「なぜ、神父は愛人をもつか」の続編だ。聖職者の独身制を破り愛人を囲っている神父が多いことは紹介した。少なく見積もっても3人に1人の神父が愛人を持っている。独身制はもはや風前の灯だ。いつガタガタと崩れても可笑しくない状況だ。
 それに関連し、これまで無視されてきた大きな問題がある。愛人との間に生まれた子供たちの存在だ。オーストリアのローマ・カトリック教会でも神父から生まれた子供の数は約500人と推定されている(同国日刊紙クリア)。そして子供たちの多くは関係者に祝福されず、私生児扱いされるケースが多いのだ。

 独身制を破り、愛人との間で子供ができた場合、聖職を自主的に断念し、他の職を探す神父もいるが、神学の教育しか受けていないため就職先を見つけるのが難しい。聖職を断念した以上、給料はもちろん、年金も退職金もない。住んでいた教会からも出て行かなければならないから、生活苦に陥る神父たちも出てくるわけだ。なお、カトリック教会の神父が結婚を理由に聖職を断念した数は1964年から2004年の40年間で約7万人と推定されている。

 一方、神父の中には愛人に子供ができたら、中絶を求めるケースが少なくないという。教会の上司に独身制を破棄した事実が分かれば聖職を失う危険性があるからだ。

 世界12億人の信者を抱えるカトリック教会の総本山、バチカン法王庁は過去、如何なる堕胎も認めず、暴行されて妊娠した場合ですら、その中絶を容認しなかった。人命の尊さという観点からいえば、当然かもしれない。胎児の権利を擁護し、児童の人権を尊重するカトリック教会だが、その館で中絶が密かに行われ、神父から生まれた子供たちへの財政支援は一切しない。法王ベネディクト16世は「聖職者の独身制は教理ではない」とはっきりと語ったが、独身制を無視して家庭をもった神父たちに対して「堕ちた聖職者」として、全ての経済的援助を断つ。教会の隠語でこれを「白い殺人」と呼ばれている。

 キリスト教史を振り返ると、1651年のオスナブリュクの公会議の報告の中で、当時の聖職者たちは特定の女性と内縁関係を結んでいたことが明らかになっている。カトリック教会の現行の独身制は1139年の第2ラテラン公会議に遡る。聖職者に子供が生まれれば、遺産相続問題が生じる。それを回避し、教会の財産を保護する経済的理由が(聖職者の独身制の)背景にあった、といわれる。カトリック教会は表向きは「イエスが独身で33歳で亡くなった」と説明し、「イエスのように」という理由から聖職者の独身制を擁護してきた。

 ところで、フランスの巡礼地ルルドで先月、第15回欧州修道院代表者年次総会(UNESM)が開催された(欧州には37カ国、約40万人の修道僧、修道女がいる)。ローマ法王べネディクト16世は2年前の「僧職に奉じた人生の日」への記念礼拝の中で、「修道院生活の意義はカトリック教会にとって大きい。修道僧や修道女のいない世界はそれだけ(霊的)貧困だ。彼らは教会と世界にとって価値ある贈物だ」と強調し、修道僧や修道女の献身的な職務に感謝している。
 修道僧、修道女は生涯を独身で神に献身する生き方だ。法王が指摘したように、彼らが果たした功績は大きい。しかし、このコラム欄で何度も指摘したが、神はアダムとエバを創造した後、幸せな家庭を築いて欲しいと願われているのだ。決して、社会から孤立した修道院で自分のために祈っ欲しいとは願われていない(旧約聖書創世記)。
 21世紀の今日、聖職者は家庭を築き、神に貢献できる時代を迎えている。創造本来の生き方ができる時を迎えているのだ。神父が愛人に中絶を嘆願する状況は、神の願いでないことは明らかなはずだ。