ドイツの新旧両教会で過去の不祥事が次々と明らかになってきた。既に報じたが、ベルリンのイエズス会系学校で過去、修道僧が100件を越える未成年者への性犯罪を繰り返していたことが発覚したが、バイエルン州ミュンヘンのべネディクト修道院でも同様、修道僧が性犯罪を犯していたことが判明した。聖職者の犯罪が今後も飛び出してくる可能性は十分考えられる。
 一方、ドイツ福音主義教会(EKD)協議会議長、マルゴット・ケスマン監督(ハノーファー福音ルター派州教会監督)は24日、アルコールを飲んだ後、運転して捕まったことを理由に議長職辞任を表明した。同議長は「議長としての権威が失われた」と自ら述べている。
 キリスト教会聖職者の問題だけではない。程度の差こそあれ、政界、スポーツ界、ビジネス界でもこれまで隠されてきた汚点や不祥事が次第に明らかになってきた。換言すれば、既成の権威が積み木の家のように崩れ落ちてきたのだ。
 現代人が感じている“時代の閉塞感”は、古い権威が崩れる一方で、新しい権威を見出せないところから生じるのかもしれない。
 しかし、新しい権威(者)は遅かれ早かれ現れるだろう。例えば、2000年前、「権威ある者」(マルコによる福音書)としてイエスが登場したが、古い権威に生きていたユダヤ社会はその新しい権威を受け入れることができなかった。もちろん、それなりの理由はあった。イエスが語り、行った内容は「モーゼの五書」の内容に反しているように思われたからだ。
 もう一つの例を挙げる。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中でイワンが自作の「大審問官」という題の叙事詩を説明する個所がある。舞台は16世紀のスペイン。恐ろしい異端審問が席巻していた時代だ。キリストが現れてきて多くの奇跡を行う。群集は彼に救いを求める。その状況を見ていた大審問官の枢機卿は顔を曇らして「キリストを捕らえよ」と命令する。牢獄に入れられたキリストの前に大審問官が来て、「お前はキリストだろう。お前にはもう昔言ったことを付け加える権利はない。何故今頃になってわれわれの邪魔をするのだ。われわれはもはやお前にではなく、彼(悪魔)についているのだ。これがわれわれの秘密だ」(新潮文庫「カラマーゾフの兄弟」原卓也訳)という。
 「イエスの生涯」と「イワンの叙事詩」は非常に重要な内容を含んでいる。新しい権威(者)が現れた時、同じ様なことが起きるかもしれないのだ。
 「新しい権威」と標榜し、登場した者が既成の権威から歓迎されるのを聞いた時、警戒しなければならない。新しい権威(者)は既成の権威(者)から歓迎されることはないのだ。「歓迎される」とすれば、それは古い権威の中に留まっていることを証明するだけだ。
 逆に、多くの迫害、弾圧、中傷、誹謗を受ける者が登場した場合、われわれは注意しなければならないだろう。ひょっとしたら、その者こそ新たな「権威ある者」かもしれないからだ。