神は「愛」であり、「全知」、「全能」で「義」なる存在といわれてきた。一方、世界では戦争、飢餓、病などに人間は苦しんできた。この両者を如何に調和させて理解するか、神を信じる人々は悩んできた。特に、一神教のユダヤ教やキリスト教の信者たちは深刻だった。キリスト教では、「神義論」(独語Theodizee)と呼ばれ、全知、全能、義の神と人間社会の苦悩をどのように調和させて解釈するかを久しく考えてきた。

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▲ロシア軍の攻撃で廃墟化したマリウポリ(2022年4月19日、バチカンニュースから、写真はALEXANDER ERMOCHENKO)

 身近な例を挙げる。ロシア軍がウクライナに侵攻し、多数のウクライナ国民が命を失い、家族を亡くし、家屋、財産を失っている。敬虔なウクライナ正教徒ならば「神よ、なぜあなたはロシア軍の蛮行を止められないのか」、「私の子供が死んだ時、あなたはどこにおられたのか」と祈りの中で神に問うだろう。多くの場合、神から答えを得ることなく、住み慣れた街から異国の地に避難していったはずだ。

 ドイツの民間放送でウクライナ情勢をフォローしていると、ポーランドやルーマニアなどに避難してきたウクライナ人女性たちは国に残って戦っている夫や避難できなかった高齢の両親の身を案じながら涙するシーンが報道されていた。多分、彼女たちには、「なぜ、このようなことが起きるのか」といった衝撃と悲しみ、その問いに沈黙する神への憤りも含まれていたのではないか。

 人は有史以来、何度も「なぜ」と呟いてきた。「マザー・テレサ」と呼ばれ、世界に親しまれていたカトリック教会修道女テレサは貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞したが、彼女は生前、一通の書簡を残していた。その中で、「なぜ、コルカタ(カラカッタ)で死に行く多くの貧者を神は見捨てるのか」、「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」、「どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか」等の問い掛けを記述していたという。そして「神、イエスは何も答えてくれない」と嘆いている(「マザー・テレサの苦悩」2007年8月28日参考)。

 第2次世界大戦では約600万人のユダヤ人が殺された。彼らの多くは強制収容所で神に問いかけたはずだ。「なぜ」と。アウシュビッツ後、多くのユダヤ人は信仰の危機に直面した。「われわれがアウシュヴィッツにいた時、義の神は何をしていたのか」、「なぜ我々を救ってくれないのか」という深刻な問いかけだ。そして神への不信が深まり、信仰を失ったユダヤ人も出てきたという(「アウシュヴィッツ以降の『神』」2016年7月20日参考)。

 旧約聖書には「ヨブ記」がある。主人公のヨブはイスラエル人ではない。話も舞台もイスラエル人が住んでいた地域ではなく、中近東地域に伝わっていた民話だ。

 信仰深いヨブはその土地の名士として栄えていた。神は悪魔に、「この世にヨブのように正しく神を恐れ悪に遠ざかる者はいない」と自慢すると、悪魔は、「当たり前ですよ、あなたがヨブを祝福し、恵みを与えたからです」と答えた。そこで神は、「家族、家畜、財産を奪ったとしてもヨブの信仰は変わらない」と言い、それを実証するために、ヨブから一つ一つ神の祝福が奪われていった。所有物の牛やロバや財産を奪われ、子供を奪われる。ヨブは1人となった。ヨブは、はじめは、「主が与え主が取られたのだ。裸で母の胎を出たのだから、裸で帰ろう」と、神に向かって愚かなことを言わず、口で罪を犯さなかった。しかし肉と骨をも撃たれ、全身に腫物が出来て苦しめられると次第に、なぜ神は全てを奪うのか、この試練をどう受け止めたらいいのかと苦悩する。友人たちがヨブを訪ね、「誰が罪の無いのに滅ぼされたものがあるか。あなたが神への信仰を失ったからだ」と、ヨブを責め立てる。

 ヨブの話は当時のユダヤ人たちを驚かせた。ヨブは正しい人だったが、試練を受けたからだ。イェール大学の聖書学者、クリスティーネ・ヘイス教授は、「ユダヤ教では、神の戒めを守り、いいことをすれば神の報酬を受け、そうではない場合、神から罰せられるといった信仰観が支配的だったが、ヨブ記は悪いことをしていない人間も試練を受けることがあることを記述することで、従来のユダヤ教の信仰に大きな衝撃を与えた」と述べている。

 スイス人の精神分析学者カール・グスタフ・ユング(1875年〜1961年)は「ヨブ記」を研究している。ユングは「Antwort auf Hiob」(「ヨブへの答え」)という本の中で、「なぜ義なる人間が迫害されるのか」というヨブの問いに答えを探している。

 ユングによれば、神はヨブの質問を無視していたわけではない。神は後日、自分の一人子イエスを送り、イエスが十字架で肉体的な苦痛を受けることでヨブの苦しみを追体験し、ヨブに謝罪した、と解釈している。ユングは完全な善、義の神では解決できなかった人間の苦悩問題に解決を見出すために、神を人間の世界にまで引き寄せたわけだ。

 ユングは「神には善と悪の両側面がある」と主張、神は人間にとって「救い主」であると同時に「加害者」ともなると考えた。善と悪の間で葛藤する人間を理解するためには、神自身の中に善悪の両側面がなければならないからだ。いずれにしても、ユングの指摘はキリスト教会から当時、批判を受ける結果となった。