リビア最高指導者カダフィ大佐の腹心の一人、ショクリ・ガネム(Shokri Ghanem)石油相がカダフィ政権に決別し、リビアを出国してチュニジアに逃亡したという情報が入った。その直後(19日)、「同氏がウィーンに向かっている」(オーストリア日刊紙クローネ20日付)との情報が流れた。
オーストリア内務省は20日段階で同氏(68)がウィーン市に亡命してきたことを確認していないが、ガネム氏がウィーンに亡命してきても不思議ではない。音楽の都・ウィーン市と同氏の間にはそれだけの長い付き合いがあるからだ。
ガネム氏のことを少し読者に紹介しよう。中東アラブ諸国の指導者たちが音楽の都ウィーン市を愛する一方、その地勢的利点を巧みに利用して富を蓄積してきたことが分るかもしれない。
石油輸出国機構(OPEC)事務所がまだドナウ水路沿いにあった時代、ガネム氏はOPEC副事務局長(調査局長)を務めてきた。同時に、カダフィ大佐の息子、セイフ・アル・イスラム・カダフィ氏(Saif al-Islam Qadh?f?)のアドバイサーのような立場だった。セイム・イスラム氏が留学中(1998年から2000年までウィーン大学で経済学)、ガネム氏はセイフ・イスラム氏のためにさまざまな雑務をこなしてきたはずだ。
当方は過去2度、ガネム氏と会見したことがある。一度目は2001年11月、ウィーンのOPEC事務所で会見した。同氏はそこで「非OPEC諸国(ロシアやメキシコなど)の協力が価格安定には不可欠だ」と強調した。同氏は会見中、終始、柔和な表情で、語り口も欧米政治家を思わせるほど洗練していたことを思い出す。当方は当時、同氏から「アラブの紳士」のような印象を受けたものだ。
しかし、当方の初印象が間違っていたことは後で分った。アラブ人記者たちから「彼はウィーン市1区のカジノで30万ドルを賭けていた」「その豪遊ぶりはマフィアのボスのようだ」と聞いたからだ。ガネム氏がウィーン市20区にペントハウスを持ち、会社を経営していることも後で判明した。
カダフィ大佐からトリポリに呼び戻された時(同氏はその後、首相にも一時就任)、同氏は「本当はウィーンに留まりたいよ」と吐露するほど、ハプスブルク王朝の香りを残すウィーン市をすっかり気に入っていた(ただし、同氏はオーストリアの銀行ではなく、スイスの銀行に隠し口座を持っている)。2人の娘は当時、ウィーンに留まり、ガネム氏はその後、暫くトリポリとウィーンの間を頻繁に行き来していたほどだ。
リビアでも独裁者カダフィ政権打倒の民主化運動が始まった。ガネム氏は「カダフィ政権と袂を分かつ潮時を迎えた」と判断を下したのだろう。
ガネム氏を良く知る友人記者は「彼は今後の人生を楽しく過ごしていくのに十分な蓄えを既に稼いだはずだ」という。
オーストリア内務省は20日段階で同氏(68)がウィーン市に亡命してきたことを確認していないが、ガネム氏がウィーンに亡命してきても不思議ではない。音楽の都・ウィーン市と同氏の間にはそれだけの長い付き合いがあるからだ。
ガネム氏のことを少し読者に紹介しよう。中東アラブ諸国の指導者たちが音楽の都ウィーン市を愛する一方、その地勢的利点を巧みに利用して富を蓄積してきたことが分るかもしれない。
石油輸出国機構(OPEC)事務所がまだドナウ水路沿いにあった時代、ガネム氏はOPEC副事務局長(調査局長)を務めてきた。同時に、カダフィ大佐の息子、セイフ・アル・イスラム・カダフィ氏(Saif al-Islam Qadh?f?)のアドバイサーのような立場だった。セイム・イスラム氏が留学中(1998年から2000年までウィーン大学で経済学)、ガネム氏はセイフ・イスラム氏のためにさまざまな雑務をこなしてきたはずだ。
当方は過去2度、ガネム氏と会見したことがある。一度目は2001年11月、ウィーンのOPEC事務所で会見した。同氏はそこで「非OPEC諸国(ロシアやメキシコなど)の協力が価格安定には不可欠だ」と強調した。同氏は会見中、終始、柔和な表情で、語り口も欧米政治家を思わせるほど洗練していたことを思い出す。当方は当時、同氏から「アラブの紳士」のような印象を受けたものだ。
しかし、当方の初印象が間違っていたことは後で分った。アラブ人記者たちから「彼はウィーン市1区のカジノで30万ドルを賭けていた」「その豪遊ぶりはマフィアのボスのようだ」と聞いたからだ。ガネム氏がウィーン市20区にペントハウスを持ち、会社を経営していることも後で判明した。
カダフィ大佐からトリポリに呼び戻された時(同氏はその後、首相にも一時就任)、同氏は「本当はウィーンに留まりたいよ」と吐露するほど、ハプスブルク王朝の香りを残すウィーン市をすっかり気に入っていた(ただし、同氏はオーストリアの銀行ではなく、スイスの銀行に隠し口座を持っている)。2人の娘は当時、ウィーンに留まり、ガネム氏はその後、暫くトリポリとウィーンの間を頻繁に行き来していたほどだ。
リビアでも独裁者カダフィ政権打倒の民主化運動が始まった。ガネム氏は「カダフィ政権と袂を分かつ潮時を迎えた」と判断を下したのだろう。
ガネム氏を良く知る友人記者は「彼は今後の人生を楽しく過ごしていくのに十分な蓄えを既に稼いだはずだ」という。