この2日前のコラム欄で書いたが、英国のキャサリン皇太子妃が次男ルイ王子から聞いた話は非常に教えられる、というか、考えさせられた。4歳のルイ王子は、国家元首として70年間歩んだ後、亡くなっ曾祖母のエリザベス女王が今、昨年4月に99歳で死去した夫フィリップ殿下のもとに行っている、と母親キュアサリン妃に語ったというのだ。ルイ王子はその光景を見たのだろうか、それともキャサリン皇太子妃から眠る前に聞いた童話の話を覚えていて、おばちゃんも死後、おじいちゃんのもとに行ったと考えて自然にそのように答えただけだろうか。ひょっとしたら、ルイ王子は曾祖母と曾祖父が会っている場面を見たのではないか。

▲英王室関係者(バッキンガム宮殿サイトから)
デンマークの王子ハムレットは、「あの世から戻ってきたものは1人もいない」と嘆いたが、聖書の世界では少なくとも3人が死後復活している。十字架上で亡くなった「イエスの復活」のほか、イエスの友人ラザロは死んだ4日後に蘇り、そして病死した12歳の娘もその父親の信仰ゆえに復活の恵みを得た。新約聖書の世界では少なくとも3人が死から生き返っている(この場合、肉体復活)。
臨死体験(体外離脱現象)の話はよく聞く。その体験者の話には共通点が多いことに驚かされる。「死後の世界」と現世の間には“三途の川”や“鉄のカーテン”はなく、非常に交差しているのではないかと考えさせられる(立花隆氏がいう「臨死体験は死の直前に衰弱した脳が見る『夢』に近い現象」という見解があるが、同氏が期待する脳神経学の発展によって「死後の世界」の全容が解明されるとは思わない)。
ルイ王子は、曾祖母の国葬で忙しい家族たちには見えない、別の世界の光景を見ていたのではないか。残念ながら、「別の世界」を見る能力は年月を経ていくうちに減少する一方、「この世の世界」を追う視力だけが発展していく。ルイ王子が10歳を過ぎると、曾祖母の姿がもはや見えなくなるかもしれない。「この世」で酷使してきた視力は年を取るにつれて弱まり、眼力を完全に失った「死」後、「別の世界」が光をもって迫ってくるのではないか。
ルイ王子には見え、チャールズ国王やキャサリン皇太子妃たちには見えないのは、年齢の差もあるだろう。人生でさまざまな出来事や体験を繰り返すことで「別の世界」の様相が見えなくなるのではないか。思い煩い、ストレス、悲しみ、特に恨み、ねたみなどがカーテンを下ろし、「この世の世界」の住人になりきることでもう一つの世界の五感は失われていくのではないか。もちろん、例外的に、両世界の視力を有する人はいるが、その数は少ない。
「この世の世界」と「死後の世界」の関係が理解できるようになると、この世で味わうさまざまな煩いは消えていくかもしれない。同時に、「この世の世界」でいかに生きていくべきかも自然に理解できるのではないか。
現代人は「死の世界」を忘れるように腐心している。あたかも「この世の世界」が全てであるかのように。「死」の世界に忙しいのは胡散臭い宗教者だけだというばかりにだ。しかし、束の間、忘れることが出来ても「死の世界」は必ず訪れてくる。仏教でいう四苦八苦の世界はリアルだ。耐用年数を伸ばすことはできてもやはり「死」は訪れてくる。
日本のメディアは現在、安倍晋三元首相の銃殺事件後、容疑者追及ではなく、本来被害者の世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をバッシングしているが、旧統一教会の創設者文鮮明師は、死は神のもとに帰る時だから、悲しいときではなく、喜ぶときであり、新しい人生の出発点だと指摘、葬儀を「聖和式」と呼び、見送る人々は黒色の喪服ではなく、白色の服を着て見送るべきだと述べている。「死」は誰にとっても最も身近なテーマであり、「この世の世界」の「死」を如何に乗り越えて生きていくかは、生きとし生ける者の永遠の課題だ。
どうか笑わないでほしい。ルイ王子の話は啓示的な内容が含まれている。ルイ王子が見える世界を失ってしまったわれわれは、4歳の王子から学ぶべきだろう。「この世の世界」と「死後の世界」は決してかけ離れてはなく、両者間に本来、コミュニケーションが可能とすれば、死をもはや恐れることはない。ただ、生きている時、与えられた才能、性質をフルに活用して全力で走りきることだろう。

▲英王室関係者(バッキンガム宮殿サイトから)
デンマークの王子ハムレットは、「あの世から戻ってきたものは1人もいない」と嘆いたが、聖書の世界では少なくとも3人が死後復活している。十字架上で亡くなった「イエスの復活」のほか、イエスの友人ラザロは死んだ4日後に蘇り、そして病死した12歳の娘もその父親の信仰ゆえに復活の恵みを得た。新約聖書の世界では少なくとも3人が死から生き返っている(この場合、肉体復活)。
臨死体験(体外離脱現象)の話はよく聞く。その体験者の話には共通点が多いことに驚かされる。「死後の世界」と現世の間には“三途の川”や“鉄のカーテン”はなく、非常に交差しているのではないかと考えさせられる(立花隆氏がいう「臨死体験は死の直前に衰弱した脳が見る『夢』に近い現象」という見解があるが、同氏が期待する脳神経学の発展によって「死後の世界」の全容が解明されるとは思わない)。
ルイ王子は、曾祖母の国葬で忙しい家族たちには見えない、別の世界の光景を見ていたのではないか。残念ながら、「別の世界」を見る能力は年月を経ていくうちに減少する一方、「この世の世界」を追う視力だけが発展していく。ルイ王子が10歳を過ぎると、曾祖母の姿がもはや見えなくなるかもしれない。「この世」で酷使してきた視力は年を取るにつれて弱まり、眼力を完全に失った「死」後、「別の世界」が光をもって迫ってくるのではないか。
ルイ王子には見え、チャールズ国王やキャサリン皇太子妃たちには見えないのは、年齢の差もあるだろう。人生でさまざまな出来事や体験を繰り返すことで「別の世界」の様相が見えなくなるのではないか。思い煩い、ストレス、悲しみ、特に恨み、ねたみなどがカーテンを下ろし、「この世の世界」の住人になりきることでもう一つの世界の五感は失われていくのではないか。もちろん、例外的に、両世界の視力を有する人はいるが、その数は少ない。
「この世の世界」と「死後の世界」の関係が理解できるようになると、この世で味わうさまざまな煩いは消えていくかもしれない。同時に、「この世の世界」でいかに生きていくべきかも自然に理解できるのではないか。
現代人は「死の世界」を忘れるように腐心している。あたかも「この世の世界」が全てであるかのように。「死」の世界に忙しいのは胡散臭い宗教者だけだというばかりにだ。しかし、束の間、忘れることが出来ても「死の世界」は必ず訪れてくる。仏教でいう四苦八苦の世界はリアルだ。耐用年数を伸ばすことはできてもやはり「死」は訪れてくる。
日本のメディアは現在、安倍晋三元首相の銃殺事件後、容疑者追及ではなく、本来被害者の世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をバッシングしているが、旧統一教会の創設者文鮮明師は、死は神のもとに帰る時だから、悲しいときではなく、喜ぶときであり、新しい人生の出発点だと指摘、葬儀を「聖和式」と呼び、見送る人々は黒色の喪服ではなく、白色の服を着て見送るべきだと述べている。「死」は誰にとっても最も身近なテーマであり、「この世の世界」の「死」を如何に乗り越えて生きていくかは、生きとし生ける者の永遠の課題だ。
どうか笑わないでほしい。ルイ王子の話は啓示的な内容が含まれている。ルイ王子が見える世界を失ってしまったわれわれは、4歳の王子から学ぶべきだろう。「この世の世界」と「死後の世界」は決してかけ離れてはなく、両者間に本来、コミュニケーションが可能とすれば、死をもはや恐れることはない。ただ、生きている時、与えられた才能、性質をフルに活用して全力で走りきることだろう。
人が死ねば極楽浄土にお釈迦さんが連れて行ってくれると言う教えから「どう生きて、どう死ぬか」悪い事をしたら地獄に行き閻魔大王の審判をうけると道徳教育の一部として教えられて来たと思います。
人徳を積んで立派な人になりなさい!人生は修行だと日本的仏教の価値観もあると思います。
「猫は人が見えないものが見えている」と耳にしたことがあります。
断定はできませんがイスラム教でもキリスト教、仏教、ユダヤ教でも死後の世界を的確に説明されていないと思います。
「どう生きるか」
死後の世界(霊界)を知らなければならないキッカケになればいいと思います。