楽聖ベートーヴェン生誕240周年を記念して生誕の地、ドイツのボンを中心に欧州各地で記念コンサートや関連行事が開かれているが、ベートーヴェンが通算35年間を過ごしたオーストリアでも240周年記念行事が今月24日から7月31日まで音楽の都ウィーン市やニーダーエストライヒ州などで開催される。
オーストリア生まれのモーツアルトやシューベルトの場合、生誕記念行事の開催に問題はないが、一応ドイツ人のベートーヴェンの場合、オーストリア側が率先して大々的に記念行事を開くことに躊躇してしまう。気が引けるのだ。
ウィーンの「ベートーヴェン・センター」が先日、240周年記念行事を紹介する記者会見を開いたが、その際、「ベートーヴェンは1787年、17歳の時に初めてウィーンを訪れ、1792年に再訪し、亡くなる1827年までウィーンに留まっていた。だから、35年間、オーストリアに住んでいた計算になる。もはや心情的には、ベートーヴェンはオーストリア人だ(Herzensoesterreicher)」とわざわざ説明している。こんな説明を聞いていると、「オーストリア側はベートーヴェンの生誕祭を祝うことに少し気兼ねしているな」と直ぐに分かるわけだ。これは典型的なオーストリア人気質だ。
ベートーヴェン研究家によれば、ウィーン市内だけでもベートーヴェン縁(ゆかり)の地は36カ所もある。ベートーヴェンは引越し魔として有名だ。ベートーヴェンの気質や隣人との付き合い方にも問題があったことは間違いないが、30年余り、ウィーンに住んでいる当方の目からみると、ベートーヴェンの引越しは彼の性格だけが原因ではなく、オーストリア側にも責任があるように感じる。オーストリア人、特に、ウィーン市民の気質と密接に関係があるはずだ。
オーストリア人は外面を非常に気にする一方、外国人に対しては一定の距離を置く。会って直ぐに打ち解けることなどできない民族だ。だから、米国人から見たら「冷たい」といった印象を与えるらしい。
「ヒトラーはドイツ人、ベートーヴェンはオーストリア人」と、ウィーンっ子は冗談半分でいう。確かに、ヒトラーの生誕ハウスがあと数百メートル北に位置していたら、そこは独バイエルン州だ。すなわち、立派なドイツ領土だ。だから、「ヒトラーは限りなくドイツ人に近い」といっても大きな間違いではない。一方、ベートーヴェンは生まれはボンだが、その生涯の大部分をウィーンで過ごし、数多くの交響曲を作曲し、そこで死んだ。オーストリア人といって文句は出ないはずだ……、といった思考がどうしても働くわけだ。
それにもかかわらず、ベートーヴェン生誕祭を祝う場合、少し気が引ける。これがオーストリア人だ。外からの批判など無視して堂々と生誕祭を祝えばいいのだが、オーストリア人はそれほど厚顔無恥でも非文化的な民族でもないのだ。ちなみに、ベートーヴェン研究家としても有名なロマン・ロランはその著書「ベートーヴェンの生涯」の中で、「ウィーンは軽佻な街だ」と評している。
【短信】「トリノの聖骸布」展示会が閉幕
オーストリアのカトリック通信が23日、報じたところによると、トリノの大聖堂で開催されていた「トリノの聖骸布」展示会は同日、閉幕する。210万人以上の訪問者があったという。
2000年前のイエス・キリストの遺骸を包んでいた布といわれる「聖骸布」の展示会は先月10日から今月23日まで、イタリア北部のトリノ市で開かれてきた。10年ぶりの聖骸布展示会ということもあって、イタリア各地からキリスト者が大聖堂を訪れたという。約13万人はフランスやドイツなど隣国からの巡礼者だ。ローマ・カトリック教会のローマ法王べネディクト16世も5月2日、トリノの聖骸布展示会を訪ね、その前で祈りを捧げている。
通称「トリノの聖骸布」と呼ばれる布は縦4メートル・35センチ、横1・1メートルのリンネルだ。その布の真偽についてはこれまでさまざな情報があり、多種多様の科学的調査も行われてきた。現時点では、「その布が十字架で亡くなったイエスの遺体を包んだもの」と100%断言はできない。1988年に実施された放射性炭素年代測定では、「トリノの聖骸布」の製造時期は1260年から1390年の間という結果が出ている。
オーストリア生まれのモーツアルトやシューベルトの場合、生誕記念行事の開催に問題はないが、一応ドイツ人のベートーヴェンの場合、オーストリア側が率先して大々的に記念行事を開くことに躊躇してしまう。気が引けるのだ。
ウィーンの「ベートーヴェン・センター」が先日、240周年記念行事を紹介する記者会見を開いたが、その際、「ベートーヴェンは1787年、17歳の時に初めてウィーンを訪れ、1792年に再訪し、亡くなる1827年までウィーンに留まっていた。だから、35年間、オーストリアに住んでいた計算になる。もはや心情的には、ベートーヴェンはオーストリア人だ(Herzensoesterreicher)」とわざわざ説明している。こんな説明を聞いていると、「オーストリア側はベートーヴェンの生誕祭を祝うことに少し気兼ねしているな」と直ぐに分かるわけだ。これは典型的なオーストリア人気質だ。
ベートーヴェン研究家によれば、ウィーン市内だけでもベートーヴェン縁(ゆかり)の地は36カ所もある。ベートーヴェンは引越し魔として有名だ。ベートーヴェンの気質や隣人との付き合い方にも問題があったことは間違いないが、30年余り、ウィーンに住んでいる当方の目からみると、ベートーヴェンの引越しは彼の性格だけが原因ではなく、オーストリア側にも責任があるように感じる。オーストリア人、特に、ウィーン市民の気質と密接に関係があるはずだ。
オーストリア人は外面を非常に気にする一方、外国人に対しては一定の距離を置く。会って直ぐに打ち解けることなどできない民族だ。だから、米国人から見たら「冷たい」といった印象を与えるらしい。
「ヒトラーはドイツ人、ベートーヴェンはオーストリア人」と、ウィーンっ子は冗談半分でいう。確かに、ヒトラーの生誕ハウスがあと数百メートル北に位置していたら、そこは独バイエルン州だ。すなわち、立派なドイツ領土だ。だから、「ヒトラーは限りなくドイツ人に近い」といっても大きな間違いではない。一方、ベートーヴェンは生まれはボンだが、その生涯の大部分をウィーンで過ごし、数多くの交響曲を作曲し、そこで死んだ。オーストリア人といって文句は出ないはずだ……、といった思考がどうしても働くわけだ。
それにもかかわらず、ベートーヴェン生誕祭を祝う場合、少し気が引ける。これがオーストリア人だ。外からの批判など無視して堂々と生誕祭を祝えばいいのだが、オーストリア人はそれほど厚顔無恥でも非文化的な民族でもないのだ。ちなみに、ベートーヴェン研究家としても有名なロマン・ロランはその著書「ベートーヴェンの生涯」の中で、「ウィーンは軽佻な街だ」と評している。
【短信】「トリノの聖骸布」展示会が閉幕
オーストリアのカトリック通信が23日、報じたところによると、トリノの大聖堂で開催されていた「トリノの聖骸布」展示会は同日、閉幕する。210万人以上の訪問者があったという。
2000年前のイエス・キリストの遺骸を包んでいた布といわれる「聖骸布」の展示会は先月10日から今月23日まで、イタリア北部のトリノ市で開かれてきた。10年ぶりの聖骸布展示会ということもあって、イタリア各地からキリスト者が大聖堂を訪れたという。約13万人はフランスやドイツなど隣国からの巡礼者だ。ローマ・カトリック教会のローマ法王べネディクト16世も5月2日、トリノの聖骸布展示会を訪ね、その前で祈りを捧げている。
通称「トリノの聖骸布」と呼ばれる布は縦4メートル・35センチ、横1・1メートルのリンネルだ。その布の真偽についてはこれまでさまざな情報があり、多種多様の科学的調査も行われてきた。現時点では、「その布が十字架で亡くなったイエスの遺体を包んだもの」と100%断言はできない。1988年に実施された放射性炭素年代測定では、「トリノの聖骸布」の製造時期は1260年から1390年の間という結果が出ている。
「1988年の炭素測定の結果については異論が出ています」・・聞いております。88年後もさまざまな見解が発表されていますね。
当方は法王がトリノの展示会を訪れ、その前で祈られたと聞いた時、少々驚きました。その真偽が100%確実ではない聖骸布の前で、イエスの聖骸布と信じて祈るということは、トマス氏が指摘されている「科学と宗教のバランスの取れた付き合い方」なのかもしれませんが・・。
ただし、イエスの生涯とその歩みは、トリノの聖骸布の真偽とはまったく別問題ですね。
今後とも宜しくお願いします。