事の良し悪しは別として、日本人の男性は勤めから家に帰ると、「飯」、「風呂」、「寝る」の3つの言葉しか口に出さないと揶揄われた時期があったと聞くが、家庭生活では「お願い、ありがとう、ごめん」の3つの言葉こそ平和な家庭生活を築く上でのキーワードとなるという。これは今月84歳となったばかりのカトリック教会最高指導者フランシスコ教皇が27日に語ったものだ。同教皇は同時に、来年3月から1年間余りを「家庭の年」とすることを明らかにした。「家庭」がカムバックしてきたのだ。

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▲「家庭の年」を宣言したフランシスコ教皇(バチカンニュース公式サイトから)

 フランシスコ教皇はカトリック教徒の婚姻、家庭観への理解を深める固有の年を宣言した。具体的には、同教皇の回勅「Amoris laetitia」(「愛の喜び」)5周年目を迎える来年3月19日から1年間だ。教皇は、「イエスの聖家族に倣って、家庭への愛を改めて確認するために、1年間、家庭の年とする」という。

 回勅「愛の喜び」はフランシスコ教皇が2014年と15年開催された「家庭に関する公会議」の結果をまとめたもので、その300頁にも及ぶ回勅の中で、教皇は再婚者に対してコミュニオンを認める道を開いた。フランシスコ教皇は来年3月19日から「第10回世界家庭の集い」(2022年6月26日)がローマで開催されるまで、「家庭」を牧会のキーワードとするという。

 フランシスコ教皇が「家庭の年」で強調したいのは「家庭の教育的価値」を再発見することだという。以下はフランシスコ教皇の良きカトリック教徒の家庭へのアドバイスだ。

 「家庭は愛をその土台としなければならない。家庭内の関係は常に希望の地平線を切り開かなければならない」
 「誠実な交わりは可能だ。相互の慈愛と神への変わらない信仰があれば、深く純粋な愛情と間違いを許すことで、日々の困難を緩和できる」
 「激しいいがみ合いや不和が生じた時は眠る前にそれらを解決する努力をすべきだ。さもなければ、翌日はもっと厳しくなるからだ」
 「家庭で共存する上で必要な3つの言葉は、『お願い』、『感謝』、『赦し』だ」(一般的な言葉では、お願い、ありがとう、ごめんなさい)。

 ところで、世界最高峰のエベレストを登頂したことがない人がネパールのエベレストの麓に集まった登山家を前に、どうしたらエベレストを登頂できるかを説明した場合、誰がその説明に耳を傾けるだろうか。同じことが「理想的な家庭づくり」という課題に対し、家庭を築いたことがない人が家庭持ちの人々の前で「どうしたらいい家庭を築けるか」を説明したとしても共感を得ることは難しいだろう。

 フランシスコ教皇が如何に賢者であり、表現力のタレントを有した教皇としても、生涯を神の前に帰依してきた宗教指導者だ。家庭内の具体的な問題で、具体的なアドバイスを提供することは容易ではないはずだ。

 もちろん、フランシスコ教皇も子供時代、両親から家庭の愛を受けた体験があっただろう。「愛」は欠乏していなかったかもしれない。しかし、それは親から来る愛であり、婚姻して夫婦が相互に交換する愛「夫婦の愛」ではなかったはずだ。

 キリスト教会では「教会」は家庭だ。そこでは聖職をする者もそこに集う信者も家庭の一員だ。神を親として兄弟姉妹というわけだ。だから、家庭が抱える諸問題に対して聖職者は語る資格がある。換言すれば、聖職者は羊飼いであり、信者たちは羊だ。羊は羊飼いの声に耳を傾ける。ここまでは分かるが、問題は、家庭に不和が生じた場合、羊が羊飼いの命令に従わなかった場合だ。家庭は崩壊し、教会は混乱に陥る。

 世界に24億人以上のキリスト信者がいる。彼らはイエスを救い主として信じる。そのイエスは33年の生涯、十字架にかかるまで婚姻できずに終わった。イエスの福音を教えとするキリスト教は独身者イエスを頭として始まった宗教だ。その宗教の主要宗派カトリック教会は聖職者の独身制を敷いてきた。イエスがそうであったように、という名目はあるが、カトリック教会は独身者が創設し、独身者の聖職者が教会を運営してきた。そして今日、フランシスコ教皇は「家庭の年」を宣言し、家庭の教育的価値の再認識を呼び掛けている、というわけだ。

 フランシスコ教皇には、「ナザレのイエスの家庭」こそ理想家庭だったという思い込みがあるが、福音書を偏見なく読むと、イエスと母親マリアとの関係は決して理想的だったわけではなかった。マリアは息子イエスを最後まで理解できなかった。イエスが誕生した後に生まれた弟たちとの関係、夫ヨセフとマリアの関係もフランシスコ教皇が信じているような「理想的な家庭」(聖家庭)ではなかったのだ(「『聖母マリア』神聖化の隠された理由」2015年8月17日参考)。

 イエスが漁夫や売春婦に福音を述べている時、弟子が「お母さんが外で呼んでおられます」と言ってきた。その時、イエスは「私の母、私の兄弟とは誰のことか。見なさい、ここに私の母、兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ福音書第3章)と返答している。

 ガリラヤのカナの婚礼では、葡萄酒を取りに行かせようとした母マリアに対し、イエスは、「婦人よ、あなたは私と何の係りがありますか」(ヨハネ福音書第2章)と述べ、親族の結婚式のために没頭するマリアに不快の思いすら吐露している。

 家庭は社会の最小単位だ。その家庭が揺れれば、社会も国家も揺れる。だから「健全な家庭」は個人の目標というより、社会、国家が取り組んでいかなければならない最も重要な問題といわざるを得ない。その意味で、フランシスコ教皇の問題意識は間違いないが、先述したように、エベレストを登頂してもいないのに、登山家にアドバイスを与える似非登山家のように、家庭を築かない人が良き家庭づくりの講話をしているような、違和感がどうしても払しょくできないのだ。

 84歳のフランシスコ教皇に「家庭を持ってほしい」とはいわないが、聖職者の独身制は早急に廃止してほしい。そして「家庭問題」で立派な講和ができる後継者を育成して頂きたい。世界の全ての問題は「家庭」から始まっているからだ。

 それにしても、フランシスコ教皇が語った良き家庭のための3つの言葉、「お願い」、「ありがとう」、そして「ごめんなさい」はなんと美しい言葉だろうか。