幸福を願わない人がいるだろうか。「いる」という人に一度出会ったことがある。彼はフロイト流の「死(破壊)の欲望」(タナトス)という概念を取り出し、人が幸せではなく、本当は破壊、死への欲望を保持してると、とうとうと説明した。しかし、タナトスも冷静に考えれば、死ぬことによって「幸福」を復帰したいだけではないか。繰り返すが、やはり「人は誰もが幸せを求めている」と思うのだ。

 どうしてこのようなことを考えたかというと、オーストリア連邦統計局が「国民の幸福感」について最新の統計を発表したからだ。それによると、オーストリア国民の78・7%は「自分は今、幸せだ」と答えているのだ。与党・政府関係者が聞けば、涙が出るほど嬉しいかもしれない。
 国営放送は夜のニュース番組の中で通行人に「今、幸せですか」と質問していたが、全ての人が「満足している」「仕事もあるし、幸せだ」と答えていた。あまり皆が「幸せだ」と答えるので、「独裁国家の世論調査のようだ」といった思いが沸いてきたほどだ。

 しかし、オーストリアの大多数の国民は確かに幸せを感じている。同国の国民経済成長率は1995年以降、年平均1・7%アップ。就業率も75・2%で欧州平均の68・6%を上回っている。経済統計を見る限り、同国の国民幸福度はカナダ、ニュージランドと同水準という。(同国にも約140万人の国民が貧困ライン前後)。
 ギリシャやスペインなど南欧では失業で苦しむ人が多く、政府の節約政策に反対するデモをしている時だけに、オーストリア国民の高い「幸福度」には驚かされる。辛らつに表現すると、「他者が幸せではないから、自身の僅かな幸せにも感謝する」だけではないか。

 国営放送記者もそう感じたのだろう。社会心理学者に国民の幸福度の背景を聞いていた。答えは「オーストリア人は調和を求める。家庭、職場、社会でもデモしたり、暴動などの行動を嫌う。たとえ謙虚なレベルとはいえ、自分の生活水準、環境に満足を覚える」と指摘し、アルプスの小国、人口800万余りの国民性を説明していた。
 
 人の幸せに誰も文句はいえない。同時に、その人の幸せが隣人、隣国の人々と共有できれば、一層、幸福感を享受できるだろう。「自分だけが幸せだ」という思いは、不安と後ろめたさをも与える。人間が関係存在だからだ。