マレーシアのクアラルンプール国際空港で暗殺された金正男氏(45)の身元確認のため、その息子金ハンソル君(21)が20日夜(現地時間)、マレーシア入りし、遺体の確認を行ったという情報が流れているが、日本時間21日午後6時現在、未確認だ。
 マレーシア側としては遺体が金正男氏であることを確認するために家族のハンソル君にDNAサンプルの提供を要請してきた。北朝鮮側は遺体が金チョルという旅券を所有していたことから、正男氏ではないと主張し、遺体の早急な引き渡しを強く要求している。ハンソル君が遺体が父親正男氏であることを確認すれば、北側の主張は崩れる一方、暗殺の背後に北側の暗躍があったことが更に明らかになる。

 マレーシアからのこのニュースを読んで、正男氏の遺体と対面するハンソル君の心情を考えた。父親が北の工作員によって暗殺されたという事実はハンソル君に大きなショックを与えることは間違いないだろう。それだけだろうか。

 ハンソル君について少し紹介する。同君の名前がメディアで初めて報道されたのは16歳の時だった。ハンソル君は2011年9月、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部モスタルのインターナショナル・スクール(ユナイテッド・ワールド・カレッジ・モスタル分校)に留学した。正男氏の息子がウィーンから遠くないボスニアの国際学校に通うということを聞いて、当方も驚いたものだ。欧州居住の金正男氏の母親(故成恵琳)親族関係者は、「ビザの発給は期待できないだろう」と述べ、ボスニア留学が実現しないと悲観的に語っていたほどだ(「ハンソル君のボスニア入りを追う」2011年10月14日参考)。知人の北外交官によると、同君のお世話は駐オーストリアの北大使館ではなく、駐セルビアのベオグラードの北外交官が担当すると語っていたのを覚えている。正男氏の家族がまだ安全で自由に移動できた時代だ。

 ハンソル君はモスタルの学校を卒業後、13年にパリ政治学院に入学、そこを卒業後、昨年9月から英国のオックスフォード大学大学院に入学する予定だったという。ところが、英日曜紙メール・オン・サンデー(電子版今月18日)によると、「ハンソル君は中国治安関係者から、暗殺の危険性があるためマカオに留まるように」と説得されたという。そのため、オックスフォード大学大学院への進学を断念したというのだ。

 ところで、中国治安関係者は金正男氏とその家族を本当に守る気があったのだろうか。中国側はマレーシアの空港の暗殺計画をなぜ阻止できなかったのか。正男氏がマレーシアの国際空港で暗殺された時、中国治安関係者はどこにいたのか。
 中国側は正男氏家族関係者を北の金正恩政権との取引材料に利用しているだけだ。正恩氏との関係が良好化すれば、正男氏家族は即平壌に引き渡されただろうし、北との関係改善が必要となれば、今回のように暗殺計画も黙認する。
 
 中国治安関係者は「英留学は危険だ」というが、オックスフォード大学周辺はマカオより治安が悪いのか。多種多様の国籍者が自由に行き来し、北側の工作員も出入りするマカオと、オックスフォード周辺の治安では後者が安全であると言わざるを得ない。

 脱北者で英国在留の金主日氏(Kim Joo Il)は元北朝鮮人民軍第5部隊の小隊指揮官の時(2005年8月)脱北した。同氏は今日、英ロンドンのニューモルデン(New Malden)に住み、「Free NK News Paper」を創設して、母国・北朝鮮の民主化のために戦っている。同氏は2013年5月、英国の永住権を獲得、現在は人権と民主主義のための「国際脱北者協会」(INKAHRD)の事務局長を務めている。同氏によると、「欧州には現在約1200人の脱北者が暮らしている。英国には約700人の脱北者が生きている。脱北者の数では英国は韓国に次いで多い」というのだ(「脱北者が英国に亡命する理由」2016年6月7日参考)。

 金主日氏の証言は何を物語っているのか。金主日氏は当方との会見の中で、「英国は政治的、社会的に民主主義の価値が完全に定着し、人権も守られている国だ。その上、英国は米国、韓国、日本とは違い、北の直接の敵ではないので、北当局も英国に逃げた脱北者の親族関係者に対してはかなり寛容だ」と述べた。金主日氏の証言は中国側の主張の根拠を崩す。「韓国に次いで英国は脱北者が多い」という事実は、脱北者の安全状況がマカオよりいいことを物語っているからだ。

 それでは、なぜ中国側はマカオ滞在に拘るのか。脱北者が多い英国にハンソル君が留学すれば、同君がある日、脱北を決意し、北の民主化運動に立ち上がるかもしれないからだ。すなわち、中国治安関係者が「英滞在は危ない」と警告する本当の狙いは、正男氏とその家族を中国の管理下に置き、いつでも利用できる状況を維持したいだけだ。
 ちなみに、ハンソル君が北京側の説得を受け入れ、マカオに留まるのを決意したのは、安全問題というより、財政的問題があったからではないかと推測する。

 ハンソル君はボスニア、パリの大学時代を経て、一人前の大学生に成長した。同君は近い将来、父親正男氏以上に政治発言をする可能性がある。そうなれば平壌を困惑させることは必至だ。だから、北側の暗殺を警戒するというより、ハンソル君を北京の管理下に置き、口を塞ぎたい、というのが北京政府の本音とみて間違いないだろう。

 ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の話に入る。父親を殺されたデンマークの王子ハムレットは父親殺しが誰かを教えられ、報復する話だ。ハンソル君は父親の遺体に対面し、父親の前で報復を誓うかもしれない。聡明で若いハンソル君は北のハムレットとなって立ち上がるかもしれない。中国当局は、ハンソル君が北版ハムレットとなることを可能な限り防ぎたいだろう。

 なお、中国当局とは別の意味から、当方はハンソル君が北のハムレットとなることを願っていない。ハンソル君の前には南北再統一という民族の課題が残されている。新しい世代のハンソル君にはハムレットではなく、南北再統一の実現のために貢献して頂きたいと思うからだ。