ウィーン国連には国際原子力機関(IAEA)、国連薬物犯罪事務所(UNODC)、国連工業開発機関(UNIDO)、包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)などの本部があるが、以下の話の主人公がどの機関の職員かはいえない。機密だからではない。その職員の名誉を守るためだ。
 同僚たちが既に帰宅したが、その職員は事務所にいる。見回りに来た若い警備職員が、「そろそろ閉鎖時間ですよ」と声をかけるが、その職員は聞こえないのか、デスクから離れない。
 警備職員は、「多分、急いで仕上げなければならない仕事が残っているのだろう」と考え、強くは帰宅を要請しなかった。国連職員の中には総会や重要な会議が近いと、徹夜で仕事に専念しなけれなならない時もある。時として国連で宿泊することもあるからだ。
 機関トップの事務局長になると、オフィスに仮眠室があるし、シャワー室もあるという。当方は確認していないので断言できないが、その仮眠室で女性秘書と問題を起こしたトップもいたという(ここではテーマが違うのでそれ以上、突っ込んで書かない)。
 若い警備職員は翌日の夜も、昨日の男性職員がオフィスにいるのに気がついた。どうみても急用の仕事のためというより、帰宅しないだけのようにみえるのだ。
 午後10時が過ぎても、その職員の部屋だけは明かりがついている。見回りにいくと、その職員はどこから持ってきたのか寝袋を出して眠ろうとしていた。許可なくオフィスで宿泊することは禁じられている。そこで警備職員は彼に尋ねた。
 「国連の勤務時間はとっくに過ぎていますよ」というと、その職員は思いつめた顔をしながら、「なぜ帰らないのか」を若い警備職員に語り出したというのだ。
 「おれは帰宅したいが、妻が怖くて帰れないのだ」。中年職員は次第に涙声になってきた。「俺は妻が怖いのだ」というのだ。どうやら浮気がばれ、帰宅すると妻から叱咤されるのが怖くて、家に帰れない、という事情があるようだ。若い警備職員は呆れるより、涙声で語る中年職員の顔を見ているうちに同情心が沸いてきたという。
 若い警備職員は“帰宅できない職員”の事情を上司に報告。その日は宿泊を許可して「明日は帰宅するよう」に要請して終わったという。その後の話は聞いていない。
 この話、実話だ。いろいろな事情から家に帰れず、会社や駅構内で夜を明かすサラリーマンの話は聞いたことがあるが、国連職員の中にも妻が怖くて帰宅できない職員がいることを分かっていただいたろう。ちなみに、あのソクラテスも妻が怖くて、家に帰らず路上で哲学を論じていたという。