当方は死者の権利を擁護する弁護人でも代弁者でもない。ただ、残念ながらこの地上で死者の尊厳が損なわれていると感じることがあまりに多い。生きている人間は死んだ人間の状況が分からないから、死者が今、何を願い、何をして欲しいか理解できないのは致し方がないが、生きた人間が死者の状況を誤解し、死者に払わなければならない敬意を失っている状況をみると、少々憤りを感じる。

 ハプスブルク王朝最後の皇太子、オットー・ハプスブルクの葬儀の様子をコラム欄で紹介したことがある(「ハプスブルク家の“最後の別れ”」2011年7月18日参考)。欧州を一時期席巻した王朝最後の皇太子であり、「汎欧州同盟」の名誉会長として欧州の統合に人力を尽くした著名人だ。ハプスブルク氏はこの地上の数多いタイトル、称号をもっていた。しかし、それらの無数の呼称、タイトルは葬られるカプチーナー教会の墓場で眠りにつくための入場券とはならなかったのだ。彼が眠りの場につけたのは「罪人オットー」という呼称だけだった。この話は非常に示唆に富んでいる。

 地上生活での過ちやその言動をもって死者を裁くことは酷だ。なぜならば、死者自身がそれらに対して最も痛みを感じているからだ。生きている人間が「お前はこれこれをやった犯罪人だ」と批判する必要などない。生きている人間ができる唯一のことは死者の痛みが早く癒されるように祈るだけだ。それを死者への敬意という。

 生きている人間が死者に対して取れる最悪の行為は死者のために「祈るな」いうことだ。誰からも祈られない死者は慰められず、苦悩し続ける。これは死者にとって文字通り地獄のような状況だ(「靖国神社参拝と『死者の権利』」2013年7月26日参考)。
 死者への最大の奉仕は、先述したように、死者のために祈ることだが、それ以上のことがある。死者が生きていた時、果たしたかったその願いを代わって果たしていくことだ。実際、死者のために生きている数多くの人間がいるのだ。

 戦争で死んだ死者の場合、彼は平和な世界を夢見ていただろう。愛する家族と再会して楽しい家庭を築きたかったはずだ。学徒兵として出陣し、亡くなった死者は大学で好きな勉強をしたかっただろう、等々、死者は多くの夢を持ちながら死んでいったはずだ。
 死者にとって、地上に生きている我々は彼らの羨望の対象だろう。だから、生きている人間は2つの責任がある。自身の生涯に対し、もう一つは死者に対してだ。

 
 欧州のカトリック教国では来月1日は「万聖節」」(Allerheiligen)」、2日は「死者の日」」(Allerseelen)だ。教会では死者を祭り、家族は花を供えて、亡くなった親族の墓前で思い出を語り合う。喧騒な日々を送っている現代人は死者の日、自身と死者の未来のために静かに語り合いたいものだ。