イラク戦争開戦から今月19日で10年目を迎え、多くの欧米メディアは10年目特集を組んでいた。当方もイラク戦争について考えてきた。「フセイン政権が大量破壊兵器を保有している」という米国側の情報に基づいて戦争は開始され、約4500人の米軍兵士が亡くなり、イラク側では民間人を入れれば数十万人が犠牲となった。

▲米映画「リンカーン」のポスター
ブッシュ政権は「イラク政権の大量破壊兵器保有」という米中央情報局(CIA)の情報を掲げてイラク戦争を正当化してきたが、戦争後の調査でその情報が誤報と判明し、「イラク戦争の正当性」が大きく揺れたことは周知の事実だ。
イラク戦争を主導したコリン・パウエル米国務長官は「国連安保理でフセイン政権の大量破壊兵器保有の証拠について説明したことは自分のキャリアの最大の汚点となった」と後悔している。それに対し、ディック・チェイ二ー副大統領は「フセイン政権は大量破壊兵器を保有していなかったが、その意図はあった」と述べ、イラク戦争が将来の戦争やテロ防止に貢献したと確信している。一方、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は両者の「後悔と確信」の中間のような立場かもしれない。明確なことは、当時のネオ保守派米政治家たちは、2001年9月11日の米国内多発テロ事件の影響を強く受けていたことだ(オーストリア日刊紙プレッセ)。
「良き戦争などはない」といわれる。多くの犠牲を出す戦争は如何なる理由があっても正当化できないという意味だ。その通りだが、歴史の中には、多くの犠牲を覚悟の上で武器をもって戦場に向かわざるを得なかった戦いもあっただろう。「どの戦争がそれに該当するか」と質問されれば、正直に言って返答に困る。スティーブン・スピルバーク監督の米映画「リンカーン」はひょとしたらそれに答えてくれるかもしれない。
人類の歴史で戦いや紛争がなかった時代はあっただろうか。人はさまざまな理由から絶えず戦ってきた。イラク戦争開戦10年目を迎えるのを契機に、ここでは聖書的観点から、「なぜ、人は戦うか」を考えてみた。
聖書の中で最初に記述されている紛争は創世記の「カインとアベルの兄弟間」の戦いだ。神は弟アベルの供え物を取り、兄カインのそれを拒否された。この‘謎‘を解くために人類(カイン)は戦いを始めたのだ。聖書を読むと、アベルとカインだけではにない。イサクとイシマエル、ヤコブとエソウなど数多くの例が記述されている。善も悪もしていない前から、出生前から、神は一方(アベル、イサクなど)を愛し、他方(カイン、イシマエルなど)を憎んだと書かれているのだ。なぜだろうか。
その‘謎‘に悩む人類は「なぜ、あなたは弟を愛し、私を退けるのか」」と、神に呟きながら放浪してきた。そして、時代の経過と共に、その嘆きは民族紛争、国家間の戦争と拡大していった。これが聖書が明記する「戦争論」だ。
時代は進んだ。「外交的解決」「対話を通じて」という言葉がどこからでも聞かれる。戦闘に代わって話し合いで問題を解決しようというのだ。久しく戦闘を繰り返してきた人類が学んできた成果ともいえる。しかし、「外交的解決」「対話」という言葉が頻繁に囁かれる割には、その成果は依然、多くはない。
そこで聖書の「戦争論」から、その知恵を拾ってみた。弟ヤコブを殺そうとしたエソウの凍りついた心を解したのは何であったか。神から愛されてきたヤコブは叔父ラバンのもとで苦労して得た人と財宝を兄エソウに全て与えた。愛されない立場にあったエソウに自身が受けてきた神の愛を全て譲り渡すことで和解できたのだ。
ヤコブの話は、外交的解決と対話を模索する全ての世界指導者たちに大きなヒントとなるだろう。「愛されてきた者」は「愛されなかった者」に仕えることで紛争は解決できるのだ。具体的には、多くの富を保有するものは持たない者に、幸せな人は悲しんでいる人に、笑っている人は泣いている人に、奉仕してこそ双方は和解し、発展できる。
第266代ローマ法王が「貧者の聖人」アッシジの聖フランシスコの名を法王名としたのは、決して偶然ではないだろう。時代がそれを要求しているのだ。

▲米映画「リンカーン」のポスター
ブッシュ政権は「イラク政権の大量破壊兵器保有」という米中央情報局(CIA)の情報を掲げてイラク戦争を正当化してきたが、戦争後の調査でその情報が誤報と判明し、「イラク戦争の正当性」が大きく揺れたことは周知の事実だ。
イラク戦争を主導したコリン・パウエル米国務長官は「国連安保理でフセイン政権の大量破壊兵器保有の証拠について説明したことは自分のキャリアの最大の汚点となった」と後悔している。それに対し、ディック・チェイ二ー副大統領は「フセイン政権は大量破壊兵器を保有していなかったが、その意図はあった」と述べ、イラク戦争が将来の戦争やテロ防止に貢献したと確信している。一方、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は両者の「後悔と確信」の中間のような立場かもしれない。明確なことは、当時のネオ保守派米政治家たちは、2001年9月11日の米国内多発テロ事件の影響を強く受けていたことだ(オーストリア日刊紙プレッセ)。
「良き戦争などはない」といわれる。多くの犠牲を出す戦争は如何なる理由があっても正当化できないという意味だ。その通りだが、歴史の中には、多くの犠牲を覚悟の上で武器をもって戦場に向かわざるを得なかった戦いもあっただろう。「どの戦争がそれに該当するか」と質問されれば、正直に言って返答に困る。スティーブン・スピルバーク監督の米映画「リンカーン」はひょとしたらそれに答えてくれるかもしれない。
人類の歴史で戦いや紛争がなかった時代はあっただろうか。人はさまざまな理由から絶えず戦ってきた。イラク戦争開戦10年目を迎えるのを契機に、ここでは聖書的観点から、「なぜ、人は戦うか」を考えてみた。
聖書の中で最初に記述されている紛争は創世記の「カインとアベルの兄弟間」の戦いだ。神は弟アベルの供え物を取り、兄カインのそれを拒否された。この‘謎‘を解くために人類(カイン)は戦いを始めたのだ。聖書を読むと、アベルとカインだけではにない。イサクとイシマエル、ヤコブとエソウなど数多くの例が記述されている。善も悪もしていない前から、出生前から、神は一方(アベル、イサクなど)を愛し、他方(カイン、イシマエルなど)を憎んだと書かれているのだ。なぜだろうか。
その‘謎‘に悩む人類は「なぜ、あなたは弟を愛し、私を退けるのか」」と、神に呟きながら放浪してきた。そして、時代の経過と共に、その嘆きは民族紛争、国家間の戦争と拡大していった。これが聖書が明記する「戦争論」だ。
時代は進んだ。「外交的解決」「対話を通じて」という言葉がどこからでも聞かれる。戦闘に代わって話し合いで問題を解決しようというのだ。久しく戦闘を繰り返してきた人類が学んできた成果ともいえる。しかし、「外交的解決」「対話」という言葉が頻繁に囁かれる割には、その成果は依然、多くはない。
そこで聖書の「戦争論」から、その知恵を拾ってみた。弟ヤコブを殺そうとしたエソウの凍りついた心を解したのは何であったか。神から愛されてきたヤコブは叔父ラバンのもとで苦労して得た人と財宝を兄エソウに全て与えた。愛されない立場にあったエソウに自身が受けてきた神の愛を全て譲り渡すことで和解できたのだ。
ヤコブの話は、外交的解決と対話を模索する全ての世界指導者たちに大きなヒントとなるだろう。「愛されてきた者」は「愛されなかった者」に仕えることで紛争は解決できるのだ。具体的には、多くの富を保有するものは持たない者に、幸せな人は悲しんでいる人に、笑っている人は泣いている人に、奉仕してこそ双方は和解し、発展できる。
第266代ローマ法王が「貧者の聖人」アッシジの聖フランシスコの名を法王名としたのは、決して偶然ではないだろう。時代がそれを要求しているのだ。
