こんなテーマが話題になるのは欧州だからだろう。米国キリスト教の自由教会では礼拝中、祈る信者たちで溢れ、誰もそれを奇に感じることはないが、同じキリスト教圏だが欧州では公の場や礼拝中に、信者たちが声を出して祈ったりする情景は余り見られない。祈りは神父など聖職者に限られている。その見られない光景が16日、カトリック教国のオーストリアのウィーンで起き、その場にカトリック教会最高指導者のシェーンボルン枢機卿だけではなく、クルツ前首相の姿も見られたのだ。
▲ジャン=フランソワ・ミレーの「晩鐘」(ウィキぺディアから)
司会者の牧師は会場にクルツ氏を見つけると、彼を舞台に招き、スモールトークを交わした後、クルツ氏のために声を出して祈りだした。クルツ氏は少し戸惑った顔をしながら、その祈りを聞いていた。会場の1万人余りの若い信者たちも牧師の祈りに合わせ、クルツ氏のために祈りだした。会場はクルツ氏に神の祝福がありますようにと祈る声で溢れた。こんな情景はオーストリアでは絶対見られない。
少し、説明する。「欧州よ、目覚めよ」というテーマでウィーン市内の会場で自由教会主催の会合が行われた。なぜその場にクルツ氏がいたのかは分からない。彼はキリスト教を政治信条とする中道右派の国民党党首だ。欧州で売り出し中の若手の政治家だ。自由教会の信者ではない。考えられるのはオーストリアで9月29日、国民議会の繰り上げ選挙が実施されることから、多数の若者たちが集まる会合に顔を出したのかもしれない。多分、シューンボルン枢機卿も参加することから、通常のキリスト教会の集まりだと考えていたのだろう(多くの若い者たちに祈られたクルツ氏は後日、「自分でも驚いた」と告白している)。
予想されたことだが、クルツ前首相が自由教会の会合に参加し、関係者からメシアのように歓迎され、クルツ氏の勝利のための祈りを受けたことが伝わると、同国のメディアは「前首相が過激なキリスト教会の会合に参加し、熱烈な祈りを受けた」と報じた。ネット上でも大きな反響を呼んだ。野党からは批判の声が出てきた。「政教分離」に反している、といった建前からではない。米国の選挙戦ならば通常だろうが、欧州では政治家が根本主義的なキリスト教信者から熱狂的に歓迎される風景は異様に受け取られるからだ。
祈りは私的なもので、公の場で声を出して祈ることは欧州では考えられない。聖トーマスの流れをくむ懐疑的な欧州知識人は公の場で祈りあう米国人の姿に「偽善」の匂いを嗅ぎつけるほどだ。
欧州の知識人を擁護するためではないが、聖書の中で、祈る場合、隠れて祈るべきだとイエス自身が助言している。新約聖書の「マタイによる福音書」の6章5節から少し引用する。
「祈る時には、偽善者たちがするようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好む。中略、あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」
メディアはクルツ氏が根本主義的なキリスト教会の信者会合に参加し、祈られたことを否定的に報道したが、シェーンボルン枢機卿は「米国では信者たちが政治家のために祈ることは普通のことだ」と弁明する一方、「祈る」ことの重要性を強調していたのが印象的だった。
祈るのはキリスト教徒だけの専売特許ではない。全ての人が祈る。病の人なら、それが癒されることを、家族で苦しんでいる者がいたならば、その人の回復を祈る。家族のため、愛する人の為に祈る。それでは「誰に向かって」祈るのだろうか。神に向かって祈ることもあるが、人間を超えた存在に向かって、救いを求めるために祈ることが多いのではないか。
声を出して祈る場合もあるが、多くの場合、心の中で祈る。「念じる」といってもいいかもしれない。欧州人は米国人よりも公の場で祈ることに臆病だが、米国人と同じようにやはり祈る。
キリスト教会では、祈りで始め、祈りで終わるといわれる。自身の弱さを吐露する祈りは非常に私的だが、それだけにその祈る瞬間は真剣だ。祈るのに、どの宗派に所属しているかは問題ではない。人は生来、祈る存在ではないか。人が自身の弱さに救いを求める時ほど偽りのない純粋な瞬間はないからだ。
ところで、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813〜55年)は祈りについて、「祈りは神を変えず、祈る者を変える」と述べている。ただし、旧約聖書には、悔い改めて真摯に祈る者に神が心を動かされて変わる場面が記述されている。「祈り」は神の心すら変える力を有しているのではないだろうか。
▲ジャン=フランソワ・ミレーの「晩鐘」(ウィキぺディアから)
司会者の牧師は会場にクルツ氏を見つけると、彼を舞台に招き、スモールトークを交わした後、クルツ氏のために声を出して祈りだした。クルツ氏は少し戸惑った顔をしながら、その祈りを聞いていた。会場の1万人余りの若い信者たちも牧師の祈りに合わせ、クルツ氏のために祈りだした。会場はクルツ氏に神の祝福がありますようにと祈る声で溢れた。こんな情景はオーストリアでは絶対見られない。
少し、説明する。「欧州よ、目覚めよ」というテーマでウィーン市内の会場で自由教会主催の会合が行われた。なぜその場にクルツ氏がいたのかは分からない。彼はキリスト教を政治信条とする中道右派の国民党党首だ。欧州で売り出し中の若手の政治家だ。自由教会の信者ではない。考えられるのはオーストリアで9月29日、国民議会の繰り上げ選挙が実施されることから、多数の若者たちが集まる会合に顔を出したのかもしれない。多分、シューンボルン枢機卿も参加することから、通常のキリスト教会の集まりだと考えていたのだろう(多くの若い者たちに祈られたクルツ氏は後日、「自分でも驚いた」と告白している)。
予想されたことだが、クルツ前首相が自由教会の会合に参加し、関係者からメシアのように歓迎され、クルツ氏の勝利のための祈りを受けたことが伝わると、同国のメディアは「前首相が過激なキリスト教会の会合に参加し、熱烈な祈りを受けた」と報じた。ネット上でも大きな反響を呼んだ。野党からは批判の声が出てきた。「政教分離」に反している、といった建前からではない。米国の選挙戦ならば通常だろうが、欧州では政治家が根本主義的なキリスト教信者から熱狂的に歓迎される風景は異様に受け取られるからだ。
祈りは私的なもので、公の場で声を出して祈ることは欧州では考えられない。聖トーマスの流れをくむ懐疑的な欧州知識人は公の場で祈りあう米国人の姿に「偽善」の匂いを嗅ぎつけるほどだ。
欧州の知識人を擁護するためではないが、聖書の中で、祈る場合、隠れて祈るべきだとイエス自身が助言している。新約聖書の「マタイによる福音書」の6章5節から少し引用する。
「祈る時には、偽善者たちがするようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りの辻に立って祈ることを好む。中略、あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」
メディアはクルツ氏が根本主義的なキリスト教会の信者会合に参加し、祈られたことを否定的に報道したが、シェーンボルン枢機卿は「米国では信者たちが政治家のために祈ることは普通のことだ」と弁明する一方、「祈る」ことの重要性を強調していたのが印象的だった。
祈るのはキリスト教徒だけの専売特許ではない。全ての人が祈る。病の人なら、それが癒されることを、家族で苦しんでいる者がいたならば、その人の回復を祈る。家族のため、愛する人の為に祈る。それでは「誰に向かって」祈るのだろうか。神に向かって祈ることもあるが、人間を超えた存在に向かって、救いを求めるために祈ることが多いのではないか。
声を出して祈る場合もあるが、多くの場合、心の中で祈る。「念じる」といってもいいかもしれない。欧州人は米国人よりも公の場で祈ることに臆病だが、米国人と同じようにやはり祈る。
キリスト教会では、祈りで始め、祈りで終わるといわれる。自身の弱さを吐露する祈りは非常に私的だが、それだけにその祈る瞬間は真剣だ。祈るのに、どの宗派に所属しているかは問題ではない。人は生来、祈る存在ではないか。人が自身の弱さに救いを求める時ほど偽りのない純粋な瞬間はないからだ。
ところで、デンマークの哲学者セーレン・キェルケゴール(1813〜55年)は祈りについて、「祈りは神を変えず、祈る者を変える」と述べている。ただし、旧約聖書には、悔い改めて真摯に祈る者に神が心を動かされて変わる場面が記述されている。「祈り」は神の心すら変える力を有しているのではないだろうか。