ウィーン大学でユダヤ教の歴史一般について講義する教授の話を聞いた。教授によると、17、18世紀にはユダヤ民族の間で多くのメシア(キリスト)が出てきたという。本当のメシアというより、自称メシアだったが、ユダヤ民族は今なおメシア、救い主を待ち望んでいることに驚き、心痛くなる(メシアはヘブライ語で「油を注がれた者」で「救い主」を意味する。キリストはギリシャ語で同じ意味)。
▲ヘロデ王時代の神殿の壁「嘆きの壁」(ウィキペディアより)
「今なお」といえば、2000年前、イエスが救い主として降臨したが、ユダヤ民族はイエスをメシアとは考えず、神の教えに反する異端者、悪魔の頭ベルゼブルとして迫害し、十字架にかけて殺害した。
ユダヤ民族は当時、ナザレ出身のイエスをメシアとは思わなかった。現代のユダヤ教徒の中にはイスラム教と同様、イエスを1人の預言者と受け取る人々はいるが、メシアとは考えていない。民族の解放を願っていた当時のユダヤ人の目には青年イエスは民族の解放者というイメージと合致していなかったのだろう。イエスは律法を破壊する危険人物として抹殺された。
イエスの復活後、始まったキリスト教の世界ではユダヤ民族を「メシア殺害民族」として忌み嫌い、嫌悪する傾向が長い間見られたことは事実だが、近代になってキリスト教とユダヤ教の対話が始まり、ユダヤ民族を「メシア殺害民族」というレッテルを貼って中傷することはなくなってきた。
しかし、ナチス・ドイツ軍が欧州を制覇すると、ヒトラーはユダヤ民族を大虐殺したが、その背後にはやはり「メシア殺害民族」という思い込みがあったはずだ。「ドイツ人はアーリア系の卓越した民族」と信じるヒトラーはそれに対抗する民族、神の選民意識が強いユダヤ民族を抹殺しなければならない、といった強迫概念があったのかもしれない。
参考までに、1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命で、その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。ユダヤ民族がロシア革命に深く関与したという事実をノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中で書いている(「ユダヤ民族とその『不愉快な事実』」2014年4月19日参考)。
レーニンも厳密にいえば、母親がドイツ系ユダヤ人だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったといわれる。
ユダヤ民族はヒトラーのナチス軍によって600万人の同胞を殺害されたが、その体験はユダヤ人の神への信仰を揺さぶった。多くのユダヤ人からは、「なぜ、あなたはわが民族をこのように扱い、迫害するのですか」「我々がアウシュヴィッツにいたとき、あなたはどこにおられたのですか」といった叫び声が飛び出した。アウシュヴィッツ前と後では神について大きな変化が生じたわけだ(「アウシュヴィッツ以後の『神』」2016年7月20日参考)。
先述した教授は、「ユダヤ人の中には、アウシュビッツで殺害されたユダヤ人の中にメシアがいたのではないか、という思いがあって苦しむ人々がいる。メシアがひょっとしたら殺されてしまったのではないかという痛恨だ」という。
この話を聞くと、ユダヤ民族のメシアへの思いがどれだけ切ないものかを感じざるを得ないのだ。
ユダヤ民族は“受難の民族”と言われる。その受難は、神を捨て、その教えを放棄した結果の刑罰を意味するのか、それとも選民として世界人類の救済の供え物としての贖罪を意味するのか。アウシュヴィッツ以降の神学はその答えを見出すために苦悶してきたわけだ。
欧州で反ユダヤ主義が再台頭してきた。旧東独ザクセン=アンハルト州の都市ハレ(Halle)で昨年10月9日、27歳のドイツ人、シュテファン・Bがユダヤ教のシナゴーク(会堂)を襲撃する事件が発生した(「旧東独でシナゴーグ襲撃事件」2019年10月11日参考)。
反ユダヤ主義はナチス・ドイツ軍時代から出てきたものではない。中世よりも前まで遡る。ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「ベニスの商人」には強欲なユダヤ人の金貸しシャイロックが登場する。当時、ユダヤ人は他の国民から忌み嫌われる人間のシンボルだったことが分かる。
旧約聖書を読むと、エジプトのパロ王がユダヤ人が自身の懐の中で増え、その影響力を拡大していく状況に強い警戒心を感じる箇所がある。反ユダヤ主義はイエスの十字架前に既に芽生えていたわけだ。ユダヤ民族の流浪はイエスの死後(西暦135年)から始まっている(「なぜ反ユダヤ主義が生まれてきたか」2015年1月28日参考)。
今月27日は「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」 (International Holocaust Remembrance Day)だ。ウィーンの国連でも毎年、追悼集会が開かれる。
▲ヘロデ王時代の神殿の壁「嘆きの壁」(ウィキペディアより)
「今なお」といえば、2000年前、イエスが救い主として降臨したが、ユダヤ民族はイエスをメシアとは考えず、神の教えに反する異端者、悪魔の頭ベルゼブルとして迫害し、十字架にかけて殺害した。
ユダヤ民族は当時、ナザレ出身のイエスをメシアとは思わなかった。現代のユダヤ教徒の中にはイスラム教と同様、イエスを1人の預言者と受け取る人々はいるが、メシアとは考えていない。民族の解放を願っていた当時のユダヤ人の目には青年イエスは民族の解放者というイメージと合致していなかったのだろう。イエスは律法を破壊する危険人物として抹殺された。
イエスの復活後、始まったキリスト教の世界ではユダヤ民族を「メシア殺害民族」として忌み嫌い、嫌悪する傾向が長い間見られたことは事実だが、近代になってキリスト教とユダヤ教の対話が始まり、ユダヤ民族を「メシア殺害民族」というレッテルを貼って中傷することはなくなってきた。
しかし、ナチス・ドイツ軍が欧州を制覇すると、ヒトラーはユダヤ民族を大虐殺したが、その背後にはやはり「メシア殺害民族」という思い込みがあったはずだ。「ドイツ人はアーリア系の卓越した民族」と信じるヒトラーはそれに対抗する民族、神の選民意識が強いユダヤ民族を抹殺しなければならない、といった強迫概念があったのかもしれない。
参考までに、1917年のロシア革命は人類史上初の社会主義革命で、その革命の主導者、ウラジーミル・レーニン自身はロシア人だったが、彼の側近にはユダヤ系出身者が多数を占めていた。ユダヤ民族がロシア革命に深く関与したという事実をノーベル文学賞受賞者のソルジェニーツィンは「200年生きて」という歴史書の中で書いている(「ユダヤ民族とその『不愉快な事実』」2014年4月19日参考)。
レーニンも厳密にいえば、母親がドイツ系ユダヤ人だからユダヤ系ロシア人だ、ともいわれている。カール・マルクスもユダヤ系出身者だったことは良く知られている。すなわち、マルクス・レーニン主義と呼ばれる社会主義思想はユダヤ系出身者によって構築されたわけだ。スターリンがその後、多くのユダヤ人指導者を粛清したのはユダヤ人の影響を抹殺する狙いがあったといわれる。
ユダヤ民族はヒトラーのナチス軍によって600万人の同胞を殺害されたが、その体験はユダヤ人の神への信仰を揺さぶった。多くのユダヤ人からは、「なぜ、あなたはわが民族をこのように扱い、迫害するのですか」「我々がアウシュヴィッツにいたとき、あなたはどこにおられたのですか」といった叫び声が飛び出した。アウシュヴィッツ前と後では神について大きな変化が生じたわけだ(「アウシュヴィッツ以後の『神』」2016年7月20日参考)。
先述した教授は、「ユダヤ人の中には、アウシュビッツで殺害されたユダヤ人の中にメシアがいたのではないか、という思いがあって苦しむ人々がいる。メシアがひょっとしたら殺されてしまったのではないかという痛恨だ」という。
この話を聞くと、ユダヤ民族のメシアへの思いがどれだけ切ないものかを感じざるを得ないのだ。
ユダヤ民族は“受難の民族”と言われる。その受難は、神を捨て、その教えを放棄した結果の刑罰を意味するのか、それとも選民として世界人類の救済の供え物としての贖罪を意味するのか。アウシュヴィッツ以降の神学はその答えを見出すために苦悶してきたわけだ。
欧州で反ユダヤ主義が再台頭してきた。旧東独ザクセン=アンハルト州の都市ハレ(Halle)で昨年10月9日、27歳のドイツ人、シュテファン・Bがユダヤ教のシナゴーク(会堂)を襲撃する事件が発生した(「旧東独でシナゴーグ襲撃事件」2019年10月11日参考)。
反ユダヤ主義はナチス・ドイツ軍時代から出てきたものではない。中世よりも前まで遡る。ウィリアム・シェイクスピアの喜劇「ベニスの商人」には強欲なユダヤ人の金貸しシャイロックが登場する。当時、ユダヤ人は他の国民から忌み嫌われる人間のシンボルだったことが分かる。
旧約聖書を読むと、エジプトのパロ王がユダヤ人が自身の懐の中で増え、その影響力を拡大していく状況に強い警戒心を感じる箇所がある。反ユダヤ主義はイエスの十字架前に既に芽生えていたわけだ。ユダヤ民族の流浪はイエスの死後(西暦135年)から始まっている(「なぜ反ユダヤ主義が生まれてきたか」2015年1月28日参考)。
今月27日は「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」 (International Holocaust Remembrance Day)だ。ウィーンの国連でも毎年、追悼集会が開かれる。