ローマ法王べネディクト16世は「創造神への信仰が薄まってきた。“被造物”という概念はもはや死語化してきた」と懸念を表明している。ドイツ人法王が強調している点は「神への信仰」ではなく、「創造神への信仰」の危機だ。神が人間を創造された、人間は被造物だ、という信仰の基本が揺らぎだしてきたというのだ。法王が19日、イタリアのリミニで開催されたカトリック・デーへのメッセージの中で述べている。
 べネディクト16世は、「現代人は自分を運命に対し無制限の創造者と受け取り出してきた。他者(神)が自分を創造したという教えは現代人の考えと一致しなくなったのだ。しかし、実際は逆だ、創造神への従属から、人間の真の威厳も偉大さも現れてくるのだ」と強調し、「創造主の神への従属を認めなければならない」というのだ。

 現代人の中には、「神への従属」を厭わしく感じ、そこから抜け出したいともがく人々が増えてきた。「創造主の神」という時、多くの現代人は窮屈さを感じるのだ。なぜならば、神が創造主であり、人間を創造したとすれば、創造の目的、意図が当然ある。創造された人間はその目的から離脱できない。だから、神に従属しない、制限のない自由を享受するため「創造神」から逃走しようとする動きが出てくるわけだ。べネディクト16世の「創造神への信仰」の危機とはそのことだ。
 自由を飽くなく追求する人間の欲望は今、創造神の従属から抜け出し、無制限の自由を味わいたい、という衝動に駆られだしたわけだ。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でイワンは「神がいなければ全てが許される」といったが、「創造神からの逃走」を願う現代人の心情を的確に表現している。

 カトリック教会を含む既成のキリスト教会は神の「創造説」を信仰の基とする。神は人間を含む全ての生き物を創造された、という信仰だ。旧約聖書の創世記に神の創造物語が記述されている。この場合、人間を含む被造物は全知全能の創造神の前には完全に従属する対象となる。「エデンの園」から追放された人間は、「神が自分の創造主だ」という事実から目を閉じようと腐心してきたわけだ。

 「創造神への信仰」を救済する道はあるだろうか。神を人類の親、父母であると捉え、神と人間の関係を単なる「従属関係」ではなく、「親子関係」と受け取ることができれば、誰が親の愛の懐から離れたいと模索するだろうか。「創造の神」が「父母の神」への信仰に昇華される時、「従属関係」は「愛の関係」となり、「創造神への信仰」は蘇るのではないだろうか。