マルティン・ルター(1483〜1546年)は宗教改革者として有名だが、そのルターの妻、カトリーナ夫人については余り知られていない。2009年に出版された最新のルター伝記「マルティン・ルター」(Christian Feldmann 著)を読む機会があったが、そこではルター夫人、カトリーナさんのことが紹介されていた。
聖アウグスチノ修道院の神父だったルターは42歳の時、修道女のカトリーナ・フォン・ボラ夫人(当時25歳)と結婚したことになっている。ルターは人間は善行によって義となるのではなく、信仰で義とされると主張(信仰義認)、教会や修道院生活ではなく、信仰を土台とした生活の重要性を指摘、修道士、修道女には修道院から出て結婚するようにと説得。同時に、多くの修道女の結婚を斡旋したが、最後まで相手が見つからなかった修道女カトリーナさんを哀れに思い、結婚したという(夫人の肖像画をみると、最後まで結婚相手がいなかった女性とは思えないほど、きりっとした知的な女性だ)。
さて、カトリーナさんの本領は結婚してから発揮されていった。家の整理整頓はプロ級。独身時代、ルターは藁袋をベット代わりに利用していたが、カトリーナさんはベットを造り、部屋の中を片付けていった。また、料理はうまく、「宗教改革者は結婚後、太ってしまった」という。
とにかく、カトリーナ夫人は働き者で、毎朝4時には起床して家事を始めた。だから、ルターは夫人を「明けの明星」(Morgenstern)という愛称で呼んでいたという。
ルターとカトリーナ夫人との間には6人の子供が生まれたが、カトリーナさんが忙しい時はルターがオムツ替えをしたり、子供の世話をした。改革者ルターは単にキリスト教会の改革だけではなく、女性蔑視の風潮が強かった当時の家庭生活様式も改革し、現代の共稼ぎ夫婦のような生活を送っていたことになる。
「ルターは教会の改革案『95か条の議題』を提示し、当時教会が抱えてきた問題点に質問状を突きつけ、欧州全土に大きな影響を与えた」ということを学校の世界史で学んできたが、ルターを支えてきたカトリーナ夫人の役割について何も言及がなかったのは配慮を欠いている。
宗教改革者は哲学者ではないので、ソクラテスのような悪妻(クサンティッペ)は必要ではない。ルター夫人は厳しい試練に直面していた夫を最後まで支えた、賢明な女性だった。
聖アウグスチノ修道院の神父だったルターは42歳の時、修道女のカトリーナ・フォン・ボラ夫人(当時25歳)と結婚したことになっている。ルターは人間は善行によって義となるのではなく、信仰で義とされると主張(信仰義認)、教会や修道院生活ではなく、信仰を土台とした生活の重要性を指摘、修道士、修道女には修道院から出て結婚するようにと説得。同時に、多くの修道女の結婚を斡旋したが、最後まで相手が見つからなかった修道女カトリーナさんを哀れに思い、結婚したという(夫人の肖像画をみると、最後まで結婚相手がいなかった女性とは思えないほど、きりっとした知的な女性だ)。
さて、カトリーナさんの本領は結婚してから発揮されていった。家の整理整頓はプロ級。独身時代、ルターは藁袋をベット代わりに利用していたが、カトリーナさんはベットを造り、部屋の中を片付けていった。また、料理はうまく、「宗教改革者は結婚後、太ってしまった」という。
とにかく、カトリーナ夫人は働き者で、毎朝4時には起床して家事を始めた。だから、ルターは夫人を「明けの明星」(Morgenstern)という愛称で呼んでいたという。
ルターとカトリーナ夫人との間には6人の子供が生まれたが、カトリーナさんが忙しい時はルターがオムツ替えをしたり、子供の世話をした。改革者ルターは単にキリスト教会の改革だけではなく、女性蔑視の風潮が強かった当時の家庭生活様式も改革し、現代の共稼ぎ夫婦のような生活を送っていたことになる。
「ルターは教会の改革案『95か条の議題』を提示し、当時教会が抱えてきた問題点に質問状を突きつけ、欧州全土に大きな影響を与えた」ということを学校の世界史で学んできたが、ルターを支えてきたカトリーナ夫人の役割について何も言及がなかったのは配慮を欠いている。
宗教改革者は哲学者ではないので、ソクラテスのような悪妻(クサンティッペ)は必要ではない。ルター夫人は厳しい試練に直面していた夫を最後まで支えた、賢明な女性だった。