いよいよ11月が始まった。当然だ。10月が終われば、11月が来て、11月が終われば、12月が到来する。「当方氏にとって、何が問題かね」と問われればそうだ。
11月はローマ・カトリック教会では「終末の月」と呼ばれている。天と地が消えうせる、という意味での終末ではなく、イエス・キリストの降臨を控え、全てが新たに生まれ変わらなければならない、という意味でそのように表現する。
1日は「聖人たちの日」(Allerheiligen)であり、翌日の2日は「死者の日」(Allerseelen)だ。だから、教会でも死者を祭り、信者達は墓参りに行く。花屋さんで花を買って、亡くなった親族の墓を参る。生きている人間が死んだ人間と対話する日でもあるわけだ。
1日の「聖人たちの日」はカトリック教国では立派な祝日で、商店も休むが、不思議なことだが、2日の聖人以外の「死者の日」は普通、教会祝日だが、休日ではない。死者の世界でも「聖人」と「そうではない死者」との間で相違があるわけだ。ただし、多くの学校では「死者の日」も休日として休む。
ところで、「終末」といえば、天地異変が起きて、多くの人間が火に焼かれる一方、限られた選民だけが天国に行く、といった考えがかなり強いが、これは大きな誤解だ。
「終末」とは、「悪の支配」時代から「神の支配」へ移行する交差期を意味する。だから、「希望の到来」を迎えるためには必然的に「終末」を迎えざるを得ないわけだ。古きものが去り、新しい価値観が到来する。古い世界観が消滅し、新しいパラダイムが到来する時代だ。
イエスを迎える前はまさに「終末」だった。そして、イエスが再び降臨する時代も同じように「終末」となるわけだ。だから、「終末」の時代に生きている現代人が新しい時代圏の到来を薄々感じながら、それを掌握しきれないことから、一種の焦燥感に悩まされるのはある意味で当然の現象だろう。
「終末の月」を迎え、私達も「終末の時代」の生き方を改めて考えてみても悪くないだろう。
11月はローマ・カトリック教会では「終末の月」と呼ばれている。天と地が消えうせる、という意味での終末ではなく、イエス・キリストの降臨を控え、全てが新たに生まれ変わらなければならない、という意味でそのように表現する。
1日は「聖人たちの日」(Allerheiligen)であり、翌日の2日は「死者の日」(Allerseelen)だ。だから、教会でも死者を祭り、信者達は墓参りに行く。花屋さんで花を買って、亡くなった親族の墓を参る。生きている人間が死んだ人間と対話する日でもあるわけだ。
1日の「聖人たちの日」はカトリック教国では立派な祝日で、商店も休むが、不思議なことだが、2日の聖人以外の「死者の日」は普通、教会祝日だが、休日ではない。死者の世界でも「聖人」と「そうではない死者」との間で相違があるわけだ。ただし、多くの学校では「死者の日」も休日として休む。
ところで、「終末」といえば、天地異変が起きて、多くの人間が火に焼かれる一方、限られた選民だけが天国に行く、といった考えがかなり強いが、これは大きな誤解だ。
「終末」とは、「悪の支配」時代から「神の支配」へ移行する交差期を意味する。だから、「希望の到来」を迎えるためには必然的に「終末」を迎えざるを得ないわけだ。古きものが去り、新しい価値観が到来する。古い世界観が消滅し、新しいパラダイムが到来する時代だ。
イエスを迎える前はまさに「終末」だった。そして、イエスが再び降臨する時代も同じように「終末」となるわけだ。だから、「終末」の時代に生きている現代人が新しい時代圏の到来を薄々感じながら、それを掌握しきれないことから、一種の焦燥感に悩まされるのはある意味で当然の現象だろう。
「終末の月」を迎え、私達も「終末の時代」の生き方を改めて考えてみても悪くないだろう。
