。イスラエルとパレスチナ問題は既に宗教的な対立になってきている。それだけに、解決が一層難しくなってきた」と指摘している。