元日朝国交正常化交渉日本政府代表・遠藤哲也氏が昨年12月18日、都内の病院で亡くなった。84歳。世界日報などメディアで先月も外交問題を扱った鋭い論調の記事を掲載されていたので、同氏の急死を知って驚いた。
▲故遠藤哲也元大使
同氏とは個人的な付き合いはなかったが、1989年から就任された在ウィーン国際機関日本代表部の初代全権大使時代、国際原子力機関(IAEA)の定例理事会の開催前のブリーフィングで顔を合わせ、質問させてもらった。日本代表部の事務所がウィーン市4区プリンツ・オイゲン通りにあった時代だ。
ウィーンには当時、北朝鮮の核問題もあって、日本のメディアから7、8社の特派員が常駐していた。そこには「ウィーン日本人記者クラブ」と命名した存在があった。当方は同記者クラブのメンバーではなかったので大使館主催のブリーフィングや記者会見には声がかからなかった。
重要な定例理事会を前に、当方は日本大使館に電話して、遠藤大使のブリーフィングに参加できないか打診し、参加が許されたことがあった。そこで遠藤大使から理事会への見通しなどを聞くチャンスができた。記者クラブの会員でもない当方がブリーフィングで質問するのを大手新聞社の特派員は嫌な顔をして見ていたが、遠藤大使は当方の質問にも気さくに応じ、丁寧に答えてくれたことを思い出す。
遠藤大使のブリーフィングは評判がよく、定例理事会開催前の大使ブリーフィングを楽しみにしている記者たちが多かった。
同氏がウィーンの任期を終え、日本に戻られてからしばらくすると、93年、日朝国交正常化交渉日本政府代表、そして95年には朝鮮半島エネルギー開発(KEDO)担当大使に就任されるなど、朝鮮半島問題でキーポジションに就いた。遠藤氏のその後の活動を見ながら、「大使はやはり朝鮮半島問題から抜け出せなくなったのだな」と思ったほどだ。
なぜ、そう思ったかを少し説明する。
駐オーストリア北朝鮮大使館所属の外交官が国連工業開発機関(UNIDO)を訪ね、ポストを探しているという情報が流れたことがある。同外交官は平壌から帰国命令が出ていたが、ウィーンに留まりたいと考え、国連で空席のポストがないかを打診していたのだ。「北外交官が政治亡命を考えているのではないか」ということで、日韓外交官には緊張が走った。
元駐英北朝鮮大使館公使だった太永浩氏はその著書「北朝鮮外交秘録」(文藝春秋刊)の中で、「北外交官は一カ月でも長く海外に駐在していたいと腐心するものだ」と書いているが、その時の北外交官もそうだったのかもしれない。一旦、海外に駐在し、西側の自由な空気を吸った外交官は帰りたくないのだ。
北外交官の「亡命説」は、遠藤大使が国連外交官から入手した情報らしい、ということが伝わってきた。それを教えてくれた国連関係者は、「遠藤大使は北外交官の言動に非常に驚いていた」と語った。
遠藤氏は任期を終え、日本に帰国されたが、その直後、朝鮮半島問題を扱う重要なポストに就任されたことを知って、先の「大使はやはり朝鮮半島から離れられなくなったのだな」という感慨を持ったわけだ。
朝鮮半島問題に少しでも踏み込むと、そこから完全に抜け出すことが難しくなる。朝鮮半島には近づいてきた人を離さないようにする“魔”が潜んでいる。遠藤氏はその魔が住む朝鮮半島問題に入り込んでいったのだろう。当方の勝手な見方だが、遠藤氏はウィーンの日本政府全権大使時代、朝鮮半島、北朝鮮問題に触れ、その後の外交官としての方向が決まったのではないだろうか。
世界日報のビューポイント欄で同氏の「2020年の日本外交を展望する」という記事が掲載されていた。そこで遠藤氏は、「対北も米韓との緊密協力の必要」を訴えている。同氏が朝鮮半島をめぐる日本外交の行く末を案じておられたことが伝わってくる。
遠藤哲也氏の御冥福を祈る。
【遠藤哲也氏の略歴】
1935年生まれ。1958年東京大学法学部卒。同年外務省入省。67〜71年在英日本大使館勤務、77〜78年在ロンドン国際戦略問題研究所研究員、89年ウィーン国際機関日本政府代表部初代大使。93年日朝国交正常化交渉日本政府代表、95年朝鮮半島エネルギー開発(KEDO)担当大使、96年駐ニュージーランド大使などを歴任。その後、原子力委員会委員長代理等を経て、日本国際問題研究所特別研究員。専攻は、国際政治、外交、原子力。名誉法学博士(米国デポー大学)。主な著書に『北朝鮮問題をどう解くか』など。
▲故遠藤哲也元大使
同氏とは個人的な付き合いはなかったが、1989年から就任された在ウィーン国際機関日本代表部の初代全権大使時代、国際原子力機関(IAEA)の定例理事会の開催前のブリーフィングで顔を合わせ、質問させてもらった。日本代表部の事務所がウィーン市4区プリンツ・オイゲン通りにあった時代だ。
ウィーンには当時、北朝鮮の核問題もあって、日本のメディアから7、8社の特派員が常駐していた。そこには「ウィーン日本人記者クラブ」と命名した存在があった。当方は同記者クラブのメンバーではなかったので大使館主催のブリーフィングや記者会見には声がかからなかった。
重要な定例理事会を前に、当方は日本大使館に電話して、遠藤大使のブリーフィングに参加できないか打診し、参加が許されたことがあった。そこで遠藤大使から理事会への見通しなどを聞くチャンスができた。記者クラブの会員でもない当方がブリーフィングで質問するのを大手新聞社の特派員は嫌な顔をして見ていたが、遠藤大使は当方の質問にも気さくに応じ、丁寧に答えてくれたことを思い出す。
遠藤大使のブリーフィングは評判がよく、定例理事会開催前の大使ブリーフィングを楽しみにしている記者たちが多かった。
同氏がウィーンの任期を終え、日本に戻られてからしばらくすると、93年、日朝国交正常化交渉日本政府代表、そして95年には朝鮮半島エネルギー開発(KEDO)担当大使に就任されるなど、朝鮮半島問題でキーポジションに就いた。遠藤氏のその後の活動を見ながら、「大使はやはり朝鮮半島問題から抜け出せなくなったのだな」と思ったほどだ。
なぜ、そう思ったかを少し説明する。
駐オーストリア北朝鮮大使館所属の外交官が国連工業開発機関(UNIDO)を訪ね、ポストを探しているという情報が流れたことがある。同外交官は平壌から帰国命令が出ていたが、ウィーンに留まりたいと考え、国連で空席のポストがないかを打診していたのだ。「北外交官が政治亡命を考えているのではないか」ということで、日韓外交官には緊張が走った。
元駐英北朝鮮大使館公使だった太永浩氏はその著書「北朝鮮外交秘録」(文藝春秋刊)の中で、「北外交官は一カ月でも長く海外に駐在していたいと腐心するものだ」と書いているが、その時の北外交官もそうだったのかもしれない。一旦、海外に駐在し、西側の自由な空気を吸った外交官は帰りたくないのだ。
北外交官の「亡命説」は、遠藤大使が国連外交官から入手した情報らしい、ということが伝わってきた。それを教えてくれた国連関係者は、「遠藤大使は北外交官の言動に非常に驚いていた」と語った。
遠藤氏は任期を終え、日本に帰国されたが、その直後、朝鮮半島問題を扱う重要なポストに就任されたことを知って、先の「大使はやはり朝鮮半島から離れられなくなったのだな」という感慨を持ったわけだ。
朝鮮半島問題に少しでも踏み込むと、そこから完全に抜け出すことが難しくなる。朝鮮半島には近づいてきた人を離さないようにする“魔”が潜んでいる。遠藤氏はその魔が住む朝鮮半島問題に入り込んでいったのだろう。当方の勝手な見方だが、遠藤氏はウィーンの日本政府全権大使時代、朝鮮半島、北朝鮮問題に触れ、その後の外交官としての方向が決まったのではないだろうか。
世界日報のビューポイント欄で同氏の「2020年の日本外交を展望する」という記事が掲載されていた。そこで遠藤氏は、「対北も米韓との緊密協力の必要」を訴えている。同氏が朝鮮半島をめぐる日本外交の行く末を案じておられたことが伝わってくる。
遠藤哲也氏の御冥福を祈る。
【遠藤哲也氏の略歴】
1935年生まれ。1958年東京大学法学部卒。同年外務省入省。67〜71年在英日本大使館勤務、77〜78年在ロンドン国際戦略問題研究所研究員、89年ウィーン国際機関日本政府代表部初代大使。93年日朝国交正常化交渉日本政府代表、95年朝鮮半島エネルギー開発(KEDO)担当大使、96年駐ニュージーランド大使などを歴任。その後、原子力委員会委員長代理等を経て、日本国際問題研究所特別研究員。専攻は、国際政治、外交、原子力。名誉法学博士(米国デポー大学)。主な著書に『北朝鮮問題をどう解くか』など。