世界キリスト教情報に面白い記事が紹介されていた。それによると、「米カリフォルニア州オークランドのキリスト教系ラジオ・ネットワーク『ファミリー・ラジオ』のハロルド・キャンピング主宰者は世界の終末を予言する人物として有名だが、その同氏が10月22日を『最後の審判の日』と予言したが、当たらなかった」というニュースだ。同氏はその前にも5月21日午後6時に大地震が発生し、選民だけが天に引き挙げられると予言していたが、当たらなかったばかりだ。
当方はこのコラム欄でキャンビング氏の予言をからかうつもりは毛頭ない。「世界の最後の審判」というべき「終末」について考えてみたいのだ。
キリスト教の中には、聖書の中のさまざま出来事、数字を計算して「終末の日」を断言するグループがあるが、キャンビング氏と同様、予言が外れ、その度に多くの信者たちが離れていった(ゲーデルの「不完全性定理」に基づくならば、「現代が終末と主張する教義が真理とするならば、その教義に基づいてその内容が正しいと証明できない」ということになるのだろうか)。
聖書によると、「終末の日」には、ドイツのエックス線観測衛星「ROSAT」が先日、大気圏再突入の際に燃え尽きたように、「天と地がみな火に焼かれて消滅し、日と月が光を失う」というのだ。
聖書の記述内容を文字通り真理と捉えるキリスト者たちは、終末にはそのような現象が起きると信じているが、大多数の信者たちは「終末に関する聖書の記述は何らの比喩だろう」と考えている。
同時に、「いちじくの木からこの譬(たとえ)を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ24章32節)というイエスの言葉がある。すなわち、「終末」の時、神は必ず何らかの徴(しるし)を示すから、(終末)の訪れを見落としてはならない、という警告なのだ。
例えば、世界に散らばっていたユダヤ人が再び国を建国する時、メシアが再臨する、という予言がある(イスラエルは1948年、建国宣言)。また、イスラム教の教祖マホメットは口承で、「ラクダに乗る遊牧民べドウィン(アラブ人)が高い建物を造る時、終わりが始まる」という。アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで昨年1月4日、世界一高層ビル(828メートル)がオープンしたばかりだ。
中南米で華やかな文明を誇ったマヤ人は9世紀から10世紀頃、地上から忽然と消滅したが、マヤ人の長期暦は2012年12月21日で終わっている。このことから「人類の終わり」「惑星の地球衝突」など終末シナリオが話題となってきた、といった具合だ。
世界の政治、経済の状況は停滞し、人々の精神的世界は閉塞感で蔽われている。「終末」を警告すべき宗教界は聖職者の性犯罪、腐敗などに直面し、信頼性を急速に喪失する一方、「神はいない」という無神論運動が席巻してきた。イエスの「いちじくの木」の譬ではないが、「終末」の到来を薄々感じても不思議ではない状況があることは事実だ。
ただし「終末」は、天が落ち日と月が光を失うといったカタストロフィーの到来を意味するのではなく、悪によって牛耳られてきたこれまでの世界から「神の世界」へ移行する過渡期を意味すると受け取るべきだろう。なぜならば、神はノアの大洪水後、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない」(伝道の書1章4節)といわれている。神は創造された世界を自ら破壊する考えはまったくないことを明確にしているからだ。
もちろん、「終末」を考えることはキリスト教の専売特許ではない。仏教や他の宗教でも現代が「末法の時」であり、弥勒菩薩の再来が近いとみている人々がいる。共通点は、現代が大きな転換点を迎えている、ということだろう。
先述したように、「終末」が黙示論的カタストロフィーを意味するのではなく、「神の世界」への移行期とするならば、希望を胸に秘め、上を向いて、堂々と歩んで行くべきだろう。
当方はこのコラム欄でキャンビング氏の予言をからかうつもりは毛頭ない。「世界の最後の審判」というべき「終末」について考えてみたいのだ。
キリスト教の中には、聖書の中のさまざま出来事、数字を計算して「終末の日」を断言するグループがあるが、キャンビング氏と同様、予言が外れ、その度に多くの信者たちが離れていった(ゲーデルの「不完全性定理」に基づくならば、「現代が終末と主張する教義が真理とするならば、その教義に基づいてその内容が正しいと証明できない」ということになるのだろうか)。
聖書によると、「終末の日」には、ドイツのエックス線観測衛星「ROSAT」が先日、大気圏再突入の際に燃え尽きたように、「天と地がみな火に焼かれて消滅し、日と月が光を失う」というのだ。
聖書の記述内容を文字通り真理と捉えるキリスト者たちは、終末にはそのような現象が起きると信じているが、大多数の信者たちは「終末に関する聖書の記述は何らの比喩だろう」と考えている。
同時に、「いちじくの木からこの譬(たとえ)を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ24章32節)というイエスの言葉がある。すなわち、「終末」の時、神は必ず何らかの徴(しるし)を示すから、(終末)の訪れを見落としてはならない、という警告なのだ。
例えば、世界に散らばっていたユダヤ人が再び国を建国する時、メシアが再臨する、という予言がある(イスラエルは1948年、建国宣言)。また、イスラム教の教祖マホメットは口承で、「ラクダに乗る遊牧民べドウィン(アラブ人)が高い建物を造る時、終わりが始まる」という。アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで昨年1月4日、世界一高層ビル(828メートル)がオープンしたばかりだ。
中南米で華やかな文明を誇ったマヤ人は9世紀から10世紀頃、地上から忽然と消滅したが、マヤ人の長期暦は2012年12月21日で終わっている。このことから「人類の終わり」「惑星の地球衝突」など終末シナリオが話題となってきた、といった具合だ。
世界の政治、経済の状況は停滞し、人々の精神的世界は閉塞感で蔽われている。「終末」を警告すべき宗教界は聖職者の性犯罪、腐敗などに直面し、信頼性を急速に喪失する一方、「神はいない」という無神論運動が席巻してきた。イエスの「いちじくの木」の譬ではないが、「終末」の到来を薄々感じても不思議ではない状況があることは事実だ。
ただし「終末」は、天が落ち日と月が光を失うといったカタストロフィーの到来を意味するのではなく、悪によって牛耳られてきたこれまでの世界から「神の世界」へ移行する過渡期を意味すると受け取るべきだろう。なぜならば、神はノアの大洪水後、「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない」(伝道の書1章4節)といわれている。神は創造された世界を自ら破壊する考えはまったくないことを明確にしているからだ。
もちろん、「終末」を考えることはキリスト教の専売特許ではない。仏教や他の宗教でも現代が「末法の時」であり、弥勒菩薩の再来が近いとみている人々がいる。共通点は、現代が大きな転換点を迎えている、ということだろう。
先述したように、「終末」が黙示論的カタストロフィーを意味するのではなく、「神の世界」への移行期とするならば、希望を胸に秘め、上を向いて、堂々と歩んで行くべきだろう。
終末の預言を救いのない破滅の予言と思い込んでいる人は多いですね。
ですが伝道の書の「地はとこしえに保つなり」との保証の言葉はそんな不安を消し去ってくれます。
そして今回の記事の最後の一文はそのとおりだと思います。聖書にも「また日と月と星とに、しるしが現われるであろう。・・・これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。 (ルカ 21:25、28)とありますからね。
ただ、この預言、最初の成就のエルサレムの滅び(AD70)においては、ユダヤを離れ山に逃げよとのイエスの避難指示も伴いました。(ルカ21:21)
預言の最終的な成就となると全地球的なものになるでしょう。となると物理的に安全な地域といった所はないでしょう。
とはいえ、何らかの避難行動や心構えも必要とも思っています。