南アフリカでサッカーのワールド・カップ(W杯)が開幕して以来、国連記者室で仕事をしていても午後3時(現地時間)になると、落ち着かなくなる。第1試合目が始まる時刻だからだ。昔の記者室には古いが、テレビがあったので、同僚記者と共に試合を堪能できたが、新しい記者室にはテレビがない。インターネットでも試合観戦できるが、どうしても消化不良な気分になってしまう。だから、記者室を早めに脱出し、帰宅することになる。日本チームが国外W杯で初勝利した試合も自宅で見た。試合内容はもうひとつだったが、「勝利は勝利」と喜んでいる。
ところで、アフリカ大陸で初の国際イベント開催といわれた南ア大会をみていて、以下の2点を感じている。一つは、あの耳に突き刺さる南アの民族楽器「ブブゼラ」の音だ。蜂の大群に襲われているような不安感を煽る。当方だけではないらしい。多くのファン、選手まで「あの楽器を止めさせて欲しい」と、国際サッカー連盟(FIFA)に嘆願しているという。ドイツ公営放送はブブゼラの音を抑える消音対策を取っているという。
「アレは南アの文化だ。ホスト国の文化を尊重すべきだ」と、寛大な人もいる。しかし、「自国文化の尊重を求めるならば、その受け手の反応や感情をも尊重すべきではないか」と思う。もしブブゼラの音が相手に不快感を誘発させるとすれが、中止しても「固有文化を放棄」とはならないはずだ。
もう一つ、FIFAのジョセフ・ブラッター会長は昨年6月、南アで開催されたコンフェデレーション・カップで優勝したブラジル・チームが肩を寄せ合いながら祈った行動を「危険だ。サッカーに宗教が関わる場はない」として、今回の南ア大会では宗教的表現を禁止した。
当方はFIFAの決定を支持しない。プロ野球の選手が熱心なキリスト者だったら、バッターボックスに立つ時、心の中で祈るだろう。米大統領が重要な政治決定を下す時、ホワイトハウス内の祈祷室で祈る。宗教、それに基づく言動はその人の全人格の発露だ。ブラジル代表のスーパー・スター、カカ選手(レアル・マドリード所属)はゴールすると神に感謝を捧げるが、その姿を醜い、ましてや「危険だ」と感じるファンが果たしているだろうか。
「世界のスポーツ界は深刻なドーピング問題に直面している。派手なパフォーマンスの背後にさまざまな問題を抱え、苦渋するプロ選手が少なくない。神はスポーツ界にも働きかけていると考えて間違いないだろう。サッカー選手が神様に感謝するように、神様もサッカーを愛しておられるはずだ」(「サッカーを愛する『神様』」2009年8月12日参照)。
「君はブブゼラには反対する一方、選手の祈りには非常に寛大だ。自分勝手な論理ではないか」と指摘されるかもしれない。
読者の皆さん、どうお考えですか。
ところで、アフリカ大陸で初の国際イベント開催といわれた南ア大会をみていて、以下の2点を感じている。一つは、あの耳に突き刺さる南アの民族楽器「ブブゼラ」の音だ。蜂の大群に襲われているような不安感を煽る。当方だけではないらしい。多くのファン、選手まで「あの楽器を止めさせて欲しい」と、国際サッカー連盟(FIFA)に嘆願しているという。ドイツ公営放送はブブゼラの音を抑える消音対策を取っているという。
「アレは南アの文化だ。ホスト国の文化を尊重すべきだ」と、寛大な人もいる。しかし、「自国文化の尊重を求めるならば、その受け手の反応や感情をも尊重すべきではないか」と思う。もしブブゼラの音が相手に不快感を誘発させるとすれが、中止しても「固有文化を放棄」とはならないはずだ。
もう一つ、FIFAのジョセフ・ブラッター会長は昨年6月、南アで開催されたコンフェデレーション・カップで優勝したブラジル・チームが肩を寄せ合いながら祈った行動を「危険だ。サッカーに宗教が関わる場はない」として、今回の南ア大会では宗教的表現を禁止した。
当方はFIFAの決定を支持しない。プロ野球の選手が熱心なキリスト者だったら、バッターボックスに立つ時、心の中で祈るだろう。米大統領が重要な政治決定を下す時、ホワイトハウス内の祈祷室で祈る。宗教、それに基づく言動はその人の全人格の発露だ。ブラジル代表のスーパー・スター、カカ選手(レアル・マドリード所属)はゴールすると神に感謝を捧げるが、その姿を醜い、ましてや「危険だ」と感じるファンが果たしているだろうか。
「世界のスポーツ界は深刻なドーピング問題に直面している。派手なパフォーマンスの背後にさまざまな問題を抱え、苦渋するプロ選手が少なくない。神はスポーツ界にも働きかけていると考えて間違いないだろう。サッカー選手が神様に感謝するように、神様もサッカーを愛しておられるはずだ」(「サッカーを愛する『神様』」2009年8月12日参照)。
「君はブブゼラには反対する一方、選手の祈りには非常に寛大だ。自分勝手な論理ではないか」と指摘されるかもしれない。
読者の皆さん、どうお考えですか。
個人がどんな場面で、どの神に祈ろうと自由だと思います。ただ、宗教とは関係のない場面で、宗教色が強く押し出されて、危険な状況が引き起こされてきたと言う事実も現実にあります。宗教が対立して、非常に多くの命が奪われてきました。過去においても現代においても。宗教心は人の心に強い動機付けを与えます。一致するにしても、対立するにしても。もし、どのチームもそのようにしたなら・・・どんなことが生じるでしょうか・・・・・。世界には、いろいろな宗教があり、中には少々過激なものもあります。敵対関係にある宗教すらあります。そういうものが競争の場に持ち出されることを心配する人は、「危険だ」と考えるかもしれません。もしそういう意図で語られたとするなら、理解はできると思います。理解はできますが、賛成、反対の立場にたつわけではありません。私はワールドカップもオリンピックも興味がないので見ません。ですから中立の立場で『なぜ危険なのだろう』考えて、もしかしたら上記の理由かもしれないと自分なりに推測し、その考えに納得しただけのことです。
スポーツでも、戦場でも、自分たちの側に勝利がもたらされるように人々は祈りますが、私の神は、そのような祈りを決して聞かれない方です。愛の神(ヨハネ第一4:8)、公正な神(申命記32:4.詩篇33:5)、平和の神(コリント第二13:11)だからです。