冷戦時代の幕が閉じようとしていた1989年、ハンガリー社会主義労働者党(共産党)政権がオーストリアへの国境を開放し、多数の旧東独国民がこの国境を通過して西側の自由世界に殺到、その結果、旧東独社会主義統一党(共産党)政権が崩壊する契機となった、と知られている。ところが、ドイツ公共放送が4日、「ハンガリー政府が旧東独国民のため鉄のカーテンをオープンしたのは当時の旧西独政府(コール政権)がハンガリーの債務を救済したことが原因だった可能性がある」と報じた。これまでドイツもハンガリー政府もこの情報を否定してきたが、旧チェコスロバキア政府が旧東独秘密警察(シュタージ)に送った報告書にはそのことが明記されていたというのだ。

▲ハンガリーの共産党政権時代の最後の首相、ミクローシュ・ネーメト首相(写真は当方とのインタビューに応じるハンガリーのネーメト首相、1989年10月2日、首相執務室で、ハンガリー国営MTI通信)
多くの旧東独国民は1989年5月以降、ハンガリー国境を越えて西側に逃亡していった。8月には、最初の大規模な脱出があった。それを受け、ハンガリー政府は1989年9月10〜11日の夜、国境を開放。次の数日で、何万人もの東ドイツ市民が西側に逃げた。ハンガリー政府は当時、「鉄のカーテン」を切断することで東西両ドイツ分断時代に終焉を告げる歴史的役割を果たした、と評価されてきた。
ハンガリーのミクローシュ・ネ―メト首相は当時、「ハンガリーは何の見返りも求めていない。ハンガリーは人を売らない」と説明してきたが、ドイツ公共放送文化局が入手した文書は、この主張に疑問を投げかけている。当時のチェコスロバキアのシークレットサービスが1989年秋、旧東独シュタージに送った文書の中で、「当時の西独政府はハンガリーに経済的支援を提供し、その代わりに東ドイツから逃れたい人々のために鉄のカーテンを開かせた」ことを示唆していたという。
独連邦公文書館のシュタージ記録局からの文書には、「チェコスロバキア(CSSR)の治安機関の情報。東ドイツ難民の問題におけるUVR(ハンガリー人民共和国)と旧西独の協調について」と明記され、チェコ語からの翻訳というメモの下に大文字で「Topsecret!」と書かれていた。
チェコスロバキア情報機関の文書は「東ドイツ難民に対するハンガリー側の行動には、経済的、財政的、および外交政策上の理由があることは明らかだ」と述べ、その理由として「ハンガリーは西ドイツの銀行、連邦共和国に多額の借金を抱えていた。ハンガリーは債権者に25億ドル以上を支払わなければならない。ハンガリー政府は当時、銀行との立場を失わないために、国際金融市場で必要な資金を得ようとしていた」と説明している。
当方はこのコラム欄で鉄のカーテン切断30周年の2019年8月19日、「ハンガリーとオーストリア両国間の国境が一時解放され、約600人の旧東独国民がオーストリアに入国し、そこから旧西独に亡命していった。同出来事は『ベルリンの壁』崩壊をもたらす契機となった歴史的出来事となった。あれから30年目を迎えた19日、ハンガリー北西部のショプロン市でメルケル独首相とハンガリーのオルバン首相が会見し、国境解放30年を祝った」と書いたが、鉄のカーテンが落ちたのはハンガリー政府とオーストリア政府の英断もあったが、ハンガリー側には経済的な理由があったことになる(「30年前に東西間の国境が開かれた」2019年8月20日参考)。
ちなみに、国境解放の直接の契機は、汎ヨーロピアン・ピクニックが両国国境近くでベルリンの壁崩壊を訴える集会を開催したが、その時、ハンガリー入りしていた多くの旧東独国民はハンガリー・オーストリア間の国境が一時解放されると聞き、国境に殺到していった。それに先立ち、ハンガリーとオーストリア両国は1989年6月27日、両国国境線に張り巡らせられていた鉄条網(鉄のカーテン)を切断している。
旧東西両ドイツ間では、東ドイツからの政治犯の身代金は何十年にもわたって確立された慣行だった。西ドイツ政府は当初、1人あたり約3万マルクを支払った。最初は現金で、後に食品、工業製品、さらには石油、銅、銀の形で支払われた。チェコスロバキアの諜報機関からの情報が正しければ、ブダペストとボンの間の取引でもこの慣行が実行されたものと受け取られている。
1989年10月5日付けのチェコスロバキアのシークレットサービスからの2番目の文書は、ワルシャワの旧西独大使館で230人の東ドイツ難民の救済のために「ハンガリーのモデルに基づいた解決策がとられた」と記述している。この文書も「トップシークレット!」とマークされていたという。
チェコスロバキアの情報機関の文書は、ベルリンの壁崩壊の歴史に新たな光を当てることになるかもしれない。明確な点は、ハンガリーが国境開放の見返りを期待しなかったという主張は、2つのチェコスロバキアのシークレットサービスのレポートの内容とは一致しないことだ。

▲ハンガリーの共産党政権時代の最後の首相、ミクローシュ・ネーメト首相(写真は当方とのインタビューに応じるハンガリーのネーメト首相、1989年10月2日、首相執務室で、ハンガリー国営MTI通信)
多くの旧東独国民は1989年5月以降、ハンガリー国境を越えて西側に逃亡していった。8月には、最初の大規模な脱出があった。それを受け、ハンガリー政府は1989年9月10〜11日の夜、国境を開放。次の数日で、何万人もの東ドイツ市民が西側に逃げた。ハンガリー政府は当時、「鉄のカーテン」を切断することで東西両ドイツ分断時代に終焉を告げる歴史的役割を果たした、と評価されてきた。
ハンガリーのミクローシュ・ネ―メト首相は当時、「ハンガリーは何の見返りも求めていない。ハンガリーは人を売らない」と説明してきたが、ドイツ公共放送文化局が入手した文書は、この主張に疑問を投げかけている。当時のチェコスロバキアのシークレットサービスが1989年秋、旧東独シュタージに送った文書の中で、「当時の西独政府はハンガリーに経済的支援を提供し、その代わりに東ドイツから逃れたい人々のために鉄のカーテンを開かせた」ことを示唆していたという。
独連邦公文書館のシュタージ記録局からの文書には、「チェコスロバキア(CSSR)の治安機関の情報。東ドイツ難民の問題におけるUVR(ハンガリー人民共和国)と旧西独の協調について」と明記され、チェコ語からの翻訳というメモの下に大文字で「Topsecret!」と書かれていた。
チェコスロバキア情報機関の文書は「東ドイツ難民に対するハンガリー側の行動には、経済的、財政的、および外交政策上の理由があることは明らかだ」と述べ、その理由として「ハンガリーは西ドイツの銀行、連邦共和国に多額の借金を抱えていた。ハンガリーは債権者に25億ドル以上を支払わなければならない。ハンガリー政府は当時、銀行との立場を失わないために、国際金融市場で必要な資金を得ようとしていた」と説明している。
当方はこのコラム欄で鉄のカーテン切断30周年の2019年8月19日、「ハンガリーとオーストリア両国間の国境が一時解放され、約600人の旧東独国民がオーストリアに入国し、そこから旧西独に亡命していった。同出来事は『ベルリンの壁』崩壊をもたらす契機となった歴史的出来事となった。あれから30年目を迎えた19日、ハンガリー北西部のショプロン市でメルケル独首相とハンガリーのオルバン首相が会見し、国境解放30年を祝った」と書いたが、鉄のカーテンが落ちたのはハンガリー政府とオーストリア政府の英断もあったが、ハンガリー側には経済的な理由があったことになる(「30年前に東西間の国境が開かれた」2019年8月20日参考)。
ちなみに、国境解放の直接の契機は、汎ヨーロピアン・ピクニックが両国国境近くでベルリンの壁崩壊を訴える集会を開催したが、その時、ハンガリー入りしていた多くの旧東独国民はハンガリー・オーストリア間の国境が一時解放されると聞き、国境に殺到していった。それに先立ち、ハンガリーとオーストリア両国は1989年6月27日、両国国境線に張り巡らせられていた鉄条網(鉄のカーテン)を切断している。
旧東西両ドイツ間では、東ドイツからの政治犯の身代金は何十年にもわたって確立された慣行だった。西ドイツ政府は当初、1人あたり約3万マルクを支払った。最初は現金で、後に食品、工業製品、さらには石油、銅、銀の形で支払われた。チェコスロバキアの諜報機関からの情報が正しければ、ブダペストとボンの間の取引でもこの慣行が実行されたものと受け取られている。
1989年10月5日付けのチェコスロバキアのシークレットサービスからの2番目の文書は、ワルシャワの旧西独大使館で230人の東ドイツ難民の救済のために「ハンガリーのモデルに基づいた解決策がとられた」と記述している。この文書も「トップシークレット!」とマークされていたという。
チェコスロバキアの情報機関の文書は、ベルリンの壁崩壊の歴史に新たな光を当てることになるかもしれない。明確な点は、ハンガリーが国境開放の見返りを期待しなかったという主張は、2つのチェコスロバキアのシークレットサービスのレポートの内容とは一致しないことだ。
