ローマ法王フランシスコは19日、新しい司教たちを前に、「質素な生活を送り、説教の中で語るように、自分もそのようにならなければならない」と助言した。過去1年間に司教に任命された高位聖職者のためにバチカンが主催したセミナーの中で法王が語ったものだ。
▲ウィーンのアルト・ドナウの風景(2013年8月、撮影)
南米出身の法王は就任以来、法王宮殿に住まず、ゲスト・ハウスに留まり、豪華絢爛なものを嫌い、質素な生活をしてきた。その生活スタイルを新司教にも求める一方、、説教の中で語るように、自身の生活も規律と自制を求めている。簡単に言えば、言動一致だ。バチカン放送によると、フランシスコ法王は説教の中で何度も「自身の言動を絶えず、検証すように」と語り掛けたという。
聖職者の未成年者への性的虐待事件はその後も発覚している。枢機卿が未成年者へ性的虐待を犯していたことが判明した一方、ドイツのカトリック教会では贅沢な生活を好む司教の問題がメディアで話題となったばかりだ。フランシスコ法王時代に入っても教会を取り巻く状況は余り変わっていない。
法王は語る。「質素な生活をし、担当司教区から旅行するのは必要な時以外は控えるべきだ。司教は常に担当教区に留まり、信者たちの生活に関心をもち、いつでも牧会できるように旅行は控えるべきだ」と述べ、教区を留守して世界を飛び回る聖職者を「空港(教区)司教」と呼び、スキャンダルだと批判。そして「教会で人事を受け、キャリアを積んで高位聖職者に挙がろうといった“キャリア志向”はがん腫瘍のようなものだ。司教たちは生涯、教区内で信者へ奉仕しなければならない。信者が喜び、苦しむ時、常に同伴者でなければならない。イエスの福音を語るだけではなく、その通り、自身も生活しなければならない」と語っている。
前法王べネディクト16世時代の過去8年間では聞かなかった内容だ。ドイツ人法王を弁解するつもりはないが、同16世は、聖職者の未成年者への性的虐待事件、バチカン銀行の腐敗、法王執務室からバチカン内部機密が外部に流出した通称バチリークス事件など、次々と教会の不祥事が表面化して、その対応に追われて、信者たちにゆっくり語り掛ける機会は少なかった。同16世は学者だ。誰にでも理解できる言葉で表現することには不向きだったことは事実だろう。
その点、フランシスコ法王からは難しい神学的議論は聞かれない。イエスのように質素に、悩み淋しい人々に勇気を与え、彼らの同伴者となるように、と語りかけるだけだが、その言葉は聞く者の心を不思議に打つものがある。
フランシスコ法王の叫びが実りをもたらすか、砂漠で叫ぶ預言者のように、聞く耳を持つ聖職者、信者たちを見出すことができずに終わるのか。カトリック教会は大きな分岐点に直面している。
▲ウィーンのアルト・ドナウの風景(2013年8月、撮影)
南米出身の法王は就任以来、法王宮殿に住まず、ゲスト・ハウスに留まり、豪華絢爛なものを嫌い、質素な生活をしてきた。その生活スタイルを新司教にも求める一方、、説教の中で語るように、自身の生活も規律と自制を求めている。簡単に言えば、言動一致だ。バチカン放送によると、フランシスコ法王は説教の中で何度も「自身の言動を絶えず、検証すように」と語り掛けたという。
聖職者の未成年者への性的虐待事件はその後も発覚している。枢機卿が未成年者へ性的虐待を犯していたことが判明した一方、ドイツのカトリック教会では贅沢な生活を好む司教の問題がメディアで話題となったばかりだ。フランシスコ法王時代に入っても教会を取り巻く状況は余り変わっていない。
法王は語る。「質素な生活をし、担当司教区から旅行するのは必要な時以外は控えるべきだ。司教は常に担当教区に留まり、信者たちの生活に関心をもち、いつでも牧会できるように旅行は控えるべきだ」と述べ、教区を留守して世界を飛び回る聖職者を「空港(教区)司教」と呼び、スキャンダルだと批判。そして「教会で人事を受け、キャリアを積んで高位聖職者に挙がろうといった“キャリア志向”はがん腫瘍のようなものだ。司教たちは生涯、教区内で信者へ奉仕しなければならない。信者が喜び、苦しむ時、常に同伴者でなければならない。イエスの福音を語るだけではなく、その通り、自身も生活しなければならない」と語っている。
前法王べネディクト16世時代の過去8年間では聞かなかった内容だ。ドイツ人法王を弁解するつもりはないが、同16世は、聖職者の未成年者への性的虐待事件、バチカン銀行の腐敗、法王執務室からバチカン内部機密が外部に流出した通称バチリークス事件など、次々と教会の不祥事が表面化して、その対応に追われて、信者たちにゆっくり語り掛ける機会は少なかった。同16世は学者だ。誰にでも理解できる言葉で表現することには不向きだったことは事実だろう。
その点、フランシスコ法王からは難しい神学的議論は聞かれない。イエスのように質素に、悩み淋しい人々に勇気を与え、彼らの同伴者となるように、と語りかけるだけだが、その言葉は聞く者の心を不思議に打つものがある。
フランシスコ法王の叫びが実りをもたらすか、砂漠で叫ぶ預言者のように、聞く耳を持つ聖職者、信者たちを見出すことができずに終わるのか。カトリック教会は大きな分岐点に直面している。
でもそうではありませんね実際。上へ行くほど王侯貴族のような生活をなさっています・・
欲のための権力志向では世俗の企業などとかわりません。フランシスコ法王、お説教熱がこもっていて好きです。
そういうとき励まされますね。
ところでこの写真。気取らない日常の風景といったかんじでとてもいいかんじです。