ローマ・カトリック教会の聖職者による性犯罪の多発で教会への社会的信頼は大きく揺れてきたが、神父や修道僧の不祥事の多発に業を煮やしたわけではないだろうが、ローマ法王べネディクト16世は18日、ローマ教区で神父たちを前に「神父はかくあるべき」と説教をしている。
 ベネディクト16世は新約聖書の「ヘブル人への手紙」を引用しながら、「社会のために倦む事なく努力してほしい。神父の聖業は決してパートタイマーではない」と強調し、「神父たちは常に悩める人々の側に立ち、神と人間の仲保者でなければならない。神父たちは苦悩と痛みを背負ったキリストに似るべきだ」と語っている。
 教会の信頼失墜とも関連し、神父不足が深刻だ。世界的には依然、アフリカやアジア地区で聖職者数は微増しているが、欧州では神父が一人もいない教区すらあるほどだ。例えば、欧州カトリック主義の模範国だったポーランドではカトリック教会の聖職者の数や聖職者候補(神学生)の数が減少してきている(参照「ポーランドで神学生の数が急減」2008年1月29日)。
 聖職者不足だからといって、「誰でもいい」というわけにはいかない。ウィーンの神父養成セミナーでは、聖職者の性犯罪を事前防止するため神父候補者たちの精神分析を実施している。そのポイントは、「性生活の統合」、そして「ストレスへの耐久力」だ。神父という職業への適正検査だ。
 当方は20代の時、日本の田舎のカトリック教会の神父さんにお世話になったことがある。神父さんは既に50歳を超えていたと思う。教会にいくと、すごく歓迎され、夕食を招待されたりもした。当方が帰ろうとすると、「もう少し、話がしたい」といって、引き止められたものだ。夕拝が終わり、信者たちが帰ると、ガランとした教会に一人立っている神父さんの周辺から「孤独」が溢れ出ていたことを思い出す。
 神父職は神への召命感によって裏づけされたものだが、実際の生活では「孤独」に強くなければ全うできないだろう。それにしても、カトリック教会の「聖職者の独身制」は非情な制度だ。神がそのことを願っておられるとは、どうしても考えられない。