同性カップルに「結婚に相当する関係」と認めて「パートナーシップ証明書」を発行することを盛り込んだ東京都渋谷区の「同性婚」条例(正式名称「渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例」)が施行したことから、日本で今、同性婚問題が大きな話題を呼んでいるという。欧州では同テーマは久しく議論され、同性婚は既に市民権を獲得した感がある。そして、“それゆえに”というべきか、欧州キリスト教文化の崩壊現象が至る所で見られだした。
 当方は、同性婚が普遍的な家庭像を破壊し、社会の土台を根底から揺り動かす危険な試みと受け取っている。そこで同性婚問題の背後にあるジェンダー・フリーの思考について、ここでは読者とともに考えたい。

 人間は誰でも「価値」を有する存在であり、民族、宗教、性差などの理由からその価値、人権が蹂躙されてはならない。これは「世界人権宣言」の中にも記述されている内容だ。

 (「世界人権宣言」第2条「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる)

 ところで、ジェンダー・フリーを主張する人々は男女の「性差」による区別を「差別」と指摘し糾弾する。例えば、欧州では同じ仕事をしているにもかかわらず男性の給料と女性のそれとに差がある時、女性側から男女平等の給料を要求する声が当然出てくる。この場合、「性差」の区別は「差別」だという主張に一理ある。
 
 「差別」という用語は本来、社会学用語だ。「性差」の区別を「差別」と受け取るジェンダー・フリーの人々がその「差別」を撤回するために社会運動に乗り出すのは当然だろう。「差別」は社会によってもたらされた現象と考えるからだ。フランスの実存主義者シモーヌ・ボーヴォワールはその著書「第2の性」の中で「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と書いているが、それに通じる考えだ。

 もちろん、ジェンダー・フリーの人々も「性差」が生物的に選択の余地なく、否定できないという認識はあるが、その「性差」による社会的区別は「差別」であり、「悪」と受け取るから、独裁下の弾圧に反対するように、その撤廃のために様々な社会運動を行う。

 問題は次だ。「性差」の区別からもたらされた「差別」を撤回しようと腐心するあまり、「性差」と「差別」が引っ付き、「性差」まで「悪」のように考えてしまう傾向が見られることだ。「性差」も「差別」と考えれば、それを撤回しなければならない。その思考の延長線上に同性婚容認の動きが出てくる。

 「性差」は「差別」ではない。「性差」は生物学的に厳に存在する事実だ。「世界人権宣言」を想起するまでもなく、「性差」に関係なく、男も女も人間としての価値は等しい。「性差」には価値の「差別」はない。あるとすれば、「性差」による社会的、経済的、生物的な「位置」の違いだろう。そして、位置の違いは「差別」ではないのだ。

 ジェンダー・フリーを主張する人々が「価値」の平等だけではなく、「位置」の平等まで要求すれば、問題が生じてくる。なぜならば、全ての人が同じ位置を占めることはできないからだ。簡単な例を挙げてみる。体力の弱い女性に「位置」の平等を訴えて、強靭な体力を要する仕事を課せば、「性差」の撤回どころか、人権蹂躙で訴えられるだろう。一般的に考えてみる。会社で社長という位置に部長が「位置」の平等を訴えて反旗を翻せば、会社は経営できなくなるだろう。
 「位置」の平等はその組織、そして人間の存続を脅かす。同性婚が世界の過半数を占めた場合、人類は果たして存続できるだろうか。「主体」が存在すれば、本来、必然的に「対象」が生まれてくる。そして「主体」と「対象」が円満な関係を構築できれば、両者は作用し、存続し、繁栄できる。その「主体」と「対象」の関係を、対立、搾取・差別の関係と考える思考の背後には、共産主義思想の残滓がある。

 ジェンダー・フリーを主張する人々は、「価値」と「位置」を同列視し、後者に前者が享受している平等を付与すべきだと要求しているのではないか。繰り返すが、「価値」は等しいが、「位置」(位置が要求する役割)は必然的に異ならざるを得ないのだ。