人は年を取ると感動する機会が少なくなるという声も聞くが、本当だろうか。感動は年齢と関連しているとは思えない。年を取れば、経験を積む分、「新しい」という理由から感動することは確かに少なくなるかもしれない。しかし、感動は決して「新しい」とか「初めて」という理由だけで生じるものではないだろう。同じ様な状況下に同じ様な事が生じたとしても、人は感動するからだ。
 前口上はこれぐらいにしておいて、「人はどの時に最も感動するのだろうか」を考えてみた。
 はっきりしていることは、他者のために尽くす人を目撃したり、友人のためにその命をも捨てることができる人に出会った時、人は大きく感動する。
 当方が知り、学んだ範囲でもそのような人がいる。アウシュビッツで家族持ちの収容者を救うために、代わりに自ら死を申し出たマキシミリアノ・コルベ神父(当時46歳)の話はご存知だろう。同神父の話を何度も聞いたが、聞く度に感動を新たにする。「感動」は繰り返しで消耗するものではない。最近では、今年、生誕100年目を迎えた、貧者の救済のために生涯を歩んだカトリック教会修道女、マザー・テレサ(1910年〜97年)の生き方も感動を与える。
 聖人や宗教者の話だけではない。線路に落下した人を救うために自ら犠牲となった青年の話を聞いたことがある。その青年は瞬間の判断で他のために犠牲となった。その前、何を考えていたか、何かしたいことがあったか、知らない。しかし、その“時”他のために犠牲となったのだ。
 年末年始の宝くじに当たり、大金を獲得した人の話は、羨ましく思うことがあっても、感動はしない。健闘して逆転勝利するスポーツ選手の姿は感動を与えるが、他者のために犠牲となった人の話のように心を揺さぶられることは少ない。
 ひょっとしたら、人は、他のために生きるように創られているのではないか、と考える。他を軽蔑したり、批判したり、物を奪ったり、傷つけたりして感動できる人はいないだろう。人は自らを犠牲にしても他者のために尽くした時、最高の感動と喜びを覚える。なんと素晴らしい遺伝子をわれわれは持っているのだろうか。利己的遺伝子ではなく、他者のために生きようとする遺伝子を相続したいものだ。
 イエスは「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と語っている。2000年前、33歳で十字架上で犠牲となったイエスの生涯が今日まで多くの人々に感動を与えているのは、イエスが敵をも愛し、万民のために犠牲となったからだ。