4月7日は「聖金曜日」だった。およそ2000年前にイエス・キリストが十字架上で殺害された日だ。イエスは当時33歳の若者だったが、他の2人の囚人と共にローマ兵士によって殺された。その3日後、イエスは復活した。肉体的に死んだ人間が再び生き返るということは現代人でなくてもなかなか信じられないことだ。

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▲キリスト教絵画「エッケ・ホモ」(ラテン語で「この人を見よ」を意味する)「エッケ・ホモ」は、ピラトが磔刑前にイエスを侮辱し騒ぎ立てる群衆に向けて発した言葉(2023年4月7日、バチカンニュースから)

 現代風に解釈すれば、イエスは臨死体験しただけで、数時間後目が覚めたという解釈だ。最も多くの人に信じられている解釈は、イエスは肉体的に死んだが、霊的には復活した、という受け取り方だ(霊的復活説)。もちろん、敬虔な信者は「イエスは肉体的に復活した」と信じている(肉体復活説)。なぜならば、イエスは神の子だから、通常の人間のように死ぬということはあり得ないからだ。

 聖書では死んだ人間が再び生き返った例はイエスだけではなく、イエスの友人ラザロは死んだ4日後、蘇り、そして病死した12歳の娘もその父親の信仰ゆえに復活の恵みを得ている。新約聖書の世界では少なくとも3人、死から生き返っている。

イエス自身、「死」について2通りの解釈をしている。「生きているの名ばかりで、実は死んでいるのだ」(新約聖書「ヨハネの黙示録」第3章)とか、「たとえ死んでも生きる」(「ヨハネによる福音書」)と主張している。神の懐の中に生きる者はたとえ肉体的に寿命が尽きたとしても、神と共に永遠に生きる、という意味が含まれているのだろう。

 イエスは死3日後、生き返り教え(福音)を述べ伝え、弟子たちの前に現れ、福音を述べ伝えるように鼓舞した。ローマ兵士から「お前はイエスと共にいた」と追及された時、「自分はイエスを知らない」と3度否定したペテロは復活したイエスと会合した後、死を恐れない強い信仰者として歩みだす(ペテロは最後は逆さ十字架で処刑される)。

 イエスの教えはその後、ペテロやヤコブといったイエスの直接の弟子ではなく、生前のイエスと会ったことがないパウロによってローマから世界に伝播されていく。その教えには次第にユダヤ教の教えや伝統が薄まっていく。現代のキリスト教の教えは「パウロ神学」といわれる所以だ。そして現代の十字架救済論、復活論が定着していく。

 「聖金曜日」を迎えて、イエスの十字架の意味、復活についてやはり考えざるを得なかった。神の子イエスは33歳で十字架にかかって死ぬために降臨したのか。そうではないとすれば、イエスに何が生じ、十字架に行かざるを得なくなったのか。なぜ、イエスは「私はもう一度来る」と再臨を約束せざるを得なかったのか。もう少し突っ込んで言うならば、復活したイエスの十字架を信じることで、信者たちは原罪から解放されるか、等々について考えた。

 イエス自身、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で撃ち殺す者よ。…私はお前の子たちを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、お前たちは応じようとしなかった」(「マタイによる福音書第23章37節)と嘆いている。この聖句からも、イエスの十字架上の死はイエス本人の願いではなかったことが理解できる。また、聖パウロの有名な聖句(「ローマ人への手紙」第7章23節)を想起するならば、十字架救済を信じる聖人ですら罪から解放されず、「罪の法則の中に、私をとりこにしているのを見る」と嘆き、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と告白しているのだ。

 2000年前の話を持ち出さなくてもいいだろう。世界最大のキリスト教会ローマ・カトリック教会では聖職者の未成年者への性的虐待が起きている。聖職者の性犯罪件数は数十件どころではない。数万件にも及ぶのだ。教会でイエスの福音を説く神父、司教、枢機卿たちが「肢体の律法の虜になり」未成年者に性的虐待を行っているのだ。

 なぜイエスは十字架で処刑されたのかについては、このコラム欄で数回書いてきた。イエスの家庭問題、母マリアとの関係、実父ザカリアとの関係、そして洗礼ヨハネの不信などを書いた。関心のある読者は再読してほしい(「イエスの父親はザカリアだった」2011年2月13日、「イエスが結婚できなかった理由」2012年10月4日参考)。

 キリスト教関係者にとって十字架はその信仰の核に触れるだけに、「イエスを十字架から解放すべきだ」と主張すれば、敬虔な信者なら怒りが飛び出すだろう。ここで断っておくが、イエスの十字架がイコン崇拝だから下ろすべきだと言っているのではない。十字架信仰を掲げるキリスト者は「この世では罪からの完全な解放はないが、イエスの復活の勝利によって共に恵みを受ける」という淡い期待をもつ。この信仰姿勢は神とイエスを信じる信仰者としては尊いが、十字架信仰では、罪から完全には解放されないという事実は残念ながら否定できないのだ。

 最後に、「イエスを十字架から降ろそう!」(2017年12月14日)のコラムの最後の文を再掲載する。

 キリスト教の教理もイエスの生涯も知らない幼い幼児が教会の祭壇にかけられている十字架のイエスの姿をみてショックを受け、母親に「彼を早く十字架から降ろしてあげて」と呟いたという。幼児はイエスの十字架の救済論、贖罪論、ましてや再臨論については全く知らないが、十字架につけられたイエス像を見て「かわいそう、見るのが怖い」と感じたのだ。このエンパシーは神学の教理以上に事実を語っているように感じる。イエスの十字架は神の勝利でも本来の願いでもなかったはずだ。

 悪魔は、イエスが十字架から解放され、再臨してその使命を果たすことを阻止するために彼を十字架に縛り、「十字架信仰」を言い広めていったのではないか。イエスを祭壇の十字架から降ろすべきだ。