ローマ・カトリック教会の最高指導者、ローマ法王べネディクト16世は6日、「若者たちの間にニヒリズムが広がっている。神やキリストが関与しない世界は空虚と暗黒で満ちている。残念ながら、青年たちは無意識のうちにニヒリズムに冒されている」と警告を発し、「キリスト教の特長は死から復活を願うことにある。死は終わりではなく、神は個々の人間を愛することを止めない」と語り、ニヒリズムの超克を求めている。
ニヒリズム(独語 Nihilismus)は「虚無主義」と日本語で訳される。既成の価値観を信頼できず、全てのことに価値を見出せなく、理想も人生の目的もない精神世界だろう。フリードリヒ・ニーチェは「20世紀はニヒリズムが到来する」と予言したが、21世紀を迎えた今日、その虚無主義はいよいよわれわれの総身を冒してきているというのだ。
「神は死んだ」と宣言したニーチェは科学時代の到来を予感する一方、「科学は人間に幸せをもたらさない」との思いが強かったのだろう。その結果、神を失った人間はどこに人生の指針を置いていいか分からなくなり、文字通り、「永劫回帰の世界」を放浪する存在になってしまったわけだ。学者法王らしく、べネディクト16世は「現代の若者たちはこの“死に到る病”に冒されてきた」と指摘し、強い憂慮を吐露したのだ。
ところで、既に報告したが、欧州ではニヒリズムと共に、不可知論が拡大している。独ローマ・カトリック教会司教会議議長のロベルト・ツォリチィ大司教は昨年1月31日、「欧州社会では実用的な不可知論(Agnosticism)と宗教への無関心が次第に広がってきた」と警告を発し、「十字架は学校や公共場所から追放され、人間は一個の細胞とみなされ、金銭的な評価で価値が決定されている」と批判した(「欧州社会で広がる『不可知論』」2010年2月2日参考)。
不可知論とは、神の存在、霊界、死後の世界など形而上学的な問題について、人間は認識不可能である、という神学的、哲学的立場だ。神の存在を否定しないが、肯定もしない。当方は不可知論者にニヒリズムの匂いを感じることがある。
「認識できない」という理由から神の存在を肯定も否定もしない一方、結局は何も信じることができず、その時の流れに従って生きていく世界は、ニーチェがいう“受動的ニヒリズム”の世界とどこか似ているからだ。
ニヒリズムは、対応を間違うと時間の経過と共に、その毒素が完全に心身を麻痺させてしまう。ベネディクト16世が指摘しているように、“無意識”のうちにわれわれを虜にしてしまうからだ。
ニヒリズム(独語 Nihilismus)は「虚無主義」と日本語で訳される。既成の価値観を信頼できず、全てのことに価値を見出せなく、理想も人生の目的もない精神世界だろう。フリードリヒ・ニーチェは「20世紀はニヒリズムが到来する」と予言したが、21世紀を迎えた今日、その虚無主義はいよいよわれわれの総身を冒してきているというのだ。
「神は死んだ」と宣言したニーチェは科学時代の到来を予感する一方、「科学は人間に幸せをもたらさない」との思いが強かったのだろう。その結果、神を失った人間はどこに人生の指針を置いていいか分からなくなり、文字通り、「永劫回帰の世界」を放浪する存在になってしまったわけだ。学者法王らしく、べネディクト16世は「現代の若者たちはこの“死に到る病”に冒されてきた」と指摘し、強い憂慮を吐露したのだ。
ところで、既に報告したが、欧州ではニヒリズムと共に、不可知論が拡大している。独ローマ・カトリック教会司教会議議長のロベルト・ツォリチィ大司教は昨年1月31日、「欧州社会では実用的な不可知論(Agnosticism)と宗教への無関心が次第に広がってきた」と警告を発し、「十字架は学校や公共場所から追放され、人間は一個の細胞とみなされ、金銭的な評価で価値が決定されている」と批判した(「欧州社会で広がる『不可知論』」2010年2月2日参考)。
不可知論とは、神の存在、霊界、死後の世界など形而上学的な問題について、人間は認識不可能である、という神学的、哲学的立場だ。神の存在を否定しないが、肯定もしない。当方は不可知論者にニヒリズムの匂いを感じることがある。
「認識できない」という理由から神の存在を肯定も否定もしない一方、結局は何も信じることができず、その時の流れに従って生きていく世界は、ニーチェがいう“受動的ニヒリズム”の世界とどこか似ているからだ。
ニヒリズムは、対応を間違うと時間の経過と共に、その毒素が完全に心身を麻痺させてしまう。ベネディクト16世が指摘しているように、“無意識”のうちにわれわれを虜にしてしまうからだ。