キリストが降臨された25日を迎えた。50年前の同日、ローマ法王ヨハネ23世(在位1958年10月28日〜63年6月3日)は教会一致(エキュメニズム)や教会の近代化を明記した第2バチカン公会議の招集を決定している。1961年12月25日のことだ。
 ヨハネ23世は同日、世界の全ての司教たちに向け第2バチカン公会議を招集する旨を伝達。そして公会議の開催準備後、62年10月11日、約2800人の司教たちがサン・ピエトロ大聖堂に結集して第2公会議が始まった。ヨハネ23世の死後、その後継者、パウロ6世(在位63年6月21日〜78年8月6日)が継承し、65年12月8日、第2バチカン公会議は閉会した。
 77歳だった高齢法王ヨハネ23世は当時、「カトリック教会の従来の教義を否定せず、20世紀に新しい光を放つ教会にしたい」という願望があったといわれる。
 第2バチカン公会議では超教派担当のベア枢機卿(Augustin Bea)を代表とする「教会の近代化」支持派と、オッタヴィアーニ(Alfredo Ottaviani)枢機卿ら保守派との対立が浮かび上がったきた。その対立構図は公会議が進むにつれて深まっていったという。
 最終的には、公会議では16公文書がまとめられた。簡単に要約するならば、ヨハネ23世が主導し、パウロ6世が遂行した第2バチカン公会議(1962〜65年)ではラテン語礼拝の廃止、他宗派との対話促進などが決定され、同公会議を契機に教会の近代化路線が始まったといわれる。
 しかし、「教会の近代化」は決して容易ではなかった。特に、ドイツ人法王べネディクト16世(在位2005年4月19日〜)時代に入ってから保守派聖職者の巻き返しが顕著だ。法王は09年1月、カトリック教会根本主義者故ルフェーブル大司教の聖職者グループ「兄弟ピウス10世会」の4人の司教の「破門宣言撤回」の教令を出し、それに先立ち、ラテン語ミサ=トリエント・ミサの復活を承認した法王答書を公表したことはまだ記憶に新しい。
 ダン・ブラウンのベストセラー小説「ダ・ヴィンチ・コード」の中でも登場して有名となった根本主義勢力「オプス・デイ」(ラテン語、神の業)は久しく教会総本山バチカン内で強固な基盤を誇っている。昨年10月には、カトリック教会内の根本主義グループ「天使の業」(ワーク・オブ・エンジェル)の新規約が承認された、といった具合だ。
 もちろん、改革派も沈黙しているわけではない。「教会の近代化を明記した第2バチカン公会議の精神が後退した」と懸念する改革派聖職者も出てきた。例えば、オーストリア教会では今年に入り、ヘルムート・シューラー神父(59)を中心に300人以上の神父たちが女性聖職者の任命、離婚・再婚者の聖体拝領許可など7項目を要求、教会指導部への不従順を呼びかけている(「不従順への布告、神父たちのイニシャチブ」運動と呼ばれる)。
 ヨハネ23世が提唱した「教会の近代化」宣言は第2公会議後、半世紀が過ぎようとしているが、今なお完全には実現せずに到っている。教会内では、改革派と保守派の主導権争いが展開されているのだ。