独カトリック教会のラインハルド・マルクス枢機卿は25日、ミュンヘンのクリスマス記念礼拝で、「神はコロナ時代、集中治療室(ICU)におられ、看護ハウスやホームレスの孤独な人々、レスボス島の難民キャンプの子供たちの傍におられる」と述べた。多分、その通りだろう。それにしても、なぜ神は幸福な人々の傍には訊ねてこられないのだろうか。

▲ミケランジェロの作品「アダムの創造」(ウィキぺディアから)
その疑問に対し、キリスト教は過去、答えてきた。幸福な人には慰めや励ましの言葉は必要ないので、神はそれらの人々の前では手持ちぶさたになって、何もすることがないからだという。マルクス枢機卿のように、少し神を研究した人は、「神自身が集中治療室におられ、理解されず路上を放浪しているから、神はそれらの人々に心が魅かれるのではないか」という。文学的に表現する神学者は「悲しみの神」という。
ちなみに、ユダヤ民族はディアスポラと呼ばれるが、彼らは「神も放浪する我々と共におられる」と考え、「放浪する神」と呼ぶ。実際、ユダヤ民族は神が宿る幕屋を運びながら放浪してきた。
イエスは山上の説教で「悲しんでいる人は幸いだ。彼らは慰められる」と語っている。キリスト教は「愛の宗教」といわれるが、むしろ悲しんでいる人々の「慰めの神」というべきかもしれない。そんな表現をすれば、冷静な人ならば、「ヘーゲル法哲学批判」の中で「宗教は民衆のアヘン」と述べたマルクスの主張を取り出してきて、「神は、現世の苦しみ、悲しみを忘れるためのアヘンのような役割を果たしている」と指摘するかもしれない。
「宗教はアヘンだ」という表現は少々、攻撃的過ぎるが、間違っているわけではない。厳しい人生を生き抜くためにはシラフでは難しいから、酒に手が伸び、麻薬類を摂取する人々が出てくるように、宗教に頼る人も出てくるからだ。
慰めではなく、苦境から脱出する解決策を願う人々は「慰めの神」に飽き足らず離れていく。しかし、一生涯慰めや温かい愛の言葉を必要としない人は少ない。時が来れば、多くの人々は神の懐に戻ってくる。アイルランドの劇作家オスカー・ワイルド(1854〜1900年)は「放蕩息子は必ず戻ってくるものだ」と述べている。「宗教はアヘン」と誹謗してきた共産主義者も死の床で神父から懺悔と終油の秘跡を受け、キリスト者として回心した人々がいる。ただし、これは神の勝利というより、悲しみ、苦しみの痛みが「宗教はアヘン」といった言葉に勝利したというべきかもしれない(「グスタフ・フサークの回心」2006年10月26日参考)。
「信仰の祖」と呼ばれるアブラハムから派生したユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教は砂漠で生まれた。だから、宗教学者は「砂漠の宗教」と呼んでいる。砂漠では生きていく上で必要なものすら見つからない。生死に彷徨う人は天を仰ぎ、救いを求め、ある時は怒りを発する。そこから唯一の神を信仰する宗教が誕生した。そしてその神は「私は妬む神だ」(出エジプト記20章5節)と述べ、自身への完全な帰依を要求する。
なぜ宮殿生活では唯一信仰が生まれてこなかったのだろうか。彼らにも拝む対象はあった。モーセが60万人のイスラエル人を引き連れてカナンに向かったが、モーセが住んでいたエジプトのパロ宮廷ではさまざまな神々が拝む対象となった。砂漠の宗教の神ではなかったから、「私は妬む神」といった強迫はしない。自分たちが豊かに楽しむ喜びを得るために、それらの神々は拝まれてきた。その意味で、「宮殿の神」は拝む人々に奉仕する神であり、賞味期限付きの神といえるわけだ。
それでは「宗教」はいつ始まったのか、誰がその創始者だったのか。旧約聖書の「失楽園の話」(創世記3章)によれば。神の戒めを破ったアダムとエバは「エデンの園」から追放される。アダムとエバの間にカイン(長男)とアベル(次男)の2人の息子が生まれたが、兄は弟を殺害した。人類の始祖アダムの家庭で姦淫と殺人が起きた。
神はアダムとエバの間に第3の息子を与える。その名をセツと呼ぶ。そしてセツには1人の男の子エノスが生まれた。エノスはヘブライ語で「弱さを持った人」を意味する。ドイツの著名な神学者オイゲン・ドレヴェルマン氏によると、アダムは「人」を意味するが、エノスは(本来の人ではない)「小さな人」を示唆している。そのエノスが生まれた時から、「人々は主の名を呼び始めた」(創世記4章26節)。ドレヴェルマン氏は、「この時から宗教が始まった」と指摘している。「宗教」が誕生した瞬間だ。現代風に表現すれば、神のグレート・リセットだ。
ちなみに、聖パウロは「コリント人への第2の手紙」12章で、「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。なぜならば、私が弱い時にこそ、私は強いからである」と語っている。「弱さを持った人」を意味するエノスから「宗教」が始まったのは決して偶然ではないわけだ。
「砂漠の宗教」、「悲しみの神」、そしてコロナ時代の「集中治療室の神」はエノスから派生した「弱さを持った人々」の神といえるかもしれない。ただし、自身の弱さを正しく理解しなければ、自己憐憫になって傲慢の罠に陥る危険性が出てくる。

▲ミケランジェロの作品「アダムの創造」(ウィキぺディアから)
その疑問に対し、キリスト教は過去、答えてきた。幸福な人には慰めや励ましの言葉は必要ないので、神はそれらの人々の前では手持ちぶさたになって、何もすることがないからだという。マルクス枢機卿のように、少し神を研究した人は、「神自身が集中治療室におられ、理解されず路上を放浪しているから、神はそれらの人々に心が魅かれるのではないか」という。文学的に表現する神学者は「悲しみの神」という。
ちなみに、ユダヤ民族はディアスポラと呼ばれるが、彼らは「神も放浪する我々と共におられる」と考え、「放浪する神」と呼ぶ。実際、ユダヤ民族は神が宿る幕屋を運びながら放浪してきた。
イエスは山上の説教で「悲しんでいる人は幸いだ。彼らは慰められる」と語っている。キリスト教は「愛の宗教」といわれるが、むしろ悲しんでいる人々の「慰めの神」というべきかもしれない。そんな表現をすれば、冷静な人ならば、「ヘーゲル法哲学批判」の中で「宗教は民衆のアヘン」と述べたマルクスの主張を取り出してきて、「神は、現世の苦しみ、悲しみを忘れるためのアヘンのような役割を果たしている」と指摘するかもしれない。
「宗教はアヘンだ」という表現は少々、攻撃的過ぎるが、間違っているわけではない。厳しい人生を生き抜くためにはシラフでは難しいから、酒に手が伸び、麻薬類を摂取する人々が出てくるように、宗教に頼る人も出てくるからだ。
慰めではなく、苦境から脱出する解決策を願う人々は「慰めの神」に飽き足らず離れていく。しかし、一生涯慰めや温かい愛の言葉を必要としない人は少ない。時が来れば、多くの人々は神の懐に戻ってくる。アイルランドの劇作家オスカー・ワイルド(1854〜1900年)は「放蕩息子は必ず戻ってくるものだ」と述べている。「宗教はアヘン」と誹謗してきた共産主義者も死の床で神父から懺悔と終油の秘跡を受け、キリスト者として回心した人々がいる。ただし、これは神の勝利というより、悲しみ、苦しみの痛みが「宗教はアヘン」といった言葉に勝利したというべきかもしれない(「グスタフ・フサークの回心」2006年10月26日参考)。
「信仰の祖」と呼ばれるアブラハムから派生したユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教は砂漠で生まれた。だから、宗教学者は「砂漠の宗教」と呼んでいる。砂漠では生きていく上で必要なものすら見つからない。生死に彷徨う人は天を仰ぎ、救いを求め、ある時は怒りを発する。そこから唯一の神を信仰する宗教が誕生した。そしてその神は「私は妬む神だ」(出エジプト記20章5節)と述べ、自身への完全な帰依を要求する。
なぜ宮殿生活では唯一信仰が生まれてこなかったのだろうか。彼らにも拝む対象はあった。モーセが60万人のイスラエル人を引き連れてカナンに向かったが、モーセが住んでいたエジプトのパロ宮廷ではさまざまな神々が拝む対象となった。砂漠の宗教の神ではなかったから、「私は妬む神」といった強迫はしない。自分たちが豊かに楽しむ喜びを得るために、それらの神々は拝まれてきた。その意味で、「宮殿の神」は拝む人々に奉仕する神であり、賞味期限付きの神といえるわけだ。
それでは「宗教」はいつ始まったのか、誰がその創始者だったのか。旧約聖書の「失楽園の話」(創世記3章)によれば。神の戒めを破ったアダムとエバは「エデンの園」から追放される。アダムとエバの間にカイン(長男)とアベル(次男)の2人の息子が生まれたが、兄は弟を殺害した。人類の始祖アダムの家庭で姦淫と殺人が起きた。
神はアダムとエバの間に第3の息子を与える。その名をセツと呼ぶ。そしてセツには1人の男の子エノスが生まれた。エノスはヘブライ語で「弱さを持った人」を意味する。ドイツの著名な神学者オイゲン・ドレヴェルマン氏によると、アダムは「人」を意味するが、エノスは(本来の人ではない)「小さな人」を示唆している。そのエノスが生まれた時から、「人々は主の名を呼び始めた」(創世記4章26節)。ドレヴェルマン氏は、「この時から宗教が始まった」と指摘している。「宗教」が誕生した瞬間だ。現代風に表現すれば、神のグレート・リセットだ。
ちなみに、聖パウロは「コリント人への第2の手紙」12章で、「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。なぜならば、私が弱い時にこそ、私は強いからである」と語っている。「弱さを持った人」を意味するエノスから「宗教」が始まったのは決して偶然ではないわけだ。
「砂漠の宗教」、「悲しみの神」、そしてコロナ時代の「集中治療室の神」はエノスから派生した「弱さを持った人々」の神といえるかもしれない。ただし、自身の弱さを正しく理解しなければ、自己憐憫になって傲慢の罠に陥る危険性が出てくる。