イタリアの世界的テノール歌手、故ルチアーノ・パヴァロッチさんが歌うフランツ・シューベルトの「アヴェ・マリア」を繰り返し聴いた。聖母マリアを慕う切ないまでの心情が当方にも伝わってきた。
 当方はキリスト教の「聖母マリア信仰」に対し、「俗信仰」と一蹴し、カトリック教会の祝日「聖母マリアの被昇天」に対しても軽視してきた面があった。しかし、パヴァロッチさんの「アヴェ・マリア」を聞いて、「聖母マリアが素晴らしい女性であったかどうかは本来どうでもいいことだ」と思うようになった。
 明確な点は、欧州キリスト教会では「聖母マリア」を必要としたのだ。それが実存か、そうでないかはもはや大きな問題ではない。重要なことは、多くのキリスト者たちは日々の苦しい生活を乗り越えていくために「聖母マリアのような存在」を必要とした、という事実だろう。
 狩の社会、弱肉強食の社会で生きる人間にとって、その痛み、悲しみを慰労してくれる存在がどうしても不可欠だ。「こうあるべきだ」「こうすべきだ」といった命令する神ではない。人間の弱さを許し、抱擁してくれる存在だ。それがキリスト教社会では「聖母マリア」だった。「聖母マリアの存在」がなければ、キリスト教は世界宗教へ発展できなかったのではないか。
 ポーランドで聖母マリア信仰が強い背景には、外国勢力に過去3度、領土を分割された民族の歴史がある。民族の痛みを癒してくれる母親として聖母マリアを他の民族以上に崇拝してきたのだ。ある意味で、「必要は発明の母」だ。ピウス12世が1950年、「聖母マリアの肉身被昇天」を宣言して以来、聖母マリアの「第2キリスト論」が教会内で囁かれるようになったほどだ。
 作家の故遠藤周作氏が「父性の神」ではなく、「母性の神」を模索していったように、厳しい人生を生き抜くうえに「聖母マリア信仰」が大きな力となったことは間違いないだろう。
 キリスト教神学から「聖母マリア信仰」を議論する必要はないだろう。繰り返すが、われわれが「聖母マリア」を必要としているのだ。このように考えれば、当方は「聖母マリア信仰」と和解できるように感じる。
 付け加えるならば、「神の存在」云々もある意味で同様かもしれない。神がわれわれを必要としているかは不明だが、われわれが神を必要としていることは確かだ。公平で正義の神だ。「神は死んだ」というならば、われわれは何を差し置いても神を復活させなければならない。