聖職者の未成年者への性的虐待事件の発覚後、若い神父たちは外出を恐れるようになったという。アイルランドの日刊紙アイリッシュ・インデペンデント紙が5日付けで報じたところによると、「若い神父たちは聖職者の服を着て路上に歩くと市民から非難や中傷を受けるので外に出たがらない」というのだ。
司教区広報担当の神父によると、「路上にいると、時として唾をかけられることもある」というから、若い神父たちにとっては辛いわけだ。また、神父の中には教会の聖職者が犯した性犯罪を恥ずかしく、信者たちと顔を合わせられないという。以上の内容は、バチカン放送(独語電子版)が5日、報じたものだ。
当方はこのコラム欄で、「神父さん、子供に近づかないで」(2010年3月11日)というタイトルの記事を書いたが、性犯罪とはまったく関係のない神父たちからみたら、「なんとわれわれを侮辱する話だ」と怒られるかもしれないが、犠牲者側からみれば、「当然だ。許せない」ということになる。
アイルランド教会の聖職者による性犯罪は件数とその規模からみても欧米教会の中で米国教会と並んで最も深刻だ。国民の聖職者を見る眼も以前のような尊敬心に満ちたものではなくなった。
アイルランド議会は先月20日、「バチカン法王庁は聖職者の性犯罪調査を妨害してきた」と指摘、バチカンを非難する声明文を採択。同国のエンダ・ケ二ー首相は、公表されたコーク教区の聖職者性犯罪報告書(300頁以上)に言及し、「バチカンはエリート意識と自己愛の文化に支配されている」と述べ、一国の首相としては異例の厳しいトーンでバチカンを批判したばかりだ。そして「教会と国との関係を再考せざるを得ない」とまで警告を発している。
アイルランド首相の言動を見ても、国民のカトリック教会とその聖職者を見る目は予想以上に厳しくなってきている。若い神父さんたちの“出不精”はそれなりの理由があるわけだ。
アイルランド教会問題について、バチカンのロムバルディ報道官は先月21日、「聖職者の性犯罪という重要なテーマについては客観的に話すべきだ」と述べ、ケ二ー首相らアイルランド議会関係者に冷静を呼びかける一方、「バチカンは最適な方法でアイルランド政府の質問に答える予定だ」と表明したが、バチカンがこれまで取った対応は駐アイルランドの法王庁大使をローマに召還しただけだ。この処置も表面上は、「アイルランド教会の事情を掌握するため」というが、「ケ二ー首相らアイルランド政府のバチカン批判に抗議する意味合いが強い」と、ダブリンでは受け取られている。
若い神父さんたちがなんの憂いもなく自由に散歩し、市民は神父たちをみれば軽くお辞儀する光景は欧州キリスト教社会で良く見られたものだ。当方はそのような風景が好きだ。
司教区広報担当の神父によると、「路上にいると、時として唾をかけられることもある」というから、若い神父たちにとっては辛いわけだ。また、神父の中には教会の聖職者が犯した性犯罪を恥ずかしく、信者たちと顔を合わせられないという。以上の内容は、バチカン放送(独語電子版)が5日、報じたものだ。
当方はこのコラム欄で、「神父さん、子供に近づかないで」(2010年3月11日)というタイトルの記事を書いたが、性犯罪とはまったく関係のない神父たちからみたら、「なんとわれわれを侮辱する話だ」と怒られるかもしれないが、犠牲者側からみれば、「当然だ。許せない」ということになる。
アイルランド教会の聖職者による性犯罪は件数とその規模からみても欧米教会の中で米国教会と並んで最も深刻だ。国民の聖職者を見る眼も以前のような尊敬心に満ちたものではなくなった。
アイルランド議会は先月20日、「バチカン法王庁は聖職者の性犯罪調査を妨害してきた」と指摘、バチカンを非難する声明文を採択。同国のエンダ・ケ二ー首相は、公表されたコーク教区の聖職者性犯罪報告書(300頁以上)に言及し、「バチカンはエリート意識と自己愛の文化に支配されている」と述べ、一国の首相としては異例の厳しいトーンでバチカンを批判したばかりだ。そして「教会と国との関係を再考せざるを得ない」とまで警告を発している。
アイルランド首相の言動を見ても、国民のカトリック教会とその聖職者を見る目は予想以上に厳しくなってきている。若い神父さんたちの“出不精”はそれなりの理由があるわけだ。
アイルランド教会問題について、バチカンのロムバルディ報道官は先月21日、「聖職者の性犯罪という重要なテーマについては客観的に話すべきだ」と述べ、ケ二ー首相らアイルランド議会関係者に冷静を呼びかける一方、「バチカンは最適な方法でアイルランド政府の質問に答える予定だ」と表明したが、バチカンがこれまで取った対応は駐アイルランドの法王庁大使をローマに召還しただけだ。この処置も表面上は、「アイルランド教会の事情を掌握するため」というが、「ケ二ー首相らアイルランド政府のバチカン批判に抗議する意味合いが強い」と、ダブリンでは受け取られている。
若い神父さんたちがなんの憂いもなく自由に散歩し、市民は神父たちをみれば軽くお辞儀する光景は欧州キリスト教社会で良く見られたものだ。当方はそのような風景が好きだ。