P4120016 独週刊誌シュピーゲル最新号は「故郷とは何か」(Was ist Heimat)を特集している(写真)。ドイツでは「ハイマート」(故郷)という言葉を使う時、かなり神経質とならざるを得ない。ナチス・ドイツの国家社会主義の残滓を感じるからだ。誤解されることを極力回避しようとする自己制御が働く。それほど、ドイツ人にとって「故郷」は政治的概念として利用された時代があった。
 詩人の室生犀星の「ふるさとは遠くにありて思うもの、そして悲しく歌うもの」と詠われた時代には、ふるさとは生まれた地と密着していた。故郷は悲しく歌う人のものだった。それ以外は考えられなかった。

 グローバルな世界に生きているわれわれにとって、「故郷」という概念は次第に自分が生まれた地から離れ、拡大してきた。「故郷」は生まれた地域との密着度とは余り関係がなくなってきた。「地球はわたしたちの故郷」というキャッチフレーズすら聞く。それだけ、わたしたちの認識の世界が膨らんできたのかもしれない。

 欧州に住んで30年以上の時間が過ぎてしまったが、最近、自分が無国籍者(Staatenlose)のような気分に陥ることがある。欧州では何年住んでいても外観からみて外国人であり、異邦人である点で変わらない一方、故郷との繋がりは年々、薄くなってくる。だから、「故郷」は生まれた町、国というより、「地球村」という思いが強まってくる。
 「伝統的な『故郷』を失った人間にとって、『地球村』という概念は代償に過ぎず、その人の救済を意味するだけで実体のない概念だ」と指摘されれば、そうかもしれない。しかし、どのような立場、状況にあっても人は故郷を恋い慕うという点では変わらないだろう。

 俳優チャールトン・ヘストンが演じた米映画「十戒」(1956年)の主人公モーセをご存知だろう。彼は神の命を受けて奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を引率してエジプトを脱出し、神の約束の地カナンを目指していく。幾多の苦行を乗り越え、夢にもみた約束の地を目前にしたが、カナンに入ることはできず荒野で倒れた。モーセにとって、カナンの地は神が約束した「故郷」だった。

 故郷から追放され、世界に散らばった選民イスラエルの民が1948年、再結集して国家を再建した。神学者の中には「この時から終末が始まった」と主張する者もいる。すなわち、失った「エデンの園」を回復する時代に入ってきたというのだ。例えば、ドイツでも1990年以降、映画や小説の世界で‘新しい郷土‘という概念が頻繁に使用されるようになってきた。

 最後に、わたしたちは「故郷」に何を願っているのか、という点を考えなければならない。なぜならば、「故郷」という概念はアイデンティティと密接に関連するからだ。「人は皆、故郷を目指す」が、「どの故郷か」で世界は依然、コンセンサスを見出せず、いがみあい、紛争している。地域、民族、国家に密着する一方、他の地域、民族、国家に対しても開かれた「故郷」は果たして存在するだろうか。ここまで考えていくと、どうしても「神」が登場し、両者を調停してくれない限り、難しいのだ。