ローマ法王フランシスコは17日、サンピエトロ広場の一般謁見に集う約10万人の信者たちを前に、「キリスト者にとって、イエスは天国ではわれわれの裁判官というよりわれわれの弁護士だ」と語った。キリスト者の偽りのない信仰告白だ。

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▲「十字架のイエス」バチカン法王庁にて(2013年3月31日、バチカンの復活祭)
 フランシスコ法王は「イエスが十字架の道を行き、神の計画に忠実だったように、われわれも時に犠牲を払いながらも信仰を生活の中で実践しなければならない」と主張し、イエスに倣えと呼びかけた。

 ところで、イエスは天国におられるのだろうか。十字架にかかったイエスを庇った犯罪人に対して、「よく言っておくが、あなたはきょう、私と一緒にパラダイス(楽園)にいるであろう」(「ルカによる福音書」23章43節)と述べられている。天国とはいわれていない。

 キリスト者にとって「天国」と「楽園」の違いは余り重要ではないかもしれないが、明確な点は、イエスは当時、その違いを知り、「天国」ではなく、「楽園」という言葉を使用されたということだ。その意味で、なぜ、イエスは十字架後、「天国ではなく楽園に行かれたか」を真剣に考えるべきだろう。

 その答えは同時に、イエスが「私はまた来る」と再臨を約束せざるを得なかったかの返答にもなるからだ。イエスの願いが十字架で完全に成就されたのならば、「私は今、天国にいる」と宣言できただろうし、「もう一度来る」という必要はなかったはずだ。その点を曖昧にしたまま信仰生活を続けることは「真理と神霊」に基づく信仰とはいえない。

 南米教会出身のフランシスコ法王は「イエスは天国ではわれわれの弁護士だ」と強調することで、苦難の人生を歩む数多くの信者たちを慰労し、鼓舞したいのだろう。当方はこの文書を読んで目頭が熱くなった。「そうあってほしい」と本当に心から願うからだ。

 しかし、イエスは今尚、地上では十字架から解放されていないのだ。多くの信者たちはその十字架を仰ぎみて、その救いを願うが、イエスを十字架から解放することを考える信者はほとんどいない。イエスが天国ではなく、楽園に留まらざるを得なかった事情について、心を砕く信者は余りにも少ないのだ。イエスを十字架から降ろす運動を先ず起こすべきだ。