中国共産党政権がアフリカ・アジアなどの開発途上国に積極的に進出し、経済支援などを通じてその影響力を拡大してきたことは周知の事実だ。その結果、数がものをいう国連内(加盟国193カ国)のトップ選出や議題採決では中国は自国の政策や候補者への支持を欧米諸国より容易に貫徹できる。中国共産党政権の国連での影響力拡大は世界の安全保障上大きなマイナスだ、といった懸念の声がこれまで国連外交を疎んじてきた米国内でもようやく聞かれてきた。

HC-Bachelet
▲8月末に退官するバチェレ国連人権高等弁務官(OHCHR公式サイトから)

 ところで、ジュネーブの国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)のミシェル・バチェレ高等弁務官は6月、「再選に出馬しない」と表明、8月末に退官する意向を明らかにした。同時に、退官前に中国新疆ウイグル自治区の少数民族の人権状況をまとめた報告書を公表するという。中国側はその報告書の公表を阻止するために加盟国に書簡を送っているという。ロイター通信が今月19日、報道した。

 バチェレ高等弁務官は今年5月、6日間の日程で中国新疆ウイグル自治区を現地視察した。中国は国連側の現地調査を最後まで拒否してきたが、バチェレ氏の忍耐強い交渉の末、2005年以来、17年ぶりの人権高等弁務官の訪中となった。ただ、5月28日の訪中後の記者会見で、「国連側は中国の少数民族ウイグル人への弾圧政策の見直しと改善を要求し、同自治区で行方不明の国民に関連する情報を家族側に提示することを求め、国連側と中国側は今後も同問題で会合をすることで一致した」というだけに留まった。ウイグル人強制収容所への視察もかなわなかった。

 当方はこのコラム欄で「中国での現地調査・視察は無意味だ」(2022年5月30日参考)で書いたが、中国側が事前に管理した日程に基づいた現地視察はもともと成果は期待できない。最近では、世界保健機関(WHO)の新型コロナウイルスの「武漢ウイルス調査団」の調査でも明らかになったばかりだ。中国側の準備した科学者と会合し、国連調査団には親中派の学者が参加していたWHO武漢ウイルス調査団は典型的な例だろう。

 バチェレ氏の訪中結果に対して国際人権団体から厳しい批判の声が続出した。「バチェレ氏は、新疆ウイグル自治区での人道に対する罪やチベットと香港での大規模な弾圧、人権擁護者や弁護士らの強制失踪や恣意的拘束といった国内の人権状況にはまったく言及していない。バチェレ氏の対中姿勢は被害者や人権擁護者との連帯感の著しい欠如、強大な政府の責任を追及する能力あるいは準備の不足をさらけ出した」(スイス公共放送SRFのスイス・インフォ)といった辛辣なコメントまで聞かれた。

 国際人権グループは、「中国新疆ウイグル自治区では少なくとも100万人のウイグル人と他のイスラム教徒が再教育キャンプに収容され、固有の宗教、文化、言語を放棄させられ、強制的な同化政策を受けている」と批判してきた。中国共産党政権は、「強制収容所ではなく、職業訓練所、再教育施設だ」と説明するが、現状はウイグル民族の抹殺が進められている。ポンぺオ前米国務長官は中国の少数民族への同化政策を「ジェノサイド」と呼んでいる。

 バチェレ氏の任期は8月末で終わるが、その前に少数派民族ウイグル人への弾圧状況を集めた「ウイグル人権報告書」を作成し、その公表を準備している。それに対し、在ジュネーブ中国外交官は加盟国にバチェレ氏の人権報告書の公表を阻止すべきだという書簡を送っている。報告書はウイグル人の強制労働を含む、数々の人権弾圧を明確に指摘している。それに対し、中国側は「grave concern」(大きな懸念)と反発し、「人権の政治的利用を許さない。内政干渉だ」とバチェレ氏を激しく批判している。

 バチェレ氏は6月の再選出馬断念を「家庭の事情」と説明したが、再選に出馬した場合、中国側の圧力を回避できなくなるから、ウイグル人の人権弾圧報告書は公表できなくなる可能性が出てくる。当方の推測だが、バチェレ氏は再選出馬を断念する代わりに、報告書を公表しようと考えたのかもしれない。

 中国側は追い込まれたわけだ。そこで6月末から加盟国へ「報告書の公表阻止」を求める書簡を送ったのだろう。中国の書簡にどれだけの支持表明があったかは不明だが、在ジュネーブの中国外交官筋では「100カ国近くが中国側の主張を支持している」という。中国側の攻勢を受け、加盟国の中には「バチェレ氏は権限なしで独自の判断で報告書を作成し、公表することはOHCHRの規約違反になる」といったバチェレ氏批判の声が高まっているという。

 バチェレ氏の最後の報告書となる「ウイグル人弾圧報告書」が実際、公表されるかは現時点では不明だ。バチェレ氏はチリの元大統領(任期2014年〜18年)だ。南米初の女性として国のトップに選出された。ピノチェト軍事独裁政権下で逮捕された父親は獄死し、自身も拘束された体験を持つ。バチェレ氏は今回、退任前、大国・中国の人権弾圧を公表することで有終の美を飾ろうとしているのかもしれない。それとも、成果がなく終わった訪中で失った自身の名誉回復のために戦っているのだろうか。