安倍晋三元首相の暗殺事件を契機に、事件の背景に自民党議員と「特定の宗教」との関係があったとして「政治」と「宗教」の関係について再び問題となってきた。「再び」と書いたのは、このテーマは日本だけではなく、キリスト教文化圏の欧州でも程度の差こそあれ話題となってきたからだ。

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▲オーストリアのローマ・カトリック教会のシンボル、シュテファン大聖堂

 安倍元首相暗殺事件の山上徹也容疑者の供述によると、容疑者の母親が宗教団体に高額献金し、その結果、家が破産したとして、容疑者はその宗教団体を恨み、団体と関係があると判断した安倍元首相の銃殺を計画したという。この供述が報じられると、政治家と宗教団体との関係にスポットライトが当てられ、「政治」と「宗教」の分離(政教分離)を唱える声が高まってきたわけだ。特に「憲法9条の死守」を叫ぶ左派的メディア、論客、知識人たちから聞かれだした。

 宗教団体と過去関係があった自民党議員たちはメディアからの激しい追及を恐れ、「私は同団体とは関係がありません」「祝電を送っただけだ」と次々と弁明に追われた。靖国神社参拝では記者たちから「私人ですか、それとも公人の立場から参拝されたのですか」といった質問が首相や閣僚たちに向かって飛び出し、その返答に苦慮する政治家の姿は慣例の行事となった。靖国神社への参拝は、多くの戦没者に敬意と感謝を表するものであり、「政治」と「宗教」の分離原則には違反していないが、左派系メディアからは常に戦前の軍事主義への回帰といった枠組みから報じられてきた。

 左派系メディアが強調する「政治と宗教」の分離はフランスから始まった思想だ。「政教分離」(ライシテ)は宗教への国家の中立性、世俗性、政教分離などを内包した概念だ。フランスは1905年以来、ライシテを標榜し、時間の経過につれて、神を侮辱したとしても批判を受けたり、処罰されることがないと理解されてきた。マクロン仏大統領は2020年9月1日、訪問先のレバノンで「フランスには神を侮辱する自由がある」と主張して物議を醸したことがあった。

 そのカトリック教国フランスで2021年10月5日、1950年から2020年の70年間、少なくとも3000人の聖職者、神父、修道院関係者が約21万6000人の未成年者への性的虐待を行っていたこと、教会関連内の施設での性犯罪件数を加えると、被害者総数は約33万人に上るという報告書が発表された時、ローマ・カトリック教会の総本山、バチカン教皇庁だけではなく、教会外の一般の人々にも大きな衝撃を与えた。

 聖職者の未成年者への性的虐待事件が多発し、教会への信頼が著しく傷つけられる一方、性犯罪を犯した聖職者を「告白の守秘義務」という名目のもとで教会上層部が隠蔽してきた実態が明らかになり、聖職者の告白の守秘義務を撤回すべきだという声が高まった。

 エリック・ド・ムーラン=ビューフォート大司教は2021年10月6日、ツイッターで、「教会の告白の守秘義務はフランス共和国の法よりも上位に位置する」と述べた。その内容が報じられると、聖職者の性犯罪の犠牲者ばかりか、各方面の有識者からもブーイングが起きた(「聖職者の性犯罪と『告白の守秘義務』」2021年10月18日参考)。

 しかし、聖職者の性犯罪問題をきっかけに、国は宗教への中立性を放棄し、教会に「この世の法」を遵守すべきだと主張、教会側は教会法の修正を強いられ、「この世の法」に歩み寄りを示してきた。そのプロセスの中でライシテの名目で認知されてきた「神を冒涜したり、侮辱する権利」への再考もテーマとなっていったわけだ(「人には『冒涜する自由』があるか」2020年9月5日参考)。

 また、欧州の盟主ドイツでも野党第一党「キリスト教民主同盟」(CDU)ではメルケル政権時代から見られた保守派有権者のCDU離れを阻止するために、党結成当時のキリスト教精神に回帰すべきだという声が聞かれてきた。社会の世俗化の中で失われてきた「キリスト教」(C)への回帰だ。換言すれば、キリスト教価値観を日々の政治活動に積極的に活用すべきだというわけだ。「政治」と「宗教」の分離とは一見、逆方向だ(「独CDU/CSUから『C』が抜ける日」2021年9月29日参考)。

 そして「宗教の百貨店」と呼ばれる日本では左派系メディアを中心に厳格な「政治と宗教」の分離を求める声が高まったきたわけだ。その直接の契機は、先述したように、安倍元首相暗殺事件で浮かび上がった自民党議員と特定宗教団体との関係だ。日本では政治家が選挙活動で宗教団体から無償の奉仕活動員の助けを受け、宗教団体は政治家にその活動の法的保護を受けるといった一種の癒着関係が生まれてくるとして、政教分離は不可欠だ、という主張だ。

 当方は「政治」と「宗教」は本来分けることができない人間の基本的な活動領域と考えている。「政治なき宗教」も「宗教なき政治」も考えられない。人間には心と体があるように、政治と宗教が一体化しない限り、理想的な社会は建設できない。両者は相互補助関係だ。人間は限りなく、政治的であり、同時に宗教的な存在ではないか。宗教的背景の皆無な文化イベントは少ない。

 政教分離は本来、政治の宗教への干渉を防ぎ、「宗教の自由」を守ることが出発点だった。日本の政教分離論争は与野党の争いの道具に過ぎず、その狙いが「宗教の自由」をこれまで以上に制限する方向に向けられていることに一抹の不安を感じる。