オーストリアのローマ・カトリック教会系の週刊誌「ディ・フルヘェ」(Die Furche)最新号(1月26日号)は「教会はその価値を失いつつある」というタイトルの衝撃的な記事を掲載した。教会の現状が如何に深刻かを改めて明らかにしたわけだ。「フルへェ」はカトリック系だが、信者たちだけではなく、多くの知識人が購読する週刊誌だ。
 今回話題となったのはオットー・フリードリッヒ記者の記事だ。記者は「昨年度の教会脱会者数は5万人強だが、このトレンドが続けばオーストリアのカトリック主義は喪失するだろう。教会がその価値を失う時は予想以上に早く到来するかもしれない」と懸念しているのだ。繰り返すが、教会外部のジャーナリストの記事ではなく、教会のインサイドを誰よりも知る教会系週刊誌記者の記事だ。
 例えば、オーストリアのFavoriten地区のカトリック信者数は17万7000人で地区人口の3人に1人に過ぎない。そして日曜礼拝に通う信者数となれば、その信者たちの約3%に過ぎないというのだ。クリスマスやイースターの教会祝日以外は教会の礼拝は空席だらけだ。
 しかし、そのような状況はいま始まったわけではないだろう。問題は教会の対応だ。オーストリアでは2010年、聖職者の未成年者への性的虐待問題が発覚して以来、教会脱会者が増加。それを受け、教会側も信者数が4000人以下の教会を閉鎖したり、セルビア正教会に教会を譲渡するなど組織改革をしてきた。
 信者数が減れば、その組織は経済的にも運営が苦しくなる。そこで人員削減の対策を取る点では、教会も他の組織、機関と大きな違いはない。
 フリードリッヒ記者はいう。「教会は他の社会組織とは異なる。宗教組織だ。問題は財政問題ではない」と指摘する。教会指導部の対応が行政改革に終始していることに疑問を呈しているのだ。
 教会内でも改革運動はある。オーストリア教会では昨年、ヘルムート・シューラー神父を中心に300人以上の神父たちが女性聖職者の任命、聖職者の独身制廃止、離婚・再婚者の聖体拝領許可など7項目を要求、教会指導部への不従順を呼びかけた(「不従順への布告、神父たちのイニシャチブ」運動と呼ばれる)。この教会運動についてはこのコラム欄で数回、紹介したが、シューラー神父たちの刷新運動も厳密に言えば教会の行政改革を求めるものだ。その点で、教会指導部の組織改革と余り異ならない。
 ローマ法王べネディクト16世は教会がその生命力を失ってきた背景には社会の世俗化、教会の社会への適応があったと受け止めている。だから、法王はここにきて聖職者たちに再宣教活動の強化を求める一方、教会のEntweltlichung(非世俗化)を頻繁に強調している。
 ところで、ここでどうしても指摘しなければならない点がある。教会側が意図的に回避している重要な問題だ。2000年前のキリスト教の教義内容だ。特に、「真理の独占」を主張するローマ・カトリック教会は十字架の救済問題の再考を避けている。イエスの十字架を信じながら、救済されない数多くの魂の叫びに耳を傾けようとしていない。問題は社会の世俗化にあるのではなく、世俗化した社会に生きる信者たちの嘆きや悲しみを解決できない教会の教えにある。
 教会が非世俗化に腐心し、修道院化することにどのような意味合いがあるのだろうか。教会の使命は悩める魂に光を与え、救済することにあったのではないか。教会がその本来の価値を喪失した理由は、教会組織の問題でも聖職者の能力問題でもない。教会の教えでは悩める魂を救えないという現実があるのだ。教会関係者には厳しい指摘だろうが、この現実を誰よりも知っているのは聖職者自身ではないだろうか。