ブルガリアの考古学者は2年前、教会の床下から洗礼ヨハネの遺骨を発見したと発表した。「世界キリスト教情報」によれば、「英国とデンマークの考古学チームが洗礼ヨハネの遺骨を裏付ける証拠を発見した。小型の大理石のひつぎの中から指関節や歯、頭蓋骨の一部と、動物の骨3本が入っていた。ひつぎの傍らには火山灰を固めて作られた小箱があり、古代ギリシャ文字で洗礼者ヨハネの名と生誕日とされる『6月24日』の日付が刻まれていた」というのだ。慎重な検証作業が必要だが、「洗礼ヨハネの遺骨」が確認されれば、イエスの生涯を知る上でも大きな助けとなる事が期待される。

▲洗礼ヨハネの斬首が記述されている「マタイによる福音書」(2012年6月23日、撮影)
ところで、トルコと中国の考古学者チームは2009年、トルコのアララト山の標高4000メートルで「ノアの方舟」の残滓を発見したと発表したことがあった。放射性炭素年代測定によると、発見された木は約紀前4800年のものという。
一方、トリノでイエス・キリストの遺骸を包んだ聖骸布の展示会が開催されたことがあった。ローマ法王べネディクト16世も2010年5月2日、2000年前のイエス・キリストの遺骸を包んでいた布といわれる「聖骸布」の展示場を訪れ、その前で祈っている。
通称「トリノの聖骸布」と呼ばれる布は縦4・35メートル、横1・1メートルのリンネルだ。その布の真贋についてはこれまでさまざな情報があり、多種多様の科学的調査も行われてきた。
そして今、「洗礼ヨハネの遺骨」の発見で世界の考古学者が興奮しているのだ。「ノアの方舟」と「トリノの聖骸布」、そして「洗礼ヨハネの遺骨」と対象は異なるが、歴史のロマンを感じさせる一方、聖書の中で記述されている「神の業」を追認したいという考古学者の熱い思いが伝わってくる。
さて、洗礼ヨハネの評価について、聖書学的には「大預言者」から「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」「天国で最も小さな人間」まで、さまざまな見解がある。正教会ではイエスの先駆者であったという点から、「前駆授洗者」という称号をつけている。
不可思議なことは、「大預言者」、「大聖人」といわれた「洗礼ヨハネ」が一見つまらないことで首を斬られていることだ。聖書を読むと、「洗礼ヨハネ」がイエスをメシアとして最後まで証し、彼に従ったという形跡がないのだ(「洗礼ヨハネの首切り」の話は、新約聖書の「マタイによる福音書」14章や「マルコによる福音書」6章に記述されている)。
「洗礼ヨハネの遺骨」に関する協議は単なるその真偽に集中するのではなく、「洗礼ヨハネの生涯」を検証する機会とすべきだろう。当時、ユダヤ社会で人望と名声を享受していた「洗礼ヨハネ」がイエスをメシアとして最後まで証し続けていたならば、イエスはひょっとしたら十字架に行く必要はなかったのではないか。
それでは、なぜ「洗礼ヨハネ」はイエスに従うことができなくなったのだろうか。ヨルダン川では「イエスは神の子」と証したが、その後、次第にイエスから遠ざかっていったのだ。ちなみに、祭司長ザカリアとエリザベスの間に生まれた「洗礼ヨハネ」とザカリアとマリアの間で生まれた「イエス」の関係は、半年違いの異母兄弟だった、という説がある。

▲洗礼ヨハネの斬首が記述されている「マタイによる福音書」(2012年6月23日、撮影)
ところで、トルコと中国の考古学者チームは2009年、トルコのアララト山の標高4000メートルで「ノアの方舟」の残滓を発見したと発表したことがあった。放射性炭素年代測定によると、発見された木は約紀前4800年のものという。
一方、トリノでイエス・キリストの遺骸を包んだ聖骸布の展示会が開催されたことがあった。ローマ法王べネディクト16世も2010年5月2日、2000年前のイエス・キリストの遺骸を包んでいた布といわれる「聖骸布」の展示場を訪れ、その前で祈っている。
通称「トリノの聖骸布」と呼ばれる布は縦4・35メートル、横1・1メートルのリンネルだ。その布の真贋についてはこれまでさまざな情報があり、多種多様の科学的調査も行われてきた。
そして今、「洗礼ヨハネの遺骨」の発見で世界の考古学者が興奮しているのだ。「ノアの方舟」と「トリノの聖骸布」、そして「洗礼ヨハネの遺骨」と対象は異なるが、歴史のロマンを感じさせる一方、聖書の中で記述されている「神の業」を追認したいという考古学者の熱い思いが伝わってくる。
さて、洗礼ヨハネの評価について、聖書学的には「大預言者」から「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」「天国で最も小さな人間」まで、さまざまな見解がある。正教会ではイエスの先駆者であったという点から、「前駆授洗者」という称号をつけている。
不可思議なことは、「大預言者」、「大聖人」といわれた「洗礼ヨハネ」が一見つまらないことで首を斬られていることだ。聖書を読むと、「洗礼ヨハネ」がイエスをメシアとして最後まで証し、彼に従ったという形跡がないのだ(「洗礼ヨハネの首切り」の話は、新約聖書の「マタイによる福音書」14章や「マルコによる福音書」6章に記述されている)。
「洗礼ヨハネの遺骨」に関する協議は単なるその真偽に集中するのではなく、「洗礼ヨハネの生涯」を検証する機会とすべきだろう。当時、ユダヤ社会で人望と名声を享受していた「洗礼ヨハネ」がイエスをメシアとして最後まで証し続けていたならば、イエスはひょっとしたら十字架に行く必要はなかったのではないか。
それでは、なぜ「洗礼ヨハネ」はイエスに従うことができなくなったのだろうか。ヨルダン川では「イエスは神の子」と証したが、その後、次第にイエスから遠ざかっていったのだ。ちなみに、祭司長ザカリアとエリザベスの間に生まれた「洗礼ヨハネ」とザカリアとマリアの間で生まれた「イエス」の関係は、半年違いの異母兄弟だった、という説がある。