世界に11億人以上の信者を抱えるローマ・カトリック教会の最高指導者、ローマ法王べネディクト16世は17日、駐バチカン法王庁の新イタリア大使を迎えた席で「十字架擁護論」を展開させた。
ドイツ出身のローマ法王は「十字架は誰をも排斥しない。十字架はキリスト教信仰の表現だけではなく、全ての人々に向けられた(神の)善意の表現だ」と強調する一方、「宗教的要素を公共生活の場から完全に追放した社会は発展しない」と警告を発している。
べネディクト16世がわざわざ十字架問題に言及した背景には、ストラスブールの欧州人権裁判所(EGMR)が昨年11月3日、イタリア人女性の訴えを支持し、公共学校での十字架を違法と判決したことに対し、法王自身が立場を明確にしたかったからだろう(イタリア政府は当時、即上訴した。べネディクト16世は新イタリア大使に対し、同国の支援に感謝を表明している)。
正直に言って、ローマ法王の「十字架擁護」は説得力に欠ける。EGMRは判決文の中で「公共学校内の十字架は両親の養育権と子供の宗教の自由を損う違法行為」と述べただけではなく、「十字架は原罪からの救済というキリスト教の教義を象徴したもので、単なる欧州文化のシンボルではない」と指摘している。すなわち、欧州人権裁判所は「十字架」の神学的意味まで踏み込んで、「公共学校内の十字架は欧州人権憲章とは一致しない」と判断したのだ。
それに対し、法王を含む十字架擁護者は「キリスト教は欧州の歴史と文化に密接に関る」(バチカン法王庁のロンバルディ報道官)と説明し、キリスト教=十字架=欧州アイデンティティと主張し、十字架を擁護してきた。しかし、肝心の「十字架の救済論」については言及を避けてきた経緯がある。
EGMRの主張に反論するためには十字架擁護者側も同じ土俵(神学的)に上がって戦わなければならない。「十字架は全てに人々に向けられた神の愛の表現だ。だから、十字架が不可欠だ」という説明では明らかに不十分だ。
それでは、なぜ、法王を含む擁護者たちは神学的観点から十字架の擁護戦線を敷かないのだろうか。「十字架の救済論」が正しいのならば、堂々とそれを主張すべきだろう。それを意図的に回避し続けるならば、「十字架の救済」が事実と合致していないからだ、という指摘が一層、説得力を有してくる。
「十字架の救済」はキリスト教の中心的教えだ。もし、それが間違いであったとすれば、十字架の擁護者がどのように抵抗しようとも、時間の経過と共に、十字架は公共場所から姿を消していくだろう。
ドイツ出身のローマ法王は「十字架は誰をも排斥しない。十字架はキリスト教信仰の表現だけではなく、全ての人々に向けられた(神の)善意の表現だ」と強調する一方、「宗教的要素を公共生活の場から完全に追放した社会は発展しない」と警告を発している。
べネディクト16世がわざわざ十字架問題に言及した背景には、ストラスブールの欧州人権裁判所(EGMR)が昨年11月3日、イタリア人女性の訴えを支持し、公共学校での十字架を違法と判決したことに対し、法王自身が立場を明確にしたかったからだろう(イタリア政府は当時、即上訴した。べネディクト16世は新イタリア大使に対し、同国の支援に感謝を表明している)。
正直に言って、ローマ法王の「十字架擁護」は説得力に欠ける。EGMRは判決文の中で「公共学校内の十字架は両親の養育権と子供の宗教の自由を損う違法行為」と述べただけではなく、「十字架は原罪からの救済というキリスト教の教義を象徴したもので、単なる欧州文化のシンボルではない」と指摘している。すなわち、欧州人権裁判所は「十字架」の神学的意味まで踏み込んで、「公共学校内の十字架は欧州人権憲章とは一致しない」と判断したのだ。
それに対し、法王を含む十字架擁護者は「キリスト教は欧州の歴史と文化に密接に関る」(バチカン法王庁のロンバルディ報道官)と説明し、キリスト教=十字架=欧州アイデンティティと主張し、十字架を擁護してきた。しかし、肝心の「十字架の救済論」については言及を避けてきた経緯がある。
EGMRの主張に反論するためには十字架擁護者側も同じ土俵(神学的)に上がって戦わなければならない。「十字架は全てに人々に向けられた神の愛の表現だ。だから、十字架が不可欠だ」という説明では明らかに不十分だ。
それでは、なぜ、法王を含む擁護者たちは神学的観点から十字架の擁護戦線を敷かないのだろうか。「十字架の救済論」が正しいのならば、堂々とそれを主張すべきだろう。それを意図的に回避し続けるならば、「十字架の救済」が事実と合致していないからだ、という指摘が一層、説得力を有してくる。
「十字架の救済」はキリスト教の中心的教えだ。もし、それが間違いであったとすれば、十字架の擁護者がどのように抵抗しようとも、時間の経過と共に、十字架は公共場所から姿を消していくだろう。