当方は中国反体制派のメディア「大紀元時報」を愛読している。ノルウェーの首都オスロで発生した爆弾テロと銃乱射事件について、中国メディアがどのように報じているかを知りたくて大紀元時報(日本語版)のHPを開けると、「ノルウェーの銃乱射事件は天罰」と述べた中国商務部研究員のブログを紹介していた。
同商務部研究員は「この国(ノルウェー)はいつもダライ・ラマやラビア・カーディル(ウイグル人の人権運動家)、チェチェンのテロリストに肩入れしている。今回の銃乱射事件は恐らく天罰だ」と述べている。
大震災や大事件が発生する度に「天罰」説が流れるが、オスロのテロ事件でも「天罰」説が飛び出したので、少々驚いた。
最近では、東日本大震災の時、東京都の石原慎太郎知事が、「日本人の我欲を洗い落とすための天罰だ」という意味の発言をしている。また、ローマ・カトリック教会のオーストリア教会リンツ教区のワーグナー神父は、米国東部のルイジアナ州ニューオリンズ市を襲ったハリケーン・カトリーナ(2005年8月)について、「同市の5カ所の中絶病院とナイトクラブが破壊されたのは偶然ではない。神の天罰が下されたのだ」と発言し、大きな波紋を投じた。
ちなみに、東日本大震災やハリケーン・カトリーナのような天災となると、人間の思考にも大きな影響を与える。欧州最大級の大震災、ポルトガルのリスボン大地震(1755年11月1日)の時もそうだった。ヴォルテール(Voltaire)、カント(Kant)、レッシング(Lessing)、ルソー(Rousseau)など当時の欧州の代表的啓蒙思想家たちは大きな思想的挑戦を受けた。彼らを悩ましたテーマは、「全欧州の文化、思想はこのカタストロフィーをどのように咀嚼し、解釈できるか」というものだったという。
ところで、「天罰」説の前提は、被害を受ける側に過去、甚大な落ち度や罪状があったということだ。ノルウェーの場合、中国商務部研究員の目からみれば「ノルウェーの反中国路線」が「天罰」を受ける理由だ。一方、被害を受けた側は、第3者から「天罰だ」といわれれば、不愉快どころか怒りだしたくなる。実際、石原都知事もワーグナー神父も「天罰」発言後、各方面から批判を受ける羽目に陥っている。
しかし、「天罰」説の是非は誰もが分らない、大震災やハリケーンを発生させたのは人間ではないからだ。
ただし、現象は同じだが、「天罰」ではなく、「受難」の場合もある。例えば、キリスト教の歴史は「受難の歴史」といわれる。神を信じ、イエスを信奉する者が率先して犠牲となり、迫害されることで歴史を前進させてきた。彼らの受難は決して「天罰」ではない。
ノルウェーの場合、同国を含む世界の人々が、若い青年たちの尊い犠牲を通じて、世界の行く末を真剣に考え出す契機とすれば、それは「受難」となりえる。
大震災や天災で亡くなった人々を「天罰」の犠牲者とするか、歴史を前進させるための原動力でもある「受難」者とするかは、生きているわれわれの動向にかかっているわけだ。
同商務部研究員は「この国(ノルウェー)はいつもダライ・ラマやラビア・カーディル(ウイグル人の人権運動家)、チェチェンのテロリストに肩入れしている。今回の銃乱射事件は恐らく天罰だ」と述べている。
大震災や大事件が発生する度に「天罰」説が流れるが、オスロのテロ事件でも「天罰」説が飛び出したので、少々驚いた。
最近では、東日本大震災の時、東京都の石原慎太郎知事が、「日本人の我欲を洗い落とすための天罰だ」という意味の発言をしている。また、ローマ・カトリック教会のオーストリア教会リンツ教区のワーグナー神父は、米国東部のルイジアナ州ニューオリンズ市を襲ったハリケーン・カトリーナ(2005年8月)について、「同市の5カ所の中絶病院とナイトクラブが破壊されたのは偶然ではない。神の天罰が下されたのだ」と発言し、大きな波紋を投じた。
ちなみに、東日本大震災やハリケーン・カトリーナのような天災となると、人間の思考にも大きな影響を与える。欧州最大級の大震災、ポルトガルのリスボン大地震(1755年11月1日)の時もそうだった。ヴォルテール(Voltaire)、カント(Kant)、レッシング(Lessing)、ルソー(Rousseau)など当時の欧州の代表的啓蒙思想家たちは大きな思想的挑戦を受けた。彼らを悩ましたテーマは、「全欧州の文化、思想はこのカタストロフィーをどのように咀嚼し、解釈できるか」というものだったという。
ところで、「天罰」説の前提は、被害を受ける側に過去、甚大な落ち度や罪状があったということだ。ノルウェーの場合、中国商務部研究員の目からみれば「ノルウェーの反中国路線」が「天罰」を受ける理由だ。一方、被害を受けた側は、第3者から「天罰だ」といわれれば、不愉快どころか怒りだしたくなる。実際、石原都知事もワーグナー神父も「天罰」発言後、各方面から批判を受ける羽目に陥っている。
しかし、「天罰」説の是非は誰もが分らない、大震災やハリケーンを発生させたのは人間ではないからだ。
ただし、現象は同じだが、「天罰」ではなく、「受難」の場合もある。例えば、キリスト教の歴史は「受難の歴史」といわれる。神を信じ、イエスを信奉する者が率先して犠牲となり、迫害されることで歴史を前進させてきた。彼らの受難は決して「天罰」ではない。
ノルウェーの場合、同国を含む世界の人々が、若い青年たちの尊い犠牲を通じて、世界の行く末を真剣に考え出す契機とすれば、それは「受難」となりえる。
大震災や天災で亡くなった人々を「天罰」の犠牲者とするか、歴史を前進させるための原動力でもある「受難」者とするかは、生きているわれわれの動向にかかっているわけだ。