新年、おめでとうございます。
日本にいれば、年末年始は超多忙だろう。ゆっくりと過ぎ行く一年を振り返り、新しい年の決意を固める、といったことも年々難しくなってきたのではないだろうか。
その点、欧州に住む当方の年末年始はゆったりとしている。クリスマスが過ぎれば、新年を迎えたような気分だ。元旦といっても特別なことはない。大晦日(Silvester)、多くの国民は町に飛び出し、ダンスを踊り、爆竹をならしながら、陽気な気分で新年を迎える(欧州に住んでいると、別の意味で「ゆっくりと内省し、新年を迎える」といった雰囲気に欠ける)。
さて、2010年の最初のテーマとして、「先送りできないイエスの再臨問題」を選んだ。
ローマ・カトリック教会最高指導者、ローマ法王べネディクト16世はクリスマス前、サンピエトロ広場に集まったドイツからの巡礼者たちに、「主は近い。主はわれわれを救うために来られる」と呼びかけた。べネディクト16世は2000年前に十字架で亡くなったイエスが霊的に降臨され、悩める信者たちを鼓舞し、病める人を癒されると言いたかったのだ。もちろん、イエスの霊的降臨はクリスマスの日だけに限ったことではない。敬虔な信者ならばイエスのプレゼンスを常に身近に感じている。霊的降臨はイエスが十字架で亡くなった直後から今日まで、常にあったことだ。
ここでは、イエスの再臨問題に焦点を合わせる。聖書を読むと、イエスは「私はもう一度来る」(マタイ16章)と再臨を約束している。だから、イエスの再臨問題は本来、キリスト信者にとって最も重要なテーマだ。しかし、不思議なことに、キリスト教会では再臨問題が議論されることは少ない。というより、避けてきたテーマだ。
それなりに理由はある。マタイ福音書16章には「再臨の日とその時は、天使もイエスも知らない」と書かれているからだ。再臨問題を考えること自体が無駄だ、というわけだ。それだけではない。偽メシアが出現し、世の中を混乱に導く危険性があるからだ。また、「再臨を叫ぶのは新しいキリスト教グループ(セクト)だけだ」と指摘する声が聞かれるほどだ。だから、あえて、「いつ、どこにイエスが再臨するか」を議論しないようにしてきたわけだ。ちなみに、神学界でも再臨問題では、「霊的再臨」か、2000年前のイエスの初臨と同様、「肉身再臨」かで意見が分かれているのは実情だ。
しかし、イエスの再臨問題をこれ以上、先送りできない時点にきている。欧州のキリスト教社会で見られる「十字架論争」はこれまで救済のシンボルと信じられてきた「十字架」の賞味期限が到来していることを暗示している。「時のしるし」(イエス)を見落としてはならないだろう。
イエスはいう。「私は盗人のように来る」と。そして「私が来る時、地上に信仰が見られるだろうか」(ルカ福音書17、18章)と吐露し、再臨時に多くの迫害を受けると示唆している。
イエスが「雲」に乗って再臨されると信じるキリスト信者が多いが、イエスが「雲」に乗って現れれば、「盗人のように」とはいかなくなる。「雲」に乗って登場したイエスはテレビで中継されるだろう。全世界の人々が目撃できる。また、「迫害され、否定されるだろう」というイエスの預言はどうなるのか(「雲に乗って」という超自然現象を目撃した人々が果たしてイエスを迫害できるだろうか)。
イエスの再臨予言が矛盾なく理解できる唯一のシナリオは、イエスの初臨時と同様、肉身降臨される場合だけだ。その場合、多くの信者は再臨主に対して、2000年前と同じように、石を投げ、非難を浴びせるだろう。このようにして、イエスの預言は成就されることになるわけだ。
それでは、久しく再臨のイエスを待ち望んできたキリスト者たちがどうして再臨主を迫害するのか、という疑問が出てくる。イエスを迫害したユダヤ人たちは当時、敬虔なユダヤ教徒であり、社会のエリート層に属する人々たちだった。2000年前のイエスが再臨するのか、それともイエスの使命を継続した人物がメシア(救い主)として降臨するのか、等々、多くの問題が山積している。
以上、キリスト教の神学的問題点を少し紹介した。
2010年以降、「イエスの再臨問題」が急速に浮上してくるだろう。新年は読者の皆さんと共に、再臨問題について考えていきたい。
日本にいれば、年末年始は超多忙だろう。ゆっくりと過ぎ行く一年を振り返り、新しい年の決意を固める、といったことも年々難しくなってきたのではないだろうか。
その点、欧州に住む当方の年末年始はゆったりとしている。クリスマスが過ぎれば、新年を迎えたような気分だ。元旦といっても特別なことはない。大晦日(Silvester)、多くの国民は町に飛び出し、ダンスを踊り、爆竹をならしながら、陽気な気分で新年を迎える(欧州に住んでいると、別の意味で「ゆっくりと内省し、新年を迎える」といった雰囲気に欠ける)。
さて、2010年の最初のテーマとして、「先送りできないイエスの再臨問題」を選んだ。
ローマ・カトリック教会最高指導者、ローマ法王べネディクト16世はクリスマス前、サンピエトロ広場に集まったドイツからの巡礼者たちに、「主は近い。主はわれわれを救うために来られる」と呼びかけた。べネディクト16世は2000年前に十字架で亡くなったイエスが霊的に降臨され、悩める信者たちを鼓舞し、病める人を癒されると言いたかったのだ。もちろん、イエスの霊的降臨はクリスマスの日だけに限ったことではない。敬虔な信者ならばイエスのプレゼンスを常に身近に感じている。霊的降臨はイエスが十字架で亡くなった直後から今日まで、常にあったことだ。
ここでは、イエスの再臨問題に焦点を合わせる。聖書を読むと、イエスは「私はもう一度来る」(マタイ16章)と再臨を約束している。だから、イエスの再臨問題は本来、キリスト信者にとって最も重要なテーマだ。しかし、不思議なことに、キリスト教会では再臨問題が議論されることは少ない。というより、避けてきたテーマだ。
それなりに理由はある。マタイ福音書16章には「再臨の日とその時は、天使もイエスも知らない」と書かれているからだ。再臨問題を考えること自体が無駄だ、というわけだ。それだけではない。偽メシアが出現し、世の中を混乱に導く危険性があるからだ。また、「再臨を叫ぶのは新しいキリスト教グループ(セクト)だけだ」と指摘する声が聞かれるほどだ。だから、あえて、「いつ、どこにイエスが再臨するか」を議論しないようにしてきたわけだ。ちなみに、神学界でも再臨問題では、「霊的再臨」か、2000年前のイエスの初臨と同様、「肉身再臨」かで意見が分かれているのは実情だ。
しかし、イエスの再臨問題をこれ以上、先送りできない時点にきている。欧州のキリスト教社会で見られる「十字架論争」はこれまで救済のシンボルと信じられてきた「十字架」の賞味期限が到来していることを暗示している。「時のしるし」(イエス)を見落としてはならないだろう。
イエスはいう。「私は盗人のように来る」と。そして「私が来る時、地上に信仰が見られるだろうか」(ルカ福音書17、18章)と吐露し、再臨時に多くの迫害を受けると示唆している。
イエスが「雲」に乗って再臨されると信じるキリスト信者が多いが、イエスが「雲」に乗って現れれば、「盗人のように」とはいかなくなる。「雲」に乗って登場したイエスはテレビで中継されるだろう。全世界の人々が目撃できる。また、「迫害され、否定されるだろう」というイエスの預言はどうなるのか(「雲に乗って」という超自然現象を目撃した人々が果たしてイエスを迫害できるだろうか)。
イエスの再臨予言が矛盾なく理解できる唯一のシナリオは、イエスの初臨時と同様、肉身降臨される場合だけだ。その場合、多くの信者は再臨主に対して、2000年前と同じように、石を投げ、非難を浴びせるだろう。このようにして、イエスの預言は成就されることになるわけだ。
それでは、久しく再臨のイエスを待ち望んできたキリスト者たちがどうして再臨主を迫害するのか、という疑問が出てくる。イエスを迫害したユダヤ人たちは当時、敬虔なユダヤ教徒であり、社会のエリート層に属する人々たちだった。2000年前のイエスが再臨するのか、それともイエスの使命を継続した人物がメシア(救い主)として降臨するのか、等々、多くの問題が山積している。
以上、キリスト教の神学的問題点を少し紹介した。
2010年以降、「イエスの再臨問題」が急速に浮上してくるだろう。新年は読者の皆さんと共に、再臨問題について考えていきたい。
